5. EXPERIMENT

5.1 あたしのノート

 翌朝、約束の時間を待ちきれずに、プリズマティカはトルウのホテルに向かった。ホテルのロビーに着くと、トルウはすでにソファに座って待っていた。昨日調べた紙を束ねたものをめくっていたが、プリズマティカの姿を認めると立ち上がり、笑顔で手を振った。

「なんだい、今日は妙な着合わせだね。ちょっとどうかと思うけど……」

 下水掃除用のボディスーツの上に地理院の上着を羽織った格好は、確かに駆けだしの街娼みたいだと自分でも思うが、今日はそれどころでではない。

「トルウ、ねえ聞いて。どうしてもあなたに聞いてもらいたいことがあるの。自分でもちょっとどうかしてると思うけど、考えれば考えるほど、それしかないって結論に辿り着いたの」

「こっちもだ。賭けの要素があるけど、なんとかやれると思う。もちろん、君の協力が不可欠だ。これから下水に降りるから格好はそれでもいいけど……結論?」

 そのとき、ロビーにいた人々の間にざわめきが広がった。乱暴な甲高い靴音が重なり、玄関付近にいた人達があわてて左右に散った。インヴァネス姿の若者が五人、辺りを睥睨しながらロビーに入ってきた。その瞬間にプリズマティカは相手の正体に気づいたが、彼女もトルウも完全に不意をつかれて身構える隙も無かった。男達はあっという間に二人を半円状に取り囲む。土地の人間なら学生団の不作法にも慣れているが、ホテルの宿泊者はそうではない。小さな悲鳴があちこちであがり、少なくない客があっという間に遠巻きになった。

 口火を切ったのはおなじみのアントレイヴァスだ。

「うまく騙したつもりだろうが、とうとう尻尾を出したな」アントレイヴァスは高い声を一層張り上げて、宣言した。「事象学組合学生団の自治権をもってお前を逮捕する」

「先日も申し上げたように、私は都市政府からの正式な依頼で仕事をしている身です」

 トルウの声は落ち着いているが、いつもの余裕はない。単なる恫喝では済まないと感じだからだろう。

「都市政府からの依頼の中で保証される都市内での行動の自由と、本来の帝国地理院組合員の立場の両方で、私は不法な逮捕などからは守られています」

「その立場とやらがデタラメであることが分かった今、貴様を守るものなどどこにもないということだ」

「え」

「帝国地理院に身分照会の電文を打ったのだ。そうしたら、なんと回答があったと思う? マティウス・トルウなどという者はうちにはいません、ときた。そのような者がいるとすれば、地理院組合員の名を騙る偽物の可能性がある、とな」

 トルウの口もとが、しまった、という形に動くのをプリズマティカは見過ごさなかった。

 顔から、全身から血の気が引いた。やっぱりねえ、方向音痴の地理院のマイスタなんておかしいと思ってたんだ、だいたい若すぎるし! 三日前なら、そうやって笑い飛ばせば済むところだった。しかし、今のプリズマティカはこんな暢気でいいかげんそうな若者でさえ、頼るしかないのだ。

「ねえ、トルウ、こいつの言ってること嘘だよね? 船だって持ってるし、そう、フォジフォスだってトルウのこと知っていたし、だいだい……」

 そのとき、トルウの鋭い視線がプリズマティカを射貫いた。思わず息をのむ。黙れ、という意志は言葉にせずともわかった。そして、突如としていろいろなことが腑に落ちる。プリズマティカは黙っているわけにはいかない。

「まって! ちょっとまって、あんたは騙されてるの、アントレイヴァス! 騎士修道会になにを吹き込まれたか知らないけど、あの連中は、それを、事象学組合から取り上げようとしているのよ、その、時間……」

「ふん、お前の言う通りだ。都市政府は空白地帯に冷脈の吐出口を探すなどという行動の無意味さをようやく理解して、騎士修道会の要請に応えることにした。このトルウとかいう若僧が偽物であろうが無かろうが、用済みということだ。お前もな、この淫売め」

 プリズマティカはトルウの表情から何かを読み取ろうとした。何か自分にできることがあるはずだ。しかし、トルウは無表情のまま唇を噛みしめてうつむいている。プリズマティカは、手錠をかけられ、両脇を学生達に固められたトルウに向かって叫んだ。

「ねえ、トルウ、どうしたらいいの? ねえ」

 しかし、トルウはプリズマティカを完全に無視したまま、両脇を警官に捕まえられて玄関の方に引き立てられていった。プリズマティカがそれを追いかけて二三歩進んだところで、鋭くトルウが言った。「ああ、服は君にやるよ。大事にな」

 だが、その声を聞いた学生の一人は、プリズマティカの羽織っていたマントを強引に引きはがした。マントの内ポケットからは昨日プリズマティカが書き出したノートが滑り落ちた。

 それを見ていたトルウは舌打ちし、ノートを拾い上げた学生は嬉しそうに笑った。「秘密ノート発見だな」

 あたしのノート。

 (そういう女の子は、こんなノートを作れないよ)

 それは、何者でもなくなってしまったプリズマティカを、プリズマティカではない誰かにしてくれる言葉だった。

 怒りが、身体の外に出すことがかなわない怒りと悔しさと悲しさが渦をまき、体温を上昇させた。それを抑え込もうとして拳を握りしめる。かつてのプリズマティカなら、感情にまかせて学生達に殴りかかったかもしれない。だが、今の彼女は彼らに涙を見せるわけにはいかなかった。トルウを連れた学生達が、プリズマティカにはもう一瞥もくれずに立ち去ったあと、閉ざされたホテルのドアを見ながらプリズマティカは大地を踏みしめるようにして立ち、息を整え、自分がするべきことを考えた。

 頼れる人物はあと一人しかいない。

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