7 T美術館
どうせ止めるところがないだろうとハイヤーを呼んで上野に向かう。
着いてみると、駐車スペースがそこここにあり、吉正が悔しがる。
それを笑いながらわたしが慰める。
良い感じ中年夫婦のイメージだ。
上野に美術館は数あるが、その日わたしたち二人が向かったのはT美術館だ。
案内によると公募展の会場として使われる機会が多いらしい。
それで今回も選ばれたのだろう。
わたし=浦辺美紀は作家で、その意味では芸術家の端くれだが、絵には疎い。
もちろん好きな画家はいるが、それ以外は、おそらく中学や高校で学んだ知識止まりだ。
ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ルーベンス。
ここまででもうラファエロやエル・グレコが落ちている。
ついでフェルメール、レンブラント、跳んでゴヤ、ドラクロワ、ターナーか。
それからミレー、クールベ、マネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャンなどが続く。
ああ、セザンヌもだ。
ついで抽象絵画のピカソ、今でも怖いムンクが浮かぶ。
一転、日本の画家を巡れば、やはり北斎、広重が筆頭か。
……となれば歌麿、写楽が有名税と共にやってくる。
ついで近代に跳び、横山大観、棟方志功。
あとはもうごっちゃで雪舟、円山応挙、佐伯祐三、前田青邨、川合玉堂、黒田清輝、竹久夢二、岸田劉生、藤島武二。
とにかく迫力に只圧倒される梅原龍三郎、逆に静謐な東山魁夷、好みではないが村山槐多、ああ、芸術は爆発の岡本太郎を忘れている。
そして次が浮かばない。
「どうした。随分愉しそうじゃないか」
起き抜けとは打って変わったわたしの顔色を見て夫が問う。
「いえ、自分の馬鹿さ加減を確認していただけです」
よもやあのとき、あんなことが起きるとは予想していない。
麗らかな冬の日差しを満喫していただけだ。
「あなたの生徒さんって、いったい何年前の……」
問えばすぐさま答が返る。
「もう六年経つか、早いな。ぼくの最後の生徒の一人だ。数学教師のぼくには、残念ながら美的素養はないが、彼女の絵は際立っていた」
「あら、女生徒だったんですか。わたしはてっきり男の子だと……」
「きみがそう思うのも無理ないか。ぼくは弱いがサッカー部の顧問だったし、女生徒よりは男生徒に受けていたから」
「女の子たちにとっては顔が怖かったんじゃありませんか。さすがにわたしは見慣れましたが……。それに身体も大きくて嵩張るわ」
「そうだな。でも例外はいて……」
「それが、件の女生徒だったわけね」
「途中をはしょれば、そうだ。言わせてもらえば、きみだって、あの頃はぼくに関心を寄せていない」
「きっとまだ、わたしも女の子の領域にいたんでしょう。でも人は変わる」
「いや、変わらない者もいるよ。中には……」
夫が割引券を出してチケットを買う。
女生徒に貰ったもののようだ。
エントランスから少し進んで角を曲がれば絵の大群が待っている。
全部で百点入選したらしい。
今回は半分の五十点が展示されている。
月の後半には残りの作品が公開予定と案内にある。
「どれかしら」
「ぼくに見分けられるかな」
「ダメですよ。見分けなければ……。仮にも教え子だった娘でしょう」
「そうはいってもなあ」
回廊を抜けると広いホールがある。
わたしにとって面白い絵もつまらない絵も並んでいるが、夫のレーダーには反応しないようだ。
「ここにはないのね」
「……と思うが、自信はない」
「大丈夫よ。あなたにならわかるわ」
「むしろ、ぼくはきみが反応すると思うのだが……」
次の小さなホールに入ると風変わりな絵がある。
それで、
「これね」
と問うと、
「ああ、たぶん」
と言う返事。
それから絵下のカードを見て、
「間違いないな。村瀬百合と記されている。手紙で貰った名前と同じだ」
「……ということは今はご結婚されているわけね。元の苗字は……」
「酒井だ。酒井百合。お酒に井戸の井、花の百合だが、名前が『ひゃくごう』とも読めるから、酒と結びついて忘れない」
「確かに今の名前だとインパクトに欠けるかも……。でも絵は凄いわね」
それは何処から見ても人間なのだが、同時に植物でも鉱物でもあって摩訶不思議。
技法的には似たような例があったと思うが、その応用形なのか。
全体像と細部が乖離していて、それが見るものの心に不安を呼ぶ。
その点では古いタイプの芸術作品かもしれないが、インパクトは大きい。
「凄いわね。あなたの知ってる高校生のときはたぶん十八歳だから、それに六年を足して二十四歳。若いのに、これだけの迫力がある」
「だが最優秀作ではない。単に入選しただけだ。目前で見れば確かに凄いが、世に出るにはまだ欠点があるのだろう」
「手厳しいのね」
「自分で商売をしているからな。人様から戴くお金は商品の対価だが、それ以上の満足を与えてこそ、次のお客様がいらっしゃる」
「だったら、わたしなんかはダメね。編集に頼り切りで……」
「いや、それも才能の一つだろう。人に自分が認めたと言う満足感を与えるという……。結局辞めてしまったが、これまで自分のお金で食事をしたことがないという女性を塾講師に雇っていたことがあったな。見た目も綺麗だが、醸し出すオーラの質が常人とは違い……」
「そんな人がどうして私塾に……」
「さあてね。事情は聞かなかったよ。が、本場仕込みの英語が喋れた。だから雇った」
「ふうん」
「で、話の続きだが、芸術家としての採点はともかく、村瀬百合の絵は売れるんじゃないかな。プロの目から見れば、おそらく種々の減点箇所があるのだろうが、それを跳ね返して余りある華がある。それが重要だ」
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