しづこころなく
──今年も吉野には行けそうにない。
23時。私は夜の公園に向かって歩いていた。家から公園までは徒歩5分程。
静まり返った住宅街の中を一人、大通りへと向かっていく。
学生時代に軽い気持ちで訪ねた吉野に魅せられて数年。予算と都合さえ合えば、毎年吉野の桜に会いに行っていた。
だが、就職と同時に引っ越した東京からは片道5時間。まず1泊しなければ落ち着いて桜と語り合う余裕すらない。
今年も会社には有給を申請してあったのだが、月の締めが近いということであっさり却下された。予測はしていたので大したショックは受けなかったけど、何か物足りない気分は否めない。友人を誘って多人数の花見も悪くないけど、どうしてもイベント的な花見には酒が付いて回る。
ということで、真夜中の花見を敢行することに決定したのだった。土日は花見客でごった返す公園のスペースだが、平日のこの時間には流石に会社帰りのサラリーマンが時たま通るくらいだ。
着いた。
私は『それ』に視線を遣る。
公園の真中に陣取る枝垂桜。樹齢百歳以上とも言われている。丁寧に手入れされているが大きく横に伸びた自らの枝を支えることが出来ず、杖代わりの細い鉄柱が腕をとるように地面からにょっきり生えていた。
「こんばんは、ヌシ」
挨拶する。私は何となくその樹を『ヌシ』と呼んでいた。
吉野の桜が遠方の友達というならば、『ヌシ』は近所の茶のみ友達という感じだ。
そのままちょっと離れたベンチに腰掛ける。
お弁当を膝の上で広げた。中味は仕事の帰りに駅弁コーナーで買ってきた『柿葉寿司』。会社の最寄駅がターミナルなのでこんなものも売ってたりする。……未練だ、未練。気分だけでも。
お箸がついてるけど、いっしょに持ってきたおしぼりで手を拭いてから手づかみでおもむろに頬張る。駅弁は温かくなくてもそこそこ美味しいところがいい。
風は微かに吹いている程度。気温もそんなに低くない。桜と語るにはちょうど良い。
もう一度『ヌシ』に目を遣る。
「何してるの、お姉さん」
唐突に声を掛けられて、私は頬張っていた御飯を思いっきり飲み込んでしまった。
返事もできず慌てて持ってきたペットボトルのお茶の蓋を捻り、食道にひっかかった大きな御飯の固まりを強制的に流し込む。
呼吸を整えて改めて正面をみると、そこには心配そうに私を覗き込む女の子。
「驚かせちゃった? ごめんね」
えー、驚きましたとも。大体家を出たのが23時。子供の出歩く時間じゃない。
女の子はにっこり笑って、私の隣に腰掛けた。
「あなた、どうしたの、こんな時間に」
ああ、まだ言葉が細切れにしか出てこない。
「真夜中に一人でお弁当食べてるお姉さんを見つけたから」
「……あなた、おうちは? お母さんは?」
呼吸を落ち着けて女の子に訊ねる。ただでさえ最近は物騒だ。下手したらこっちが誘拐犯に思われそう。迷子なら警察に保護してもらわねば。
「おうちはここ。お母さんって、何?」
「ふざけないで」
「ほんとだよ」
女の子がむくれた顔で返事する。
本気なのかふざけてるのか分からないけど、こりゃ素直に交番に連れていけそうもない。
「……食べる?」
お弁当箱の中の柿葉寿司を指差してみる。
「いいの?」
「うん」
1つ取って女の子に差し出すと、女の子は両手を揃えて受け取った。そのまま口に入れようとする。
「だめだめ、外側むいてから食べるのっ」
一つとって、葉っぱをむいてみせる。女の子はそれを見て見様見真似で葉っぱをむき、ぱくっと口に入れた。
「面白い味」
……確かにこの年の女の子が食べても、あまり感慨深いものではないだろう。
「お姉さんは今日は何でここに?」
「『ヌシ』に会いに」
「『ヌシ』?」
「あの樹」
正面の大きい枝垂桜を指差す。
「ふぅん」
女の子はにこにこしている。
「毎年ここに来て、『ヌシ』と話すの」
「何を?」
「何をって訳じゃないけど」
何となく挨拶して。具体的な言葉を心に浮かべる訳でもなく。『ヌシ』と向かい合って何時間かここで過ごす。
ただそれだけのこと。けれど──それは多分、心の糧の一部なのだ。
女の子に視線を移す。足を軽く揺らして『ヌシ』を見つめている彼女を見て、私もまた『ヌシ』と向かい合う。
「……『桜の下には死体が眠っている』って言うよねぇ」
ぎょっとして女の子に目を戻す。女の子は変わらず足をぶらぶらさせながら『ヌシ』をまっすぐ見ている。
「何でだと思う?」
「──んー……うーん……花びらが紅いからかなぁ」
思いつくままに言葉を返す。
「うん、それも一つ。でも、それだけじゃないの」
「……?」
「あのねぇ、桜は冬の間から、一生懸命紅い色を作るんだよ」
「……ふぅん」
にこにこしている女の子の表情。
「沢山水飲んで、沢山呼吸して。身体中に一杯紅い色を貯め込むの。桜はどんどん身体中紅くなって、最後に全ての紅い色を花びらに渡すんだよ」
「へぇ……」
「身体に紅い色を溜め込んでる時の桜の樹は本当に朱紅いから。死体の血を吸ってるんだって、皆思ったんだろうね」
──徐々に気温が下がってきているせいだろうか。だんだん怖くなってくる。
無邪気に微笑ってる女の子の横顔が、妙に透明に見えて。
「……私、もうそろそろ帰る。その前に、一緒に、交番行こう」
現実の世界にいることを確かめたくて、立ち上がって女の子に声をかける。
「どうして? 私のおうちはここだよ?」
表情を変えずにまっすぐ私の顔を見る女の子。……固まっている私を見て、その笑顔が苦笑に変わる。
「……怖かった? でもね、知りたかったの。なぜ毎年会いに来てくれるのか」
その言葉の意味も分からず、私は立ち尽くした。
「答えはわからなくてもいいから──毎年会いに来てくれる人と、お話がしてみたかったんだ」
急に、風が鳴った。舞い上がる桜の花びら。
女の子の姿がふっと消える。
その途端。轟音が響いた。
──視線の先で、『ヌシ』が崩れ落ちていた。
土曜日。
改めて、私は公園を訪れた。
あれから4日、緊急に工事が行なわれたのか『ヌシ』がいた場所には既に更地になっていて、新しい樹を植える為の場所が丸く真新しい石で囲まれていた。
『ヌシ』が何を言いたかったのか、単にお別れを告げに来ただけなのか、私にはわからない。ただ、ここにまた新しい桜が植えられたなら──私はまた毎年話をしに来るだろう。
最初の挨拶は決まっている。
そして新しい桜の樹と『ヌシ』との想い出を語るのだ。
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