6.3 ああ自分はやっぱり

「二人とも頭の上に手をあげてこちらを向け」

 聞き覚えのある声が通路内に反響した。

 プリズマティカは振り向いた。ただし、電気銃を構えたままで。闇の中から通路の幅一杯に広がった五人ほどの人の姿が浮かび上がった。五人はいずれも白いコートのようなものを着ている。さっきから気になっていた音はますます大きくなる。

 トルウ達の正面五メートルほどの距離をおいて、五人は進むのをやめた。真ん中の男が、アントレイヴァスの声で言った。

「手を頭の上に上げろと言ったのが聞こえなかったのかね」

 しかし、その声は妙に高音が強く、雑音がまじっていて、まるでラジオのようだ。

「アントレイヴァス?」

 プリズマティカは肩の冷光灯を真ん中の男の顔に向け、その光の中に浮かび上がったものを見て、あっと叫んだ。

 それは『騎士』だった。白いコートと見えたのはマントで、その肩のところには赤い巨大な十字が描かれていた。顔の真ん中には黒々とした大きな穴が一つ、小さな穴がその周囲に三つほど空いていて、ちらちらと赤い光が点滅している。マントの下から見えているのは手袋をした人間の手ではなく、黒光りする金属で作られた骸骨のような手だ。左手は徒手だが、右手には細長い金属の棒が握られている。その指の曲がり具合も、まるで人間のように滑らかだ。

「アントレイヴァス? これっていうかあんたはアントレイヴァスなの?」

「下水の売女め。お前なんかに同情してもらう必要なんかないが、べつに俺が『騎士』にされてしまったわけじゃない。俺はここにいるし、お前のすぐ目の前にもいる」

「無線による遠隔操作だな。これはすごい。『騎士』を捕獲して無線で操作できるように改造したってわけか。しかし電波が……」

 トルウは、この期に及んでも、正面に居並ぶ人間そっくりの人影を感嘆したように見つめている。「そうか、あの電灯線に」

「そうだ。この機械警邏はサラセンの技術を使った最新型だ。騎士修道会も人を見る目があるというもんだ。こんな素敵なおもちゃを我々に任せてくれるんだからな。さあ、貴様等がそこから大人しく引き返すというなら……」

 アントレイヴァスのおしゃべりは、幸いなことにどんな最新型になっても変わらないようだった。プリズマティカは言ってやりたいことは沢山あったが、すばやくトルウに目配せすると、トルウも小さく、しかし、はっきりと頷いた。

 無言でプリズマティカは、一番端の『騎士』めがけて突進した。プリズマティカの突進を見て、慌てて右手の棍棒を構えるが、電気銃の銃身の方が長い。プリズマティカは、棍棒を持った右腕の肩口に電気銃を突き立てると、引き金を引いた。

 つむった目のまぶた越しでさえまぶしいプラズマが鋭い音とともに飛び散った。

「ぐわー、まぶしいっ」

 と、叫び声がその『騎士』の『口』から漏れる。まるで人間のように両手で顔の部分を覆う仕草をするが、その右腕が動かない。プリズマティカが肩の関節を溶融溶接してしまったのだ。しかし、それよりも電気銃のスパークの方が効果は高かったようだ。

「よしっ」

 まだ顔を覆って右往左往している一体を放っておき、となりのもう一体に狙いをうつす。そっちは一瞬うろたえたようだったが、すぐに体制をたてなおし果敢に棍棒をふるってきた。その動きは機械とは思えず、人間そっくりの滑らかさであったが、結局、それを操っている人間の動き、つまり、もともと戦士としての訓練など受けていない学生のそれ以上ではあり得なかった。プリズマティカは、一回、二回と斬撃をくぐり抜けた後、もう一度右肩に電気銃を突きつけることに成功した。

 しかし、相手も簡単にはいかない。右手を開いて棍棒を落とすと、その手でプリズマティカの電気銃の銃身をつかみ、恐るべき膂力でプリズマティカからもぎ取ると、そのまま床にたたきつけたのだ。

 電気をためていたキャパシタが破裂し、溶液の酸えた臭いがただよった。銃身はねじ曲がっていた。プリズマティカは弾みで尻餅をつき、立ち上がろうとしたところに、アントレイヴァスの『騎士』が襲いかかった。真っ暗な穴が覗いただけの顔が、死神のようにプリズマティカに迫った。しまった。

 声にならない叫びを上げたとき、その『騎士』は跳ね飛ばされ、大きな音を立てて転倒した。滑り込んできたのはトルウだった。さらに迫るもう一体の『騎士』の棍棒の一閃を躱すと身体を深く沈め、地上すれすれで回し蹴りを放った。それは見事に相手のすねに命中し、バランスを崩して転倒する。最後の一体は、躊躇するように距離を保っていたが、意を決したのか、かなりの勢いでトルウに向かって突進してきた。細身ではあるが人間よりは遙かに重い『騎士』の体当たりをまともに浴びれば無傷ではすまない。しかし、トルウはその突進を正面から受け止めるかのように体勢を低くして構えた。

「危ない、トルウ、逃げて」

 その声に応えるようにちらりとプリズマティカを覗ったトルウの表情には余裕の笑みさえあった。『騎士』の右手が伸び、トルウの肩に棍棒が炸裂するかという瞬間、トルウは、その袖を掴んでいた。そして、自ら後方に転ぶようにしながら片足を上げてそれを『騎士』の腹にぶつけると、相手の勢いを利用して後方に回転しながら空中に放り投げた。その『騎士』は三メートルほどの距離を飛行して、頭から通路の壁にぶつかり、動かなくなった。

 信じられないような鮮やかな手際だった。どう見ても荒事など似合いそうもないトルウが、あれほどの身のこなしで、しかも素手で『騎士』を退けるとは。プリズマティカは、ようやく立ち上がり服の埃をはたくトルウに、礼を言った。

「ありがとう、トルウ。助かった……」

 しかし、トルウは振り向きもせず、左手の人差し指を立てて、静かに、という手真似をした。

 倒された『騎士』達がしゃべっているのだ。

 大丈夫か、くそー、目が見えない、身体が動かない、などといったつぶやきのような声が口から漏れてくる。

「いまのうちに『騎士』にとどめを刺そうよ」

 プリズマティカが言うと、トルウも頷き、落ちていた金属の棍棒を拾いあげると、未だにまぶしい、まぶしいと言い続けている一体の『騎士』に近づき、その頸部に一撃をたたきこもうとした。

 その一瞬、『騎士』の動きが止まった。それだけでなく、操っている人間の声もぴたり、と聞こえなくなった。トルウは、その異常な気配を察知したのか、『騎士』から飛び退った。しゃがみ込んでいた『騎士』は、それまでの苦しみが全く無かったかのように、無造作に立ち上がると、全く予備動作なしにトルウに襲いかかった。トルウはその攻撃を二回まで棍棒で受け止めたが、三回目で、ついに棒を取り落とした。さっきまでとは全く違って、速く、しかも強力な打撃だった。トルウは壁に追い詰められながらも、なんとか相手の右腕をかいくぐって逃げ出したが、再び立ち上がったもう一体からの攻撃を逆方向から受ける。身体を沈め、また低い位置からの蹴りを打つ。『騎士』はたたらを踏むが、今度は転倒せずに踏みとどまった。

 もう一体がゆっくりと立ち上がろうとしていた。プリズマティカは、動くな、というトルウの叫びを無視して、近くにあった棍棒を掴むと、トルウがさっきしかけたように、後頭部のケーブルやワイヤなどが隙間から見える部分に思いっきり突き立てた。火花が飛び散り、何かがちぎれたり折れたりする手応えがあり、そして

「ぎゃーっ」

聞こえなくなっていたはずの人間の声が悲鳴となって『騎士』の口から漏れた。その悲鳴も途中にぶつり、と切れて聞こえなくなった。

 その間にもトルウは、三体の『騎士』を相手に戦っていた。ほれぼれするような身のこなしではあるが、もはやトルウの攻撃が相手にダメージを与えていないのは明らかだった。トルウは、時間を稼ぎつつ、『騎士』達をなんとかプリズマティカから離そうとしているらしい。

 そんな。トルウを守るのはあたしの方なのに。だが、慌てて走りだそうとするプリズマティカをトルウの叫びが押しとどめた。「来るな、考えろ!」

 そうだ。考えるんだ。一緒に戦うというのは、そういうことなのだ。一緒のことをするのではなく、お互いの様子を見て、相手ができないことを補い合うこと。相手が本当に必要としているものを見抜いて言われる前にやってあげること。

 アントレイヴァス達の声が聞こえていた時は、明らかに『騎士』の見たものが彼らに伝えられていた。しかし、今の動きはどうだ。プリズマティカの姿は『騎士』の視界に入っているはずなのに、見向きもしない。

 ひょっとして。

 プリズマティカは思いついたことがあった。

 背嚢の中に収めていた音波式距離計を取り出して、電源を入れ、『騎士』の方に向ける。メータの値を見ながら、周波数を高い方に変えてゆく。超音波と呼ばれる人間の可聴域を越えた周波数の一カ所で、メータが大きく振れた。その途端、一体の『騎士』の動きがおかしくなった。突然プリズマティカの方を向いたかと思うと、二三歩進み、また目標を見失ったようにトルウの姿を探そうとする。

 間違いない。あの『騎士』は音波探知を使っている。自分で音を出し、返ってくる方向や強さから周囲の壁や敵の位置を割り出しているのだ。

 そういうことならば!

 プリズマティカは音波探知機を手に構え、さらに『騎士』に接近した。少しずつ周波数を変えると、残り二体の使っている周波数も見当がついた。最大を出力にして向けると、三体とも明らかに混乱して、トルウに対する攻撃が止まる。思いついたようにプリズマティカの方に身体をむけるが、見えない壁にはばまれているように接近できない。

 トルウはその機を逃さなかった。一体の後にまわりこみ、自分の帽子を丸めて、顔の大きな穴に押し込む。しかし、飛び退き様に振り回された腕を避けることができず、トルウは壁際まではね飛ばされた。マントをかぶせられた一体は敵の場所がわからず、振り回した棍棒が、別の一体の頭部に命中した。頭をねじ曲げられたその一体は、たたらをふんで、下水道の本道の中に落下し、派手な水しぶきを上げた。

 帽子を顔に突っ込まれた一体は、暫く首を振っているうちに、その帽子をはき出すと、再び倒れているトルウに向き直る。プリズマティカはもう一度音波探知機を向けるが、『騎士』の向いている方向とあっていないせいか、効き目がない。

「トルウ、逃げてっ」

 プリズマティカは、その『騎士』めがけて闇雲に体当たりするしかない、と音波探知機を放り出したとき、暗闇の中からすっと浮かび上がった一本の棒が、耳障りな金属音とともに、『騎士』の首筋に差し込まれた。最後の『騎士』は動くのをやめ、暗闇の中からは枯れ木のような老人の影が浮かびあがった。

「ニック!」 

 プリズマティカは思わず命の恩人に駆け寄って抱きついた。「ごめん、また助けられちゃった」

「わしの仕事や。礼はいらんて」

 照れたようにほほえんでニコロはプリズマティカを引き離す。

 そうだ、トルウは?

 苦し紛れの『騎士』の一撃にはね飛ばされたトルウは、壁際に胸を押さえてうずくまっていた。プリズマティカは、今度はトルウのもとに駆け寄った。

「大丈夫?」

「だ、大丈夫だ」

 トルウは高くかすれた声で答えた。トルウの服は破れ、血がにじんでいるが、大量ではなさそうだ。おそらく肋骨が折れたのだろう。トルウの手がプリズマティカの腕を強く握る。口を開け、目を閉じて、呼吸しようとするが、吐くばかりで吸うことができない。

「トルウっ」

 だいじようぶ、と口の動きだけで答えて、トルウはしばらく浅い息を繰り返していたが、数分してようやく安定した呼吸を取り戻した。

「よくあることさ。大丈夫、立てる」

 身体を動かすたびに痛みが襲ってくるようだったが、どうにかトルウは立ち上がった。

「よく気づいたな、プリズマティカ。僕はきみを誇りに思う」

「ありがとう。あたしもトルウにほめられてうれしいよ。でも、ごめん。依頼人に怪我させちゃうなんて、案内人としては失格だよね。それにまた、ニックに助けられちゃった」

 トルウは、すでに気づいていただろうが、ニコロに向かって頭を下げた。

 それから、プリズマティカの背嚢からピルケースを取り出し、中に入っていた錠剤を取り出して口に含む。「痛みどめだよ。すぐに効くんだ。さあ、行こう」

 プリズマティカが錆び付いた扉の取手をちからいっぱい引っ張ると、盛大なきしみを上げながら開いた。

 扉の向こうにはさらに通路が延びていたが、天井には冷光灯が灯り、壁や床はセメントが塗られていた。ここもローマ時代の造りではないが、かといって最近整備された通路とは明らかに年代が違う。

 通路の終点には扉はなかった。

 そこは直径が二〇メートルほどもある円形の大きな部屋だった。広さの割に天井は低く、押しつぶされるような錯覚がプリズマティカを襲った。部屋は天井に埋め込まれたいくつかの冷光灯でぼんやりと照らされていた。よく見ると、冷光灯の半分は点灯していない。とても長い年月をこの部屋はこの姿のままで過ごしてきたようだ。

 そして、部屋の中央に黒くうずくまる四角い影があった。

 それは一見、巨大な鉄錆の塊のように見えた。高さは人の背丈よりも高く、天井に届きそうだ。幅や奥行きは五メートルもあるだろうか。

「何。これ」

 プリズマティカは呟いた。トルウは何も言わず、つぶさにその細部を見ながらゆっくりと歩み寄る。一番後から来るニコロは無表情に見えたが、その目はあちこちに向けられ、微かに口元が開いているのがわかる。彼にも何かの感慨があるのだろうか。

 近づいてみると、それは鋼鐵の桁で組まれた猛獣の檻のように見えた。その中には、何千本にもなろうという細い金属の筒が立体的な格子状に収められている。プリズマティカはその塊のすぐそばまで進み、手を伸ばして表面に触った。よく見ると錆が浮いているのは外枠の構造部分だけで、内部の微細な機械は黒い輝きを失っていない。

「これは、電気算盤?」

「多分、そうだ」

 机の上には、タイプライタの文字が書かれた何枚もの紙が貼り付けられていた。それは以前にトルウがフォジフォスに見せた「パスカルからの手紙」によく似ていた。ただし、机に貼り付けられた紙には、質問だけでなく答えも書かれていた。

「ここでパスカルは『未来』と通信をしていたということね」

「ああ。君の言うとおり、パスカルは五〇年前にすでに電気算盤を作り上げ、それを使って未来を予測していたわけだ。君の調べた『疑似時間通信』というやつだな」

「これ、そんなにすごい機械なの?」

「僕にはわからないよ。ただ、見る限り、細かい部品の加工精度はフォジフォス師のところで見せてもらったものと較べて優れているとは思えないな。ほら、この部品とか、表面がざらついてるだろ? 鋳鉄だよ。圧延の技術がなかったんだ。接合面の切削精度もよくない」

「でもほら、フォジフォスが見せてくれたあれと較べるとずっと小さいわよ?」

「単純に小さい分だけ性能は低いんじゃないか。だいたい、この場所にあれだけの大きさの機械は置けないし」

「じゃあ、なんでこんなところに電気算盤を置いたの」

「その研究をしていた『人物』がどういう最期を迎えたかを考えれば、滅多に他人が辿り着けない場所につくるのは当然じゃないかな」

 そのとき、プリズマティカの目が、机の上に貼り付けられた沢山のタイプ紙の中の一枚にすいよせられた。紙は破れられ、他の紙の大きさの半分ほどしかない。気になって文字を追う。そして、そんなところに書かれているはずのない一言を見つける。これは一体。

「ねえ、トルウ。ちょっと」 

 しかし、トルウはプリズマティカの方を振り向かず、代わりにその視線が部屋の入り口に向いた。そしてすぐにプリズマティカも気づいた。背骨を冷たい手でなぞられるような気分をもたらす、あのモータ音が聞こえてきたのだ。

 プリズマティカは周囲に目を走らせ、何か武器になりそうなものはないかと探した。とりあえず、背嚢から音波探知機を取り出し、トルウを庇うように入り口との間に立ちふさがった。だが、ニコロは飄々としていて武器を構えようともしていない。

「憑依者の感覚が信頼できる場合、音波探知機による攪乱は効かない」

 暗闇の中から姿を現した一体の『騎士』の口から発せられたのは、聞き覚えのある声だった。

「あなた……フォジフォスなの?」

 そして、その後から赤いマントを羽織り、奇怪な帽子を被ったフォジフォス本人が現れた。

 その『騎士』は、学生団が操っていたものとほとんど同じに見えたが、コートを着ておらず、細身の甲冑のような身体が剥き出しだった。そして、右手には銀色の棍棒と、左手には黒光りする電気銃を握っていた。フォジフォスと『騎士』の動きは連動し、フォジフォスの言葉は彼自身の口と『騎士』の両方から発せられているようだ。

 フォジフォスと『騎士』は三人の前方、三メートルで立ち止まった。

「われはついに見いだした」

 フォジフォスの声は肺から押し出されるようにかすれていたが、『騎士』の口から再生された声は、地獄の底から響いてくるように重々しくプリズマティカの耳を打った。

 フォジフォスはおぼつかない足取りで、吸い寄せられるように電気算盤に近づいていった。本体ではなく、入出力端末前に立ち尽くし、そのキーボードに、そおっと手を触れた。

「これが……これがパスカルの遺したものか。これでパスカルは、未来と語り、未来を、我々にとっての現在を作ったのだな。この日をどれほど夢見てきたことか」

「フォジフォス師、これをごらんになるのは初めてなのですか?」

 トルウが不思議そうに尋ねた。たしかにそうだ。これほどの機械をパスカル一人で作ったはずがない。フォジフォスやニコル達が協力していて当然だ。

 しかし、フォジフォスはトルウの問いには答えなかった。

「見たまえ、これを。我々の作ったものとは比べものにならない回転演算部の精緻さ。一次記憶素子の配列の見事さ。真の天才のひらめきが見て取れよう。そうは思わぬか」

「ええ、まあ」

「礼を言う、マイスタ」

 フォジフォスはトルウに向き直り、東洋の人がするように深々と頭を下げた。

「この場所への道を示してくれたこと。私をここに導いてくれたこと。そしてなにより」

 フォジフォスの視線が、プリズマティカを捉えた。「ティカをここへ連れてきてくれたこと。やはり私は間違っていた。その者が必要だ。私だけではどうにもならない」

 フォジフォスはもういちどタイプライタのキーに手を触れ、そして力なく首を振った。

「あたし?」プリズマティカはフォジフォスが何を言おうとしているのか、想像がついた。

 フォジフォスがタイプライタから顔を上げ、プリズマティカに視線を向けた。

「謝らねばなるまい。五〇年前、我々はお前を守れなかった。異端審問官は組合の内部に刺客を送り込んだのだ。お前を守るために、何人もの仲間が殺された。お前を守るためなら、ああ、私だって命を投げ出す覚悟だった。だが、最期にはアルジェンティナ政府が節を曲げた。お前を騒乱の廉で処刑し、異端審問官に差し出したのだ。我々はそれを止めることはできなかったのだよ」

 ああ、やっぱり。プリズマティカは、自分の突拍子もない仮説がフォジフォスの口から語られるのを聞いて、思ったよりもずっと冷静でいられる自分に驚いていた。

「パスカルは死して聖女となり、欧州連合が生まれた。遺された我々はパスカルの栄光にすがり、なんとかその残照を消すまいと努力を続けてきた。しかし、その間にも世界はまた少しずつ変化していった。いつしか大陸の都市のあちこちで地脈が枯渇するようになり、ついにはアルジェンティナにも病の兆しが訪れた。人々は西の都市を捨てて東に新たな土地と地脈を探しに出かけ、オスマン帝国との軋轢は日に日に高まってゆく。このようなときに、何故、我々は、世の中に道筋を示すことができないのか? パスカルのかつての偉業を五〇年を経て再現することすらできないのか? 我々は自らの無能に歯がみする日々だった。

 だが、奇跡が起きた。一年前、冷脈の縮退によって、地下埋葬場の温度が急激に上昇するという事故があった。もしやと思って私は地下埋葬場にかけつけて、沢山の屍体の中からパスカルを見つけ出したのだ。

 数百分の一の確率でパスカルの体組織は破壊を免れ、仮死状態に置かれていた。蘇生は成功したが、お前は、全てを忘れていた。自分が何者なのかも、かつて自分が成し遂げた偉大な業績も、そして、この場所に辿り着くための迷宮を解く鍵もな。

 それでも私は諦めきれなかった。お前はいつか、何かのきっかけできっと思い出す。そう思って、だから私はお前に下水掃除人の職を勧めた。かつてパスカルが地下迷宮にこの場を見いだしたように、お前も地下をさまよううちに五〇年間を思い出すと思ったからだ。ロジェを世話役につけたのも、彼をつてに、たびたび学寮にお前を招くためだ。研究室や電気算盤を見せれば、何か思い出してくれる、そう思ったからだ。しかし、駄目だった。いたずらに時間だけが過ぎ、我々は世の中に何一つ道しるべを示すことができぬまま、戦の狼煙が明日にでも上がるというところまできてしまった。

 しかし、たった二ヶ月前のことだ。帝国地理院の最年少のマイスタとしてマティウス・トルウなる者が任じられたと聞いたとき、私はこれこそが来るべきものだと知った」

「え?」トルウは、それも当然だろうが、突然自分の名前がフォジフォスの話に出てきたことに戸惑った様子を隠せない。「どうして私が?」

「ああ、マイスタよ。わたしは嘘をついたのだ。パスカルが遺した記録の中に、そなたの名前があった。五〇年後の未来を予測し、その予測の一点をある人物に絞り込んだとき、その人物にパスカルは名前をつけていたのだよ。マティウス・トルウとな」

 トルウは愕然とした様子で、ゆっくりと首を左右に振った。ニコル・マケニットの家でトルウの名前を出したとき、ニコルが訝しげな様子だったのは、彼女もパスカルの記録の中でその名を知っていたからだろうか。

「やるべきことはわかっていた。パスカルの予言は成就させなくてはならない。都市政府に手を回して地理院に依頼を出させ、そなたにはパスカルの名で手紙を出したのだ」

「やっぱり、そうだったんだ……」

「ティカ、お前が彼を連れてきたとき、私は心から驚いたものだ。なんという巡り合わせ、これこそ、神の導きという名で呼ばれる、我々の知らぬ宇宙の摂理の一つだとな。さあ」

 フォジフォスがプリズマティカに向かって身体を開き、タイプライタを示した。

「もはや、わざわざ言うまでもないだろう。ティカ、お前がパスカル・アルファだ」

 そんな、馬鹿げたことがあるわけがない。そう思う一方で、ああ、やっぱりそうかと思う部分がある。何故、一年より前のことを全く思い出せないのか不思議に思うことがあった。パスカルの生家に行ったときに感じた奇妙な感覚。そして、何より、ただの行き倒れの娘にすぎない自分に、フォジフォスのような者がこれほど親身にしてくれたという事実。

 そして何より、プリズマティカは自分がパスカルのようになることを望んでいたのではなかったか。ずっと前から同い年の若者達と一緒に机を並べ、勉強してみたかった。本を読むのは苦手だと思っていたけれど、文字を追いかけ、その中に書かれている事実と真実とを結びつけて考えるということがこれほど心躍るものだということを知った。いや、知ったのではなく、そういったことに憧れていた自分を思い出したのだ。

「これまで辛い思いをさせたよ。お前がアルジェンティナにやってきてからずっとだ。だが、もういいのだ。お前には学寮でもっとも広い研究室が与えられるだろう。何人もの学生達がお前の知性に憧れて徒弟となるだろう。その何倍もの者達がお前の講義を聴くために大陸中から集まるだろう。さあ、ここへ」

 プリズマティカはフォジフォスの指し示すタイプライタの前の椅子に近づき、小さく質素な椅子に身を沈めた。冷たく硬い木の触感を伝える椅子とテーブル。手が自然とキーボードに伸び、人差し指がキーを撫でる。この感覚、確かに身体のどこかが覚えている。暗く沈黙する光電管の奥に何かのメッセージを見いだそうとするかのように目をこらす。そう、これが光電管であることを自分は知っている。電源を入れれば、ここに赤い光でゼロが八つ浮かび上がることを知っている。

 ああ、自分はやっぱり。

 プリズマティカは、大きく息を吸い、そして吐き出した。何も示さない光電管の奥をぼんやりと見つめながら、はっきりと答えた。

「あたしはパスカルじゃない」

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