16 噂の意味
「そんなぁ!」
すると、それまで口を開かず、宮原とゴールドシュテイン博士の遣り取りを黙って聞いていた坂下理紗子が我慢できずに大声を張り上げる。
「人間……じゃない?」
そこにあったのは長さが一・五メートル、幅が〇・五メートルほどの頭部がひとつ、両手両足が一対ずつあるヒトの姿のカリカチュアだ。少しでも似たものを探すとすれば短い五つの出っ張りのある木綿豆腐とでもなるだろうか? それと同じものがすべての培養槽の中を漂っている。見た目そのものは清潔でおぞましいところは何処にもないが、宮原と理紗子の二人は今にもえずいてしまいそうな胸の悪さを覚える。
そんな二人の内心の変化を知ってか知らずか、ゴールドシュテイン博士が淡々と続ける。
「誤解のないように予め説明しておきますが、わたしたちがアレを見つけたとき、アレはすでにあのような状態になっていたのです。アレを見つけたのは一九八〇年のことで、北エルサレムで、ある丘の土の中で、もちろん偶然です。アレを回収するにはかなりの勇気が必要でしたが、わたしたちは秘密裡にそれを行うことに成功しました。わたしたちが最初に驚いたのはアレの形でしたが、次に驚いたのはアレが生きているという事実でした。あのときわたしたちの仲間に天恵を受けたものがおり、わたしたちが所有していたイエスの聖骸布の血痕から得たDNA配列とアレのそれを比較したところ、その配列が一致しました。もちろんその聖骸布がイエスの遺物であるという証拠はどこにもありません。ですが、ともかくそれは一致しました。なので、わたしたちは慌てていくつかの画策を試みなければなりませんでした。もちろん情報を錯乱させるためです。タルピオットの墓もわたしたちが仕掛けたものの一つです。あれほど話題になりませんでしたが、他にも種々混乱を生じせしめる情報をわたしたちは発信しました。その後の調査でアレは、心臓を止めても、臓器を抜いても、生命活動ができなくなるまで身体を痛めつけても、数時間後には必ず生き返ることがわかりました。その理由はわたしたちにも未だに不明です。またアレには内臓はヒトと同じものが一通り揃っていますが、あなた方が見た通り、手足と頭は萎縮しています。そして考えるための脳はありません。最低限の生命維持を司る小脳近傍の部位が辛うじて残っているだけです」
ゴールドシュテイン博士に詳しくそう解説されても宮原には理解不明な箇所が残る。
「……ですが何故、アレがこんなに多く? アレらはクローンですか?」
宮原が単刀直入に尋ねるとゴールドシュテイン博士がわずかに瞳を曇らせる。
「それに対する答えはノーであり、またイエスでもあります」
ついで淡々というよりは粛々とその意味を説明する。
「残念ながら、わたしたちにはそこまで完璧な技術がありません。だからアレが実験的なクローンなのかという質問の答えはノーとなります。わたしたちの研究所でアレのクローンが得られるには、まだ長い時間が必要でしょう。ですがアレを特別な方法で解体し、その後ある特殊な方法で培養すると解体されたどの片割れからも元と同じ個体が約〇・〇二パーセントの確率で発生します。その意味では先ほどの質問の答はイエスとなります。さらにその存在意義においてアレは植物に近いと言えるでしょう。だから通常の意味での意識は持ち得ません」
「それにしても何故、こんなに数多くが?」
思わずそう呟きつつも宮原にもようやくその理由が見えて来る。
「ここにこれだけ多くのアレの複製が培養されているのは、わたしたちが単なる慈善団体ではないからです。あなた方が先ほど手術室上のブースで見学されたように、わたしたちの延命治療を必要としている人間の数は世界中で急速に増え続けています。需要と供給はバランスしなければなりません」
「ですが、わたしが前に聞いた話では……」
「マニラ速報社のフロレンド・P・アブドゥはロマンチストです。彼は情報提供者から自分が知りたい事実だけを入手しました。ミスター・ミヤハラ、ミス・サカシタ、あなた方が今見たものはフロレンド・P・アブドゥが信じたがった噂ではありません。これが真実そのものなのです」
「それならば何故、あなた方は率先して、わたしたちにこんなものを見せるのですか? その意図は?」
宮原は理紗子と一瞬顔を見合わせ、最後に二人の中に残った疑問を口にする。だが、そのときにはもう二人には答の予想がついている。
「例えば森の中に一本の一般的な木を隠せばおそらく見つけることはできないでしょう。しかし珍しい枝振りを持つ木を植えれば却って目立つかもしれません。また、それが一本ではなく複数本あるとすれば」
「つまり……」
「もしかしたら明日この地を訪れるかもしれない別の国の知りたがりの記者は、わたしたち結社が所有するまた違った場所であなた方とは違ったものを目撃するかもしれません。そして一年後に訪れるかもしれないあなた方の御国の知りたがりの若い記者は、その場所ともまた違った場所でまた別のものを目撃するかもしれません。わたしたちはわたしたちの存在を隠さなければなりません。ですが、世間からまったく見えなくなってしまっては、わたしたちのビジネスは成り立ちません。適度な噂が必要なのです。害のない都市伝説としての噂が……。普通に想像していただければわかる通り、アレを一般の医療現場に提供することはできません。そんなことをすれば、どんな混乱が発生するか予想がつかないからです。そのために助かるはずの多くの命が失われることになるでしょう。わたしたちはそのようなことを望みません。わたしたちに必要なのは噂です。罪のない噂が必要なのです。わたしたちは、あなたがたに写真などの物的証拠は一切提供致しません。撮影も録音も許可しません。すべてはあなた方がご自身の目で見たままです。それを書かれるも良し、書かれないも良し、誰かに話されるも良し、話されないも良し。すべての決断はあなた方に委ねられているのです。ミスター・ミヤハラ、ミス・サカシタ。ミスター・サエキがあなた方に語った結社の将来的なビジョンは嘘ではありません。あなた方が発する不確かな噂はそれに与され、その実現をわずかでも早める役に立つかもしれないのですよ。それに……」
と最後にゴールドシュテイン博士は宮原と理紗子二人に向かい、こう伝える。
「今はまだ、わたしたちに出来るのは臓器の提供による延命だけです。しかし将来的にはわたしたちは再生医療にも手を拡げるつもりです。その中でも、わたしたちが特に力を入れ、取り組んでいるのが、卵巣や子宮の再生です。事故や病気で生命継承の機会を失われた数多くの女性たちにとり、それは福音となることでしょう。そしてそういった運命の日が訪れるのが強ち遠い未来ではないとお伝えし、あなた方お二人へのわたしからのお話を締め括りましょうか」
註15 アッシリア帝国の楔形文字による記録。
註16 現在のイスラエル北部。(了)
奇妙な復帰、そして…… り(PN) @ritsune_hayasuki
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