長い日曜日

 気だるい空気の中、目が覚める。

 寝汗を吸ってしっとりとした布団。外から聞こえる竿竹売りの声、薄っぺらいカーテンから漏れている光が既に時間が正午近いことを示していた。

「……あー」

 呻きだか溜息だかわからない声を出し、あたしは布団の中で軽く伸びる。二度寝するか否か頭の中でぬるく検討した結果、明後日は台風が来ると昨晩のニュースで言っていたのを思い出した。

「洗濯しなきゃ……」

 誰もいない部屋、自分に言い聞かすように呟いてゆっくり起き上がる。

 傍らに脱ぎっぱなしの洋服を抱えて洗面所へ。洗濯機に放り込んで蓋をした。スイッチオン、電子音でモーツァルトのソナタの一節。何でもかんでもモーツァルトにすればいいと思うなよ。

 歯を磨きながら正面の鏡に映る自分を見つめる。ふと手を止めて。

 ……長い長い日曜日はいつ終わるのか。


 会社を辞めたのはごくごく個人的な事情だった。

 大学を出たものの三年生のうちから活動していた就職活動は実を結ばなかった。結局派遣会社に登録をして短期勤務を何回か繰り返した後、まじめな勤務状態が認められ一年後にやっと長い契約を結ぶことができた。

 けれど。客との衝突、社員との衝突。同僚達は自分と同じく派遣社員で、プライベートでの交流を好まない。三年間頑張ったが、そのうちに腹部が痛むようになり眠れなくなり、ようやくかかった医者の診断は『十二指腸潰瘍』だった。

 診断結果を告げたときの派遣先の上司の視線は冷たかった。クビにされることはなかったが、何となくここらへんが限界だと思った。おずおず申し出た退職願いはあっさり受諾された。

「……代わりはいくらでもいるもんね」

 既に会社を辞めて一週間。実家の『帰って来い』という声を無視して三年間がむしゃらに仕事を続けてきた身としては、罪悪感が募るばかりだ。

 一ヵ月後あたりに取りかかれる仕事を見つけてくれと頼んではあるが、このご時世一社では心許ない。また就職活動するか、他社への登録を増やすか……

 そんなことを考えつつも冷蔵庫の中を覗く。

 その時別の電子音が鳴った。洗濯終わりの合図。

 先に洗濯物を乾してしまえ。冷蔵庫をばたんと閉め、あたしは洗面所に向かった。


 空は嫌味なほど青い。

 湿気の強い空気を感じながら、洗濯物を思いの丈をこめて八つ当たり気味に引っ張りながら乾していく。最後に残ったチノパンを高い物干し竿に引っ掛けた。

 金属音が鳴った。

 ポケットに何か入ってたんだ。ベランダから身を乗り出して下を覗きこむ。

 茶色いレンガ模様の中銀色がきらきら放物線を描きながら跳んで──舗道を歩く人に吸い込まれた。

 途端にしゃがみこむその人。

 ぎゃああああああっっ。心の中で絶叫を上げながらあたしは狭い我が家を駆け抜け玄関を飛び出し、外へ向かった。


 非常階段を駆け下りて舗道にたどり着いたとき、スーツを着たその人はまだその場に座り込んでいた。眼鏡を持った右手で軽く目尻を押さえている。

「だいじょーぶですか!」

「大丈夫です……多分」

 寄ってきたあたしに彼は気付いて立ち上がる。眼鏡をかけ直したその姿はかなり若く見えた。

「何か上から降ってきて……それが目と眼鏡の間に入って」

 言われてあたしは付近を見回す。植え込みのそば、きらっと光るものが目に入ったのでそれを拾った。

 ……百円玉。

「ごめんなさいっっ」

 ズボンの裾を払っている彼に勢いよく頭を下げる。怪訝な顔をして彼は訊ねた。

「何がです?」

「あたし、そこのアパートの三階に住んでいて……さっきそこのベランダで洗濯モノを乾していて──そのときに、これが跳んだんです」

 掌の百円玉を彼に示す。

「落ちたのに気がついて下を見たら、貴方が座り込んだので……」

 彼はああ、と言って笑い顔を見せた。改めて見ると、ハンサムではないものの優しい顔立ちの人だった。

「大丈夫ですよ。驚いただけで怪我もなかったですから」

「でも……」

「植木鉢だったら、死んでたかもしれませんけど」

 慰めてくれているつもりなのか、にっこりと笑いながらそんなことをいう。いや、洒落にならないんだけど。

 その途端。何かが割れる音がした。

 大きく響いた音を、二人して同時に見る。

 進行方向数メートル先に、砕けた植木鉢。そのまま視線を上にスライドすると、マンションの十階あたりのベランダで慌てふためいているおばさんの姿。

「……」

「……あはははー」

 彼が乾いた笑い声を上げる。

「加害者転じて命の恩人ですねー……て、もしもし?」

 はっ。いかん。放心してしまった。

 とりあえずよかった。よかったけど……

「あの」

「す、すいません、あのですねっ」

 何故ここで涙が出るんですか。あたしが。

「何だか今とってもほっとして、そしたら涙がですね」

 家から飛び出してきたため、ハンカチなどという気の利いたものを持っておらず、パジャマの袖口で目を拭う。

 ……パジャマ?

 あの、気付きませんでしたがワタクシ今までこの恰好で外に出てこのヒトと話してましたとのこと?

 頭が沸騰する。恥ずかしい。恥ずかし過ぎる。

「あなた、いい人ですねぇ」

 気付けば目の前の彼は必死に笑いをこらえている。

「あ、あああああのっ」

 逃げ出したいのはやまやまなれど、この人に迷惑をかけたという気持ちがブレーキをかける。

「お詫びさせてくださいっ」

「え?」

 すこし涙目気味に彼は訊ね返す。

「今回たまたまだいじょーぶでしたけど、下手したら怪我をさせてしまったかもしれませんし」

「いいですよ。実際に怪我しなかったですし」

「でもご迷惑かけてしまったのは間違いないところですし」

「大丈夫ですよ」

 穏やかに笑う彼。あたしはふたたび『でも』と言いかけて思いとどまる。

 スーツ姿。ということはこの人は間違いなく仕事中ということで。

「ああ……お急ぎですよね……」

 肩が落ちる。情けない。

 軽く息をつく音がする。

「急いでもいないんですけどね……それよりご自宅のほうは大丈夫ですか?」

「はい?」

 思いっきり顔を上げる。

「その分じゃ、家の鍵もかけてきていないんじゃないですか?」

 思考停止。……そうかもしれない。ああああ、どうしよう。

 パニくっているあたしを見て『落ち着いて』と彼が言う。

「じゃ、こうしましょう。僕、ここで待ってますから。だから、着替えて家に鍵かけてまた出てきてください。そして」

 彼は握り締めたあたしの拳を指差して言った。

「その百円で僕にジュースでもおごってくれませんか?」

「……はい」

 優しく笑うその人に、あたしは情けない声で答えた。


 空は嫌味に青い。

 けれど、こんな日曜日も悪くない。

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