5.2 お前は自由だ
その人物に会うのが簡単でないことを、プリズマティカは知っていた。学寮長としての仕事は研究室とは別の部屋ですることになっていて、会うためには秘書を通さなくてはいけない。顔見知りではあるが、決してプリズマティカに好意的ではない中年の秘書の女性は、「二時間待ちなさい」と冷たく言った。
プリズマティカはその二時間の間、石造りの学寮の中庭で、芝生の中に無造作に置かれたベンチに座って、これからすべきことについて考えた。
トルウが偽物かもしれないということは気持ちを不安にさせたが、きっと何かの策略か間違いだろうと自分に言い聞かせた。フォジフォスとの会話やロムステットでの仕事ぶり、〝マビノギオン〟での様子を思い出すと、やはりトルウは若さや外見に似合わぬそれなりの職人ではないか思えてくる。
一方、偽物だろうが本物だろうが、トルウが捕らえられたことは、落ち着いて考えてみれば奇妙な話だ。藁にもすがるおもいでトルウを呼んだ政府以外は、空白地帯に冷脈の吐出口があるなんて思っていないし、ロムステットにそれがある可能性をトルウは誰にも話そうとしなかった。であれば、トルウがどこで何をしようが騎士修道会にとっては関係の無い話で、彼を拘束するいわれはない。とういうことは、やはり空白地帯に、〝時間通信器〟があるということなのだろうか。ひょっとしたら、プリズマティカが、あのいけ好かない貧乏貴族の娘に「トルウは二時間もあれば空白地帯にたどり着ける」と豪語したことが、騎士修道会の耳に入り、彼らの不安を煽ったのではないだろうか?
であればトルウを救出する責任はプリズマティカにある。
そして、騎士修道会は時間通信器なるものをどうしようというのか。なぜこれほどあわてて手にいれようとしているのか。それを言うなら、騎士修道会が政府に示した期限と、ロジェがプリズマティカと暮らすことになっていた期限が一致しているのは偶然なのか。
いや、そもそも自分は何をやっているのか。地理院の間抜けな若者が、学生団のバカ共に捕まったところで、時間通信器が騎士修道会の手にわたったところで、自分に何の関係があるというのか。これまでどおり、毎晩、下水の掃除をしながら、あの部屋で暮らしてゆけばいいではないか。自分はこんなにも魅力的な女の子なんだから、きっとすぐに新しい恋人だってみつかるに違いない。
……しかし、プリズマティカは苦笑を浮かべて頭を振る。それはたぶん、もう自分の生き方ではない。そのことを確認するためには、もう一度トルウと会って話すことが必要だ。
二時間より少しだけ早めに秘書の机を訪れたプリズマティカだが、彼女を迎えた秘書の女性の表情と言葉には戸惑いが隠しきれていなかった。
「……その、フォジフォス師は本日の予定を全てキャンセルされました」
プリズマティカは舌打ちし、挨拶も礼もそぞろに執務室を辞すると、フォジフォスの研究室に向けて階段を駆け上がった。
研究室の扉は半開きになっていた。
部屋の中は、荒らされてはいないが、雑然とした印象が強くなっていた。もちろんフォジフォスの姿はない。プリズマティカは部屋の中央に立って部屋の隅々に視線を走らせた。そして、唐突にひらめいたものがあって、目の前のテーブルのガラス天板に手をかけると、重い天板を持ち上げた。すると、天板に張り付いてきた古地図の下から、二つに折られた紙片がふわりと舞い落ちた。
テーブルの天板をもとに戻し、紙片を拾い上げる。
時間が来たようだ。彼らはもう何度も期限を延期していたが、もう待てないということだろう。
聖堂騎士団(タンプル)の末裔どもに、かの技術を渡すわけにはいかない。狂信者の尖兵たる彼らは、東の帝国との開戦を待ちわび、非戦論者達の口を封じようとしている。一〇人が安楽な生活を送るために、一人の同胞と沢山の異国人を殺すことがさも避けられないことであると、多くの人々が考え始めている。
十字をまとった者達が怖れるのは、聖女が甦り、そのプロパガンダのもとに、東と西の和平に向けた動きが始まることだ。ああ、時間通信器などなくても、東西の戦争が始まれば世界に地獄が訪れるということ、誰もが分かっているというのは滑稽なことではないか!
皮肉と言うべきか、聖女を甦らせ、かの技術を再びこの世にもたらすことはついに叶わなかった。せめて連中の手にその技術が渡らないことを幸いに思うしかない。お前も、そして最後の頼みの綱だった地理院の若者も、責めることはしない。ただし、私はあと少しの悪あがきをしてみようと思う。
お前は自由だ。好きな所へゆくがよい。
宛先のないその手紙が、誰にあてたものかは明らかだった。そして、プリズマティカは自分の妄想じみた考えが正解であったことを確信した。だからと言って今すぐプリズマティカに何かの強大な力が備わったわけではない。今はトルウの力が必要だ。
気配、というには、相手は自分の足音も服の衣擦れも隠そうとすらしていなかったし、できなかったことだろう。開いたままの扉を振り向いたプリズマティカは、そこに、両手で口を押さえ、眼鏡の奥の目を驚愕と恐怖で見開いて立ち尽くすウルスラを発見した。
「動くなっ」
いくらプリズマティカがそう叫んだところで、ウルスラが逃げない道理はなかった。声にならない悲鳴をあげ、足をもつれさせながらも脱兎のごとく駆けだしたウルスラだったが、プリズマティカにマントの端を捕まえられ、びったーん、と派手な音を立てて不様にうつぶせに倒れるまで、五秒とかからない。プリズマティカは、小柄な娘の身体を仰向けに引き起こして、馬乗りになり、膝でその両腕を廊下に押しつけた。右の頬が真っ赤に腫れ、わなわなと震える口から、嗚咽とも悲鳴ともつかぬ声が漏れてくる。プリズマティカは手を伸ばして廊下の端に飛んだ眼鏡を拾って、適当に顔にかけてやる。
「フォジフォスをどうしたっ」
「し、知らない!」
ウルスラの顎を人差し指で突き上げながら、「人が来るかもしれないから、早く答えて」
「ひ、ひひひ、痛い痛い……」
「痛いじゃなくて、フォジフォスをどこにやったのよ!」
「だ、だからひらないですわよっ! だからさがせてってひわれて、わたくしは……」
プリズマティカは指の力を緩めた。この女は嘘をついてるわけじゃないかもしれない。方針を変える。「じゃあ、信じる。で、トルウはどこ」
「ひっ」
「知ってるんでしょ」
「……あんたみたいな淫売に、誰が言うもんですか!」
本当に、馬鹿を通り超して可哀想になってくるような馬鹿な娘だ。嘘をついてはいけません、と子供の頃からしつけられているのだろうか。
「じゃあ、その淫売の練習でもする? この服全部はぎとって、真っ裸で道に放り出したら、さすがにあんたみたいな貧相な娘でも誰か振り向いてくれるかもよ?」
そう言いながら、実際のところほどよく盛り上がったブラウスの胸元に手をかけると、ああいやいやいやあ、と、盛大にわめき始める。「だから、早くいいなさいって!」
「……学生牢……ポワンカレ通りの」
「ありがと」
素早く立ち上がり、その勢いのまま、階段を駆け下りる。ウルスラがどんな表情をしていたかなど、興味のないことだった。
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