8 画家のアトリエ
芸術家Sが主に使用したアトリエは十畳ほどの広さの木製の部屋で、南向きの窓の外には陽光溢れる自然の海が広がっていたはずだ。
今でも海は見えるが、それは写真で展示館の壁に貼られている。
近くに寄って確認するまでもなく古い写真で色落ちが激しい。
それでも、その気になって見遣れば昔日の情景が蘇って来るのは人の感性の不思議。
「オマエは実際にあの海を見たんだよな」
と瑠璃が問えば、
「海は見たけど、でも実際にあたしが見ていたのは和臣さんだし……」
と仄香が答える。
「そんなものかね」
「そんなものよ」
「恋する女ってつまらない存在だよな」
「あら、恋する男だって同じよ」
と会話が流れる。
アトリエの机の上には絵の具と絵筆とスケッチ(デッサン?)帳があり、絵には詳しくない瑠璃には、それなりに考慮された配置に見える。
窓に向かって立てかけられたカンバスには描きかけの絵が固定されているが、パンフレットによれば、それは本物ではなく模写らしい。
Sはジャンルでいえば抽象画家に分類される芸術家だったので、カンバスにあるその絵の意味が瑠璃には今一つわからない。
が、それは仄香も同様だったようで、
「色が綺麗なのはわかるのよ。だけど灼熱のはずの太陽がかなり暗めの緑だったり、そうかと思えば夜の海が明るい黄色だったり、人が七色混じりだったり、鳥がサバンナの動物みたいな色だったり、あたしにはついていけないセンス。それでも全体として構成されるアンバランスな色バランスが完璧で、じっと見入っていると、わからないなりに、ウーム、って唸ってしまうのよ。それを脇で見ていて、ほらまた唸ってる、って和臣が言うの。で、その和臣を見てわたしが笑う」
などと言う。
それで瑠璃が、
「ノロケか」
と指摘すると、
「あのとき、アンタがいればね」
と瑠璃には予想外の言葉が返る。
ついで、
「でも心は泣いていたから……」
と仄香が続けるものだから、
「本当にオマエはわけがわからんヤツだな」
と大袈裟に瑠璃が嘆く。すると、
「本当にそうだよね。幸せを怖がるなんて歌詞の世界のままじゃない。あたしって、今更だけど、純情だったのね」
と可愛い笑みを見せる。
だから、
「オマエは今でも十分純情だよ」
と白けた口調で瑠璃が応じる。
ついで溜息を吐き、
「絵のモデルにもなったんだよな、和臣さんの……。いいなあ」
と感嘆する。
「でも出来上がったのは殆ど岩なのよ。そこに子猫が一匹いて……」
「それがオマエと和臣さんか……」
「さあて、どうでしょう。でも岩って酷くない」
「当時は岩だったんじゃないか、オマエが……。今は鉱物じゃないな。杉とか檜とか」
「結局ヒトではないわけね。あっ、そういえば池にされたこともあるな」
「水系なら今は湖だろうな」
「そうなの」
「たぶん。でも、わっちの感性なんか当てにするなよ」
「当てにはしないけど、友情は甘いよね」
「甘さにも色々あるぞ。砂糖とか、キシリトールとか」
「アンタは日本的だから昆布ポン酢かな」
「それじゃ、酢だろう。どこが甘いんだよ」
「あら、甘いわよ。でも確かに肉の甘さを際立たせる役かしら」
「なるほどね。でも知ってるだろうが、情けは人の為ならず、だぞ」
「情けをかけてくれるだけで全然マシよ。いきなり蹴って谷底に突き落としてから、さらにゴミを投げ入れるヒトだっている世の中だし……」
「そんなに酷い目にあったのか」
「ううん、そうじゃない。単にあたしが子供だっただけ。みんな生きることに必死だったから……」
「それはオマエだって同じだろ……」
「違うわよ。当時のあたしには和臣がいたもの」
「じゃ、なんで別れたんだよ」
「たぶん大人になりかけていたから」
「意味不明」
「そうね。わたしにももうわからない」
「ウソつけ」
「嘘じゃないわよ」
「そんな振りをしたいだけだろ」
「もしかしたら、そうなのかな」
「わっちに聞くなよ。自分に聞け」
「じゃ、そうしよう」
言って仄香が目を瞑る。
瑠璃が見たその表情は穏やかだ。
「どうだ、何か見えたか」
瑠璃が問うが答えはない。
仄香の顔がそのまま死んだような表情になり、数瞬後、
「やっぱり止―めた」
と言って目を見開く。
そこに涙の後はないが、見つめる瑠璃には見えてしまう。
「わっちの涙腺、今日は緩みっぱなしだな」
が、そう言う瑠璃の目に現実の涙はない。
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