(6)受精卵診断

 果歩のクリニックでちょっとした事件があって、医院長がテレビで会見する様子が映像で流された。果歩は医院長をあまりよく言わなかったが、果歩から聞いていたイメージとは違って数段紳士であった。翔子は人の言うのをそのまま聞くものではないと思った。

 その事件とは専門の学会の承認を得ないまま、流産の経験がある女性20人に体外受精を行い、出来た受精卵を体内に戻す前に調べる〈受精卵診断〉を実施していたことが問題とされたのである。多分、どっかの産科のやっかみの告げ口だろうとは果歩の言であった。


 医院長は「高齢で妊娠して流産してしまう人には、染色体に異常があるケースが多いのです。流産を繰り返すことで不妊になる人もいて、少しでもそういう人を減らすために、体外受精による受精卵を診断して、染色体に異常のない受精卵を母体に戻している」と話した。

 また、受精卵診断について、日本産科婦人科学会が、重い遺伝性の病気などに限り、学会の承認を得たうえで行うよう指針で定めていることについて、「医療技術は、国民にオープンにして、それを選択するかしないかは国民が考えていくべきだと思います。学会として乱用を防ぐ意図は分かるのですが、それがあまりにも厳しくて、患者が恩恵を受けられないのは改めるべきだと考えます」と医院長は語った。


 受精卵診断は、「命の選別につながる」という批判があることから、日本産科婦人科学会は、重い遺伝性の病気などに限り、学会の承認を得たうえで行うよう、指針で定めている。医学の進歩は日進月歩のスピードである。その中でも驚かされるのは猛烈な勢いで進む生殖医療技術である。つい最近、学会をにぎわわせた新しい技術が、あっという間に医療の現場ではあたりまえの「治療」になってしまう。

 

 それについて果歩と翔子は論議を交わした。

「こんな患者さんがいたわ。不妊治療で二人子供が授かったのね。二人とも女の子だったの。『3人目にどうしても男の子が欲しいが、着床前診断で男女の産み分けが出来ると聞いてきたのですが』と医院長に言ったのね。『不妊治療をしても授からない人も多いのですよ。性別関係なく、お腹で成長する赤ちゃんに幸せを感じませんでしたか?もう一人欲しいではなく、性別でいる、いらないなんて・・貴女は二人の子を授けてもらった感謝を忘れてしまったのですか!』と、医院長えらい剣幕なの。滅多に怒らない人なのにね。この時だけは惚れちゃった」と果歩。

「タイとか外国に行けば可能なんでしょう。神戸のクリニックでもやったって報道されていなかった?」と翔子。

「どんな技術でも両面あるわよね。いい方に使うか悪い方に使うかは、医師ばかりでなく利用する人にかかっているのね」

「着床前診断が産み分けに使われるのは問題だとしても、人工妊娠中絶が認められている今、どうして問題視されるのかわからない」と翔子。

「人工妊娠中絶そのものが矛盾なのね。刑法では殺人罪。母体保護法の特例法がこれに優先し、経済的理由が認められて人工妊娠中絶を縛るものは法的には無くなった」


果歩は続けた。「私は思うの。科学の進歩は防ぐことが出来ない。仮に禁止しても知識は残ってしまうわ。それを消すことは出来ない。例えば核兵器。兵器は廃絶しょうと思えば可能だけど、知識までは全廃出来ないのよね。いつでも都合によって復活できるわ。国が規制。あなた核兵器を作ったのは国家よ」

「じゃー、お母さんはどうすればいいと言うの」

「命の線引きを国家がすべきでないと思うの。それに携わる者や、利用して恩恵を受けるものが議論して決めて行けばよいとしか言えないわ」

「さっきの話じゃないけれど、恩恵を当たり前に考えて、次を欲求するところに問題があるのね」

「一つ言えるのは堕胎を認めておいて、命の選別を言っても仕方がないということね」

「でも、今の人工妊娠中絶は、それはそれとして暗黙の了解として機能している」と翔子。

「私は思うの、やたら禁止したり、規制して地下に潜らせてしまうことが一番いけないと思うの」は果歩の意見であった。


 翔子は果歩から話を聞いていて、子供を欲しいという切実な希求は人間として当然なことだし、不妊治療はあって然るべきだし、その効果を最大に考えれば着床前診断の技術は不可欠であると思っている。ただ、過度な応用には一定の節度を持つべきだと考えている。

 不妊治療の大変さは果歩から常々聞いていたので、〈一滴の一発〉は翔子には奇跡としか考えられなかったのである。武史の精子に感謝した。


 避妊もしなかったのに3年過ぎても子供が出来ない。「不妊治療を受けて子供を授かろうか」と、翔子が何気なく言った時の武史の予期しない反応に翔子は驚いた。

「ちゃんと、寛子も授かったじゃないか。子供は授かりものと言う。不妊治療してまでなら僕はいらないよ」とムキになって云ったのである。翔子は驚いたが、その言葉は翔子の気持ちを軽くしてくれたのである。

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