15 史的イエス

「ミスター・ミヤハラ。噂は噂でしかありません。わたしたちはそれがイエスであるとは一度たりとも明言していません。ただ、その可能性を示唆しただけです」

「……といいますと?」

「聖書というのは史実ではありません。旧約聖書の中にはティラー・プリズム(註15)などで後に科学的に証明された史実も含まれていますが、新約聖書の記述は史実というより神学者のクロッサンが指摘したように聖書の預言を元にイエスの生涯を記述したもの、すなわち預言を歴史化したものといった方が正しいのではないかと思われます」

「新約聖書学者ブルトマンに発する史的イエス問題ですね」

 フェニックスの本家延命協会を訪れるまでの約一月間、理紗子も宮原も最低限の関連事項を学んでいる。

「福音記者たちが彼らに先行したイエスに関するいくつもの伝承を受け入れ、それぞれの教義的立脚点に基づき各福音書を著したというブルトマンの主張はおくとしても史実上のイエスについては確かにわからないことが数多くありますね。もっともイエスと敵対したとされるローマおよびユダヤ人側の歴史的資料により、ローマ皇帝に対する反逆罪で磔刑に処せられた男がいたことは、まず間違いないと考えられていますが……」

「非キリスト教徒による一次史料は現在に至るもまだ見つかってはいないのです。キリスト教内部におけるもっとも古いイエスの史料は新約聖書の『パウロ書簡』ですが、書簡の中でパウロが出会ったと証言しているのは復活後のイエスであり、史的イエスではありません。現在ではイエスは紀元前七年から前四年頃に出生したのであろうと考えられています。パレスチナのガリラヤにあるナザレの町(註16)において大工の父ヨセフそして母マリアを両親として生まれたとされています。妹や弟がいたとも考えられています。二十代半ばにヨルダン川で師である洗礼者ヨハネから洗礼を受けたものの、やがてヨハネの教団からは離れて独自に伝道を始めたとされています。イエスが説いたのは神の意志に従う行動であり立法に従うことではなかったので、パリサイ派と呼ばれる当時主流の律法学者たちと衝突し、最終的にローマ皇帝に対する叛乱の首謀者という罪名で磔刑に処せられたと考えられています。もっとも歴史学者の中には、ミスター・ミヤハラの御国の例を挙げればタイラ・ノ・マサカドのようにイエス自らがユダヤ人の王としてローマの支配体制に抗する武力蜂起を試みたと考えている者もいます。その結果、当時のテロリスト集団熱心党(ゼーロータイ)のメンバーとして、ローマ帝国が派遣したユダヤ総督により、磔刑に処せられたという解釈がなされるわけですが……」

「いずれにしても、伝承は史実ではないと」と宮原。

「そういうことになります」とゴールドシュテイン博士。

 ついで宮原と理紗子が案内されたのは見るからに培養のためとわかる大型槽が百以上もびっしりと並べられた広い部屋だ。

「ここが、あなた方の目的の場所です。さあ、こちらへ。培養層の中がもっと良く見えますよ」

 ゴールドシュテイン博士に促され、細い金属製の梯子段を昇って狭いキャットウォークに到ると宮原たちが培養層の中を覗き込む。

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