4.4 じゃあ元気で
家に戻ると時刻は九時を回っていた。ロジェは自分の机ではなく、食卓代わりの小さなテーブルで本を読んでいたが、いつものような笑顔でプリズマティカを迎えてくれた。
「ごめん、夕ご飯たべてきちゃった」
「君は朝、食べてくるかもしれないって言ってたじゃないか。僕もすませたよ」
ロジェが摂ったであろう、パンとチーズの質素な夕食のことを考えると、幾ばくかの罪の意識にさいなまれる。そう思うと、今着ている地理院の扮装も居心地が悪い。だがあのことを相談するのならば、むしろこのままの方がいいかもしれない、と考え直した。
「あたし、ロジェに相談したいことがあるの」
「ああ、そうか。実は僕も君に報告することがあるんだ」
プリズマティカはぴんときた。そうだ、そろそろ士官学校の願書が受け付けられて、受験票やらなにやらが送られてくるころじゃないか。試験の日取りも決まったのだろう。鉄道の切符も買わなくてはならない! サラセンとの戦争の話は心の底にどんよりと漂っていたが、それをプリズマティカは忘れることにした。
「じゃ、ロジェの話を先にしてよ。あたしの話は別に今日じゃなくてもいいし」
プリズマティカは、ロジェの前の椅子に座り、身を乗り出した。それまでゆっくり流れていた時間が一気に動きだす、そういうこともあるのだ、とプリズマティカは感じていた。ロジェは、にこりと笑い、じゃあ、僕からと言った。
「僕は士官学校を受験しない。願書も出していない」
「え」
プリズマティカは、ロジェの笑顔を、生気のない絵のように見つめていた。
「そもそも最初から受験するつもりなんてなかった。技術組合に籍をおいたことのあるものは軍には入れないんだ。君がそれに気づいた時点で、ばらさなくてはならないと思っていたけど、なんとか今日までは知られずにきたということだね」
「あたし、あなたの、言ってることが、わからない」
「僕は、ある人に言われて、いや、もういいか、フォジフォス師に頼まれて君と一年という約束で暮らしてきた。最初の約束の一年が過ぎ、あと一ヶ月延ばしてくれ、といわれたもう一月もたった。本当は受験しない士官学校からいつまでたっても受験票が届かないという状態では、ごまかすのも限界だと思っていたんだけど、今朝、もう終わりにしていいっていう指示がきたんだ。」
そう言ってロジェは—その時点でようやくプリズマティカはロジェの傍らに置かれた小さな背嚢に気づいた—そこから小さな紙片と、たくさんの曲線で飾られた紙を取り出した。
「今夜、十一時五十分発のシャルトル行きの切符と査証。明日にはオックスフォードまで行くんだ。きみに挨拶しないまま出て行くのはちょっと辛かったから、最後に会えてよかったと思う」
「待って、ロジェ、あたしも一緒にいく。ね。待って、準備するから」
慌ただしく立ち上がったプリズマティカを、ロジェは低い声で制した。
「切符も査証も僕の分しかないんだよ」
「検問なんてなんとかなるわよ。切符だって、貯めたお金があるし」
「君とは一緒に行けないんだよ」
ため息をついて、ロジェは言った。
「一年も暮らしてたんだよ。君は元気で可愛らしかったし、最初は言われてやっていたことだけど、もう少しで本当に好きになるところだった。でも、先生に言われていたのは、君には絶対に手をだすな、ということだったからね。僕は約束を守ったさ」
そう言って、ロジェは立ち上がった。
プリズマティカは動けなかった。
本当に好きになるところだったって……。
ロジェは背嚢を背負いあげ、居間から玄関までの短い道のりを五秒ほどで歩いた。ノブに手をかけて、プリズマティカを振り向かずに言った。
「じゃあ、元気で」
プリズマティカはさよならの一言も言えないまま、ドアの閉まる音を聞いた。足音が小さくなり、すぐに聞こえなくなった。
何かの間違いに決まっている。いや、きっと冗談に違いない。だましてごめん、とか言って、帰って来るなり、笑いながら抱きしめてくれるに決まっている。プリズマティカは突然立ち上がり、ロジェの勉強机のところに走った。
何も残っていなかった。
古道具屋で買ったシミだらけのクローゼットも空っぽで、拭き掃除した跡さえあった。
二つずつあったコップや食器すら無くなっていた。今日のうちに処分したのだろうか。几帳面なロジェのことだ、プリズマティカに迷惑をかけまいということなのかもしれないが、ロジェがこの部屋に住んでいたという痕跡すら消そうとしているようだった。
まだ間に合うかもしれない。
プリズマティカは、ドアを開け、外に飛び出した。階段を駆け下り、すっかり暗くなった通りを勤め帰りの人達とすれ違いながら走る。その目の前をトラムの車両が走り抜けてゆく。人気のなくなった停車場に立ち、息を切らせて後ろ姿を見送る。
まだ、間に合う。列車が出るまでになんとか中央駅までたどりつけることができれば。
しかし、ロジェを捕まえたとして、なんと言えばよいのだろう。
そうだ、言葉なんていらない。抱きしめて、キスすればきっと気持ちは通じる。
でも、これまでプリズマティカはロジェとキスすらしたことがなかったのに。
体中の力が抜けて行くようだった。
踵を返し、家への道をとぼとぼと戻る。
一度、気を抜いてしまうと、もう、こらえようがなかった。
せめて声は出すまいと、必死で唇を噛みながら歩いた。
恋人同士ですらなかった。プリズマティカが勝手にそう信じていただけだった。だまされたという怒りはなかった。ただ別離の哀しみと、いずれ、自分が何者でもなくなったということに気づくだろうという直感が、恐怖となって心を蝕んでいた。
何者でもなくなる。
そうだろうか。ロジェの言っていたことを思い出せ。ロジェは今日、突然プリズマティカのことが嫌になって出ていったわけではない。前から、最初から恋人ではなかった、と言ったではないか。フォジフォスに言われて恋人を演じていただけだと。何者でもなかったのだ。最初から。そうなのか。それだけなのか。何かおかしいのではないか。
突然に思いついたその考えを、最初、プリズマティカは自分の妄想だ、と冷静に分析していた。だが、トルウと会ってから見聞きしたことをつなぎ合わせればそうするほど、妄想ではないどころか、全てをすっきりと説明できる真実のように思えてきた。ロムステットで感じた奇妙な違和感、今日、ニコルがプリズマティカに示した態度、そしてなによりこれまでフォジフォスが示してくれた厚意の数々、それは単なる親切としては、考えてみみればおかしなところが多すぎる。
(きみみたいな女の子は、こんなノートを作れないよ)
そう、あたしはあたしじゃない。あたしは。
食いしばった口からは嗚咽を漏らしながら、流れる涙を拭いもせず、幽鬼のような足取りで部屋の道を辿る。でもプリズマティカの頭の中では、それが妄想か真実かを確かめるための方法が猛然とした勢いで組み上がってゆくところだった。
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