6 イニシャルがSの画家

 どうしてそんなことをしたのか瑠璃には見当もつかないが、画家Sのアトリエは倉庫の中に保存されている。

 石の家を土台ごと移動したようだ。

 ……といっても、そのまま運べるはずがないので一旦解体し、その後再組み上げしたのだろう。

 元の家の場所とは約五百メートルの距離がある。

 わざわざ運んだからには元の場所にいわくがあったのだろうが、そこに他の家や別の建造物が建っているわけではない。

 ロープで囲われた、ただの空き地だ。

 瑠璃と仄香が最初に立ち寄ったときには中で子供が遊んでいたから、大した管理もされていない。

 だから謎。

「オマエと和臣さんが住んでたときには、前の場所にあったわけ」

 瑠璃が尋ねて仄香が答える。

「管理はされてたけど元の場所にあったわよ」

「家がSの所有地じゃなかったのかな」

「後に多少は有名になるけど、生きてた頃は貧乏だったから。死ぬ数年前に初期の画がハリウッド映画に使われて、それで売れたのよ。それまでは絵の具を買うのにも苦労をしたって和臣が言ってた」

「ふうん」

「やりたくない美術講師もしていたらしいわね。でも生徒たちには恵まれて、慰めを与えてもらってたよう」

「ふうん」

「Sだって最初は自分が芸術家のつもりだから、他の職に就いて糊口を凌ぐなんて真っ平御免みたいだったけど、子供が六人もいてはね。お針子をしていた奥さんのために就職したみたい」

「ふうん」

「当時のことを綴った日記と言うか、詩があるわ、


 絵の具一色(ひといろ)/虚しいか/妻の着物は古いまま

 絵の具一色(ひといろ)/寂しいか/娘の靴は古いまま

 絵の具一色(ひといろ)/悲しいか/息子の鞄は古いまま

 絵の具一色(ひといろ)/詮無いか/お前のベレーも古いまま


 ……とかね。続きも聞きたい」

「いや、いいよ。でも絵の具って、そんなに高いのか」

「高い絵の具は高いわよ。まあ、宝石を買うほどじゃないけどさ。Sは良い絵を描くには良い絵の具が必要だと考えていたから、たぶん最高級のものを買ったんじゃないかな。それに安い絵の具は発色が悪いばかりじゃなくて持ちもしないし……」

「そうなんだ」

「自分の絵には、きっと永遠に残ってもらいたかったんだろうと思う」

「その辺りはレオナルド・ダ・ビンチとかと違うんだな」

「えっ何、その喩え」

「わっちも人から聞いた話だから正確なところは知らないけど、ダビンチは色調が狭くなるのを嫌って、壁画を描くのにフレスコ画の技法を使わなかったんだってさ。それで卵とか膠に顔料を溶かして塗ったらしいよ。だから出来上がりのときは色鮮やかで物凄く綺麗だったけど、高々二十年くらいで明らかに何箇所も顔料が剥げ落ちたという」

「それって『最後の晩餐』のことでしょ。あたしが聞いた話では、ダビンチだって将来的なことを考えて乾いた漆喰の上に薄い膜を貼って、その上に絵を描いたらしいよ。壁面からの湿気を避けるために……。結果は失敗だったけどさ」

「ふうん。よく知ってるわね。さすが画家の妻」

「元妻よ。絵のことは色々と知ろうとしたけど、結局わかんなかったわね」

「わっちだって、わかんないよ。最近でも子供の落書きみたいなのが何千万とか、何億とか。経済、というか商売だよね。あっ、でもデッサンを見たからピカソは少しわかるかな。でも途中経過がなくて、いきなり『泣く女』とか『ゲルニカ』だったら知らないけど。……和臣さんって、どんな絵を描く人だったの」

「模写ばっかりしてたわよ。特にSの……。他にはブラックとか、ポポーアもあったかな。ピカソはなかったはず。何故だったんだろう」

「和臣さん的にピンと来なかっただけじゃないの。現時点まで売れなかったとはいえ、芸術家だもの……」

「そうね。商売ができる人じゃなかったわ。あたしが仕事で貯めたお金を一年少しで使い切っちゃって……。まあ、それで別れたわけじゃないけど、呆れたわ。本当にそんな穀潰しがいるんだって笑うしかなかった」

「オマエ、ヤッパリ凄いな。わっちだったら、フライパンで頭をカチ割ってるよ」

「あら、あたしだって石を打つけたことはあるわよ。当時の、ここいらの奥さんたちに倣ってだけど……」

「物騒な土地柄だな」

「それだけ恋が情熱的なのよ。昔はスペイン領だったわけだし、女も闘牛士だったんじゃないかな」

「今だったら動物愛護団体が黙ってないぞ」

「鯨のお肉も食べられなくなったわよね。下顎の脂のところなんて美味しいのに……」

 そこで仄香の瞳がふっと翳り、色を悲しくする。

「何度も何度もね、前の場所だったけど、この家を訪ねたのよ。和臣と一緒に……。もちろん当時の家の持ち主はSではなくて、Sの家族でも親戚でもなくて、まるで別の人だったけど、あたしたちの両親くらいのご夫婦が住んでらっしゃって、尋ねれば、いつも歓迎してくれたわ。お子さんたちがみんな海を渡ったんで、その代わりだったのかもしれないわね」

「でも、そのご夫婦ももういない。十五年って長いね」

「でも、あっという間。せめて和臣の子がいればねえ。あたし、二回、流産したのよ。二回目なんてあっけなくてトイレで終わり。それから先はできなかった。まあ、実際生んでも食べていかれなかったかもしれないけど。でも和臣に自分の子供を抱かせたかったなあ。心残りといえば、それだけが心残り。あら、アンタ、どうしたのよ。まさか、泣いてんの。ねえ、やめてよ。あたしが平気なのに、どうしてアンタが泣いてしまうわけ……」

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