9 教え子とその夫
あれ、何だろう。
いきなり空気感が変わり、世界が揺れる。
遠い耳鳴りのような、現実の地震のような……。
でもクラ、ではなく、グラ、で、グアラ、でもなく、グラ、で……
「きみも感じたか」
わたしの右上から声が問う。
「ああ、あなたも感じましたか」
とわたしが答える。
振り返って広いホールを見遣っても人の動きに変化はない。
だから、
「どうやら、ぼくたちだけか」
「そのようね。他の人たちはマスターマシンの作り物かも……」
と会話が流れる。
「そうだな」
「ええ」
けれども夫とわたしの言葉を世界が裏切り、空中から人が発生する。
瞬時わたしにはそう見えたが、実際には通路の向こうから現れただけなのかもしれない。
「ねえ、あなた、あの人……」
「ああ、ぼくにも見えている」
その女性の背丈はおそらく百七十センチメートルのわたしより低い。
が、空間に際立ち、歩む様子が不自然だ。
まるで氷の上を滑るように進む。
故意にでも自然にでもなく、数多いとはいえない複数層の観衆を割って進む。
その人の動きばかりが強調される。
オーラを発するかの如く……。
「ご無沙汰しております、浦辺先生」
不意に瞬間を擦り抜け、わたしたちの前に跳んだ彼女が声を発する。
「酒井、ああ、村瀬くんだったね、お久し振り」
けれども、そんな不可解な状況に物怖じせずに夫が応じる。
個人的見解だが、その辺りはわたし好み。
「百合さん、この方たちは……」
ついで聞こえてきたのは気弱な若い男の細い声。
見れば目の前に存在するので幽霊ではないが、けれどもつい先ほどまで夫にもわたしにも見えなかったはずの人間だ。
それで夫の表情を盗み見ると当初は困惑の色があったが、すぐに消える。
個人的見解は先程と同じ。
「和臣さん、こちらはかつて高校の担任だった浦辺先生」
と女性。
存在感を露に示しながら、自らの連れにわたしの夫を紹介する。
「そしてあなたは、おそらく奥様ですね。はじめまして……」
ついで丁重にわたしに挨拶。
だから、
「あなたが村瀬百合さんね。たった今、浦辺とあなたのお話をしていたところなのよ」
とわたしが応える。
すると絶妙のタイミングで村瀬百合が笑顔を見せる。
きれいだが結構怖い感じも身に纏わせる百合は笑うと童顔に変わり、現役高校生を通り過ぎ、まるで赤子のように見える。
が、握手をした手は氷のように冷たい。
「よろしくね」
そう応えながら寒気を感じる。
村瀬百合は夫には頭を下げたが、握手はしない。
代わりに連れの若い男――和臣さん――が代行。
「夫の村瀬和臣です」
村瀬百合がわたしの夫に言い、
「お噂は兼々……」
と力強く、和臣さん、の手を握り返しながら夫が応じる。
だから、この場で困惑の表情を見せているのは彼=村瀬和臣ばかりか。
「いつ、ご結婚を……」
「高校を出てすぐですわ」
「知らなかったな」
「お報せしませんでしたから」
「絵の上でお付き合いのあった人とか」
「あら、先生にはわかりますか」
「わからんよ。ただのあてずっぽうだ」
元生徒と教師の会話が不自然に流れる。
「あなたも絵をお描きになるのね」
「ええ、でもなかなか売れません」
「一度拝見したいわ」
「銀座の画廊に何点か出ています」
「お名刺か、ええと案内はあるかしら……」
「ああ……」
するとすかさず村瀬百合が画廊の案内を濃紫のバッグからさっと取り出す。
まるで奇術で用いるトランプのように……。
手渡された紙面を読めばF画廊とあるが、当然わたしの守備範囲外。
「他の人たちの邪魔になるから外に出た方がいいかな」
夫が言うと、急にわたしの耳に辺りのざわめきが聞こえてくる。
「だって、まだご鑑賞中だったんじゃありませんか」
その緩いざわめきの中で百合が夫の言葉を受ける。
ついで、
「他の入選者たちには悪いが、ぼくたちが見に来たのはきみの絵だ」
「ええ、そう」
と夫に従い、わたしが添える。
本当に中の良い夫婦のように……。
「きみたちに急ぎの用事がなければ食事でもどうだ」
と夫が提案すると、
「お受けしましょうよ、和臣さん」
とざわめきの中で百合が応じる。
それで大人四人が出口を目指してしばらく歩むと絵が動く。
百号Fのカンバスの中を斜めに動いて角に弾かれ縦横に弾かれまた角に弾かれ、やがて額からひょるりと抜け出し、一瞬震えて内部時間が止まり、直後息を吸うように外部時間を体内に取り入れると不意に巨大化。
美術館の屋根を突き破るほど大きくなる。
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