(3)不妊治療

 裕美は「夫婦間で正常な営みを過ごしていて、2年経つにも関わらず子どもに恵まれない場合を不妊症というのよ。正常な夫婦の80%は結婚後1年以内に、残る20%のうち10%は2年以内に妊娠すると一般的にいわれているの」と云って、産科の不妊治療に通うようになった。


「子供は授かりものと言うではないか」的なことを言うと、とたんに機嫌を悪くした。子供が欲しいのだろうが、何かそれすら脇に置いて、妊娠しないことが自分の女としての存在に係わるように、妊娠することそのものが目的化した。全ての生活はその1点に集約された。

 不妊症の原因として、女性側と男性側によるものとが考えられが、女性側によるものがおよそ1/3、男性側1/3、両者によるものが1/3と一般的に言われており、決して女性側に多いというものではないそうである。

 男性側の原因の多くは、精子がなかったり、すくなかったり精子に関する原因が殆どなのに対して、女性は卵巣、卵管、子宮などさまざまなところで原因を有することが多いのだそうだ。だそうだとは裕美のレクチャーの結果知ったことで、武史が積極的に知ろうとしたことではなかった。裕美は武史に産科に一緒に行くように言った。


生物部の例を取って「俺は元気な精子が一杯あった」と産科に行くことを断った。「子供は女だけが作るものではないのよ」と裕美は云ったが、武史は原因が自分の方にあると聞かされたときのショックを思った。なにしろ30%の確率はあるのである。それと子供が出来て結婚することに躊躇しだしたのだった。裕美の過度なる集中する性格に恐れを感じ出したのである。

武史はどちらかと云うとマーマー主義であった。仕事での成績は可もなく不可もなくであったが、裕美に随分と助けられての上である。助けがなかったら、課長からのお叱り組に入っていた確率が高い。


二人の上司、課長の西野隼雄はS銀行の西宮支店係長であり、新しく出来た横浜支店の課長に抜擢された。S銀行に取っては、横浜支店は関東進出の拠点となる大事な支店で、その課長に抜擢されたということは、次長そして支店長が約束されたのも同然であった。それには実務能力抜群の裕美が欠かせなかった。仕事上以外にも愛人として裕美の肉体は離せなかったのである。

 裕美の横浜支店勤務は西野の強引な半ば命令であった。裕美は高卒で入行したのであるが、入行当時より規模を拡大したS銀行には今では到底入れないものと思われた。銀行業務以外に特別な能力があるとも思われなかった。西野の転勤を機会に不倫の関係を精算出来ると思っていたのだが、S銀行を辞めたくなかったら、辞令に従うしかなかった。マンションは父親が生前贈与だと半分出してくれ、後をS銀行の特別ローンで組んで買ったものであった。


 西野とは別れたかった。武史を見て仕事を手伝ったのにはそんな意味もあった。武史の銀行マンらしくない野放図なとこが気に入ったのだった。横浜に来て西野とは切れなかったが、不倫の世界では先が見えなかった。又、出世階段を登っていく西野がどこか尊大な態度を身に付けて行くのも好きでなかった。誠実に仕事をこなす係長時代の西野の方が数段魅力的に思えた。

 武史と同棲したのをきっかけに、裕美は態度をはっきりとして、「お仕事だけの関係にして欲しい」と西野に告げた。西野も関係が漏れて出世階段にヒビが入ってもいけないと思ったのだろう、意外と簡単に受けてくれた。そうなると何だか余計に銀行に居づらいように裕美には思われてきた。


 武史と暮らしだして、波長が合うことがわかった。結婚したいと思った。昔気質の父や母に「女の適齢期は25までやで」と教えられ育った。2、3年もしたら30になってしまう。裕美は焦った。なんとしてでも子供を産んで結婚したいと思った。ウエディングドレスよりも、子供を抱えた姿の方が先になってしまった。

 努力して2年、裕美の身体に問題はないと医師は太鼓判を押した。一緒に真剣に立ち向かってくれない武史に苛立ちを覚えた。そして何より進歩のテンポが早くなった銀行業務について行けなくなってきた自分を感じて、裕美は焦燥感に囚われ出していた。かつてのキャリアガールは、銀行を辞めて、結婚して落ち着きたい気持ちに大きく傾いたのである。


藤田裕美は一度妊娠し、西野の子供を堕している。あのお腹の中で「ピクッ」と命が初めて動いた時の感触は男性にはわからないもだと思う。産む、産まないは次の問題である。やはり、命が動いたことには感動があり、母なる女性を感じるはずである。

 裕美は感動し、そして困惑した。「父や、母に言えない」が、まず浮かんだ。西野はどう言うだろう。産んだとしてその後どう育てていく?まだ20才を過ぎたばかりの裕美には重い課題だった。


 西野は予想したように、戸惑い、そして堕して欲しいと懇願した。逆らうだけのものは裕美にはなかった。「産みたい」と思った。「産めないような命を作った」自分を責めもした。私の躰をあんなに愛おしみながら、躰に宿ったものを男は無視すると思った。

 武史も同じだ。私の躰をあんなに・・、だのに私の躰に命を宿そうとしているのに他人事だ。骨折して退院してからは何だか変。前は消極的ながらも協力してくれた。

拒否だけならまだしも、「俺は卵子に翻弄される精子ではない!」とは何ごと。

西野も、武史も『許せない』と裕美は思った。


 食卓の上に1通の白い封筒があった。

「武史、サヨウナラ。このマンションは売りました。1週間の猶予は契約に入っています。銀行から5千万円無断で頂きました。多分、課長が伏せるでしょう。今、部下の不祥事は彼にとって傷になるでしょうから。頑張って仕事してください。忘れてた、大事な報告があります。あなたの精子を無断ですが病院で検査して貰いました。精子はあるが、精子に問題があると言われました。私にはなんの問題もないということです。確認の受診を勧めます」

 武史は裕美が出ていったことより、最後に書かれている内容がショックだった。あてつけに言ったのではあるまい。受診を勧めているぐらいだから・・、俺の精子は不完全ということか?武史には裕美の勧告に従う勇気はなかった。


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