4.3 私達は彼女を忘れないわ
プリズマティカがトルウから頼まれたのは過去の組合員の名簿だった。外国語よりもわからない数式の混じった論文を読むのは楽ではなかったが、字だけの名簿をめくることよりはましだったかもしれない。
まず、プリズマティカは、パスカルが在籍していた当時のメートルへの昇任記録を調べた。それは容易に見つかった。その年、事象学組合のメートル位を得たのは七人で、その中にはフォジフォスとパスカルが含まれていた。ただし、それは問題の最後の論文が発表されるわずか一年前である。するとパスカルはそれまでただの若年構成員だったのだろうか。学生の名簿は、特に当時の名簿はほとんど残っていなかった。年齢から考えて、この年には在籍していたはず、という代の名簿を見つけたものの、名前を見いだすことはできなかった。生家での例もあり、名前を削除された可能性もある。
次に人名録を引っ張り出す。五十年前から組合に在籍していて、今も存命中の人物は、フォジフォス以外にも沢山いるだろう。だが、見つけることができたのはわずか八名に過ぎなかった。しかも全て組合を引退している。正組合員になることなく学生のまま組合を去っていった者はまだまだいるだろうが、追跡して話を聞くすべはない。とりあえず、名前と住所を書き写す。市内に住所が三人。明日にでも、いや、トルウが良いと言えば、これから尋ねてみようか。
「捨て猫の淫売が図書館で勉強なんて、なかなか珍しいものを見せて頂きましたわ」
ささやくような声に、はっとして名簿から顔を上げると、閲覧用の机の反対側にウルスラ・フォン・ヴァッサークランツの眼鏡の奥に光る暗い微笑みがあった。思わず悲鳴を上げそうになり、目が泳いでトルウを探す。プリズマティカは、しかし顎を引き、なんとか踏みとどまった。
「あなたこそ、こんなところに何の用? あなた達学生団の専門はお散歩学? 宴会学? そんなの分類にあったかしら」
ウルスラは顔の半分をぴくりとけいれんさせ、低い声ですごんだ。
「減らず口を叩いていられるのも今のうち。あなたたちが間諜ごっこに現を抜かしている間に世界は移ろっているのですわ」
間諜ごっこ、という言葉は、昨日の修道会本部での騒動を思い出して鼓動が速まったが、そんなものおくびにもださない。
「図書館ではお静かに」
プリズマティカは顔も上げずに言った。ウルスラの歯ぎしりする音が聞こえる。
「……ふ、まあ、けっこうですわ。あのトルウとかいう職人が、本来の調査をほっぽりだして尻軽な淫売と遊び歩いている件、都市政府の役人達は良く思っていませんことよ。まあ、私達としてはよほど都合がいいんですけどね」
「契約は二週間あるわ。 あんなもの二時間で片付くもの」
「嘘をおっしゃい。そんな簡単なことにわざわざ地理院のマイスタを呼ぶわけがないわ」
プリズマティカは少しだけ頭を上げて、上目遣いにウルスラをにらみつけた。
「あたしはこう見えても現地雇いの助手としてトルウの仕事ぶりを見てきた。最年少マイスタ記録保持者の名はダテじゃない。あんたには言えないけど、彼は昨日、軽く歴史を塗りかえちゃうような発見をして、それをあたしは目の前でみたわ。ああ、言いたい。でも言っちゃだめなんだよねえ」
「まさか……」
「だいたい、この都市に着いたその日のうちに半分くらいまで地下迷宮を解いたの。最初はあたしもでまかせだと思ってたけど」あのときは信じなくて悪かった。「本当かもね」
ウルスラの顔は悔しさ歪み、いまにもプリズマティカに飛びかからんばかりだった。プリズマティカも何食わぬ顔でも、全身に力を込めていたが、やがて、ウルスラは大きく息を吐くと、「覚えていらっしゃい」と、個性のない捨て台詞を残して席を立っていった。
散々な言われように何度拳を握りしめたか分からないが、とりあえずの戦術的勝利の余韻を噛みしめていると、疲れ切った顔のトルウが戻ってきた。
「うまくいかない。パスカルのかつての研究室の場所とか、当時の研究費の使い道とか、あとはパスカルの処刑の様子とか一通り調べてみたんだが、どうしても肝心なところが見つからない。そっちはどうだ」
「さっき、ウルスラがきたわ。あたし達が空白地帯に近づかないのは奴らにとって都合がいいらしい」
「それが騎士修道会の意図でもあるっていうなら、逆に気になってくるね」
「でしょ? それから、紳士録から存命中の組合員でパスカルを知っていそうな人を見つけた」
「ほう、良くやった。大変だったろう。すまないけど、今からその人を訪ねてきてくれるか?」
「今から?」考えてはいたものの、トルウがそれを言い出すとは思っていなかった。
「学生さん達は、まあ、ほっておいて大丈夫だろう。それより、騎士修道会のマイヨール管区長は宣言通りに動くはずだ。おそらく明日が勝負になると思う」
「また、地下に潜る?」
「おそらく。その判断も今夜中にする」
トルウは、その場で、聞いておくべきことの簡単なメモを作り、さらに手土産代と言っていくらかの紙幣をプリズマティカに渡した。プリズマティカは立ち上がり、巡査がやるような敬礼のまねをすると、閲覧室を飛び出してゆく。
プリズマティカが向かった先は旧市街の外れの上品な住宅街だった。彼女が住んでいるような五階建ての無愛想なアパルトマンとは違い、壁を真っ白い漆喰で固めた二階建てのテラスハウスが綺麗にならぶ一角である。通り番地を辿って行くと、目当ての番地の表札にはニコル・マケニットという名前があった。ドアの前には落ち葉が少し落ちていているだけで、まめに掃除されているようだ。息を整え、呼び鈴を押す。はい、というくぐもった声が家の中から聞こえ、やがて扉が内側に細く開いて、銀髪の老婦人の顔が覗いた。プリズマティカより頭一つ分も小さい小柄な女性だ。
「あの、マケニット師(メートレ)でいらしゃいますか?」
老婦人は、メートレというよりは、停車場の前のパン屋の女将さんを連想させるひとなつっこい笑顔を浮かべて答えた。「組合は引退したわ。私はニコル」
「あの、私はプリズマティカと言います。パスカル・アルファの話をお聞かせいただけないでしょうか?」
「その名前はずいぶん久々に聞くけど」ニコルは、別に気分を害した様子もなかったが、特に嬉しそうでもなく淡々と言った。「あなたも彼女の伝記を書こうというの?」
「伝記? いえ、そうではなく……」
「まあ、おはいりなさいな。一人暮らしの話し相手もいない老人の家をこんな昼下がりに訪れるなんて、運の悪い子ね」
とんでもない。プリズマティカは銀の羽根のついた帽子を取って礼を言うと、ニコルに続いて家の中に入った。
こぢんまりとした玄関ホールを通って入った居間は、壁という壁に本棚がしつらえられており、くすんだ色の背表紙で埋め尽くされていた。わずかに残った壁面には、まばゆいほどの輝きをはなつ、くっきりとした銀河の写真が飾られていた。窓際には古風な真鍮の天体望遠鏡が置かれている。プリズマティカはニコルの専門を確認してくるのを忘れたことに気づいた。行きがけに買ってきた林檎のショコラは喜ばれたようだが、余計なおべんちゃらを言うのはやめておこうと思う。
やがて老婦人は、両手に白いティーセットを持って居間に入ってきた。「故郷を離れてもう六十年というのに、珈琲は好きになれなくてね」
プリズマティカの身分では紅茶を飲むことなど滅多にない。珈琲とは違う、穏やかな笑みのような香りが鼻をくすぐる。
「で、プリズマティカさん。あなたはこの町の人? 言葉はこの辺のものだけど、その服は帝国地理院のものね」
「え、はい。ちょっと、そのアルバイトをしているんです。もともとは、というか、この町の住人です。ええと、下水掃除人をしています」
「そう、面白そうね。そういえば昨日、地理院の船を見たわ。誰かマイスタが来ているのかしら」
「はい、マティウス・トルウという、まあ若僧ですけど、でも腕は確かで」
「マティウス・トルウ?」
ニコルは目を細め、何かを思い出そうとしているようだった。
「ご存じなんですか、トルウを?」
「……いいえ。そんなはずがあるわけない。偶然でしょう。ごめんなさい」
ニコルは小さく頭を振り、すぐにまた顔をほころばせた。「聞きたいことがあるのはあなたなのよね。どうぞ、質問して」
「はい。ええと」プリズマティカは行きがけに整理してきたことを思い出す。
「パスカルはどんな人だったんですか?」
「可愛らしい娘さんだったわ。そう、丁度、あなたのような。とても、そう、言われるような天才とか、変人とかではなくてね」
「ご一緒に仕事をされたことがあるんですか?」
「何度か話したことはあるわ。女性の組合員は今よりもっと少なかったし、私は二〇才を過ぎていたけど、お姉さんのつもりで接していたわ。でも、彼女は、幼年組合員として一年、正組合員として一年の合計二年しかいなかったの。思い出といえるほどのことはなかった」
ニコルの答えはよどみなかった。
「組合に入るまではロムステットにいたのですか?」
「ロムステット? ああ、パスカルの故郷ね。わからないわ。そうかもしれないし、別の町の学校にいたのかもしれない。そこで才能を見いだされて、組合に来たと聞いている」
「パスカルは、どこで時間通信機を作ったのかご存じですか?」
「時間通信機?」ニコルは眉を顰め、そして笑い出した。「あなたもそんなことを言うのね。まあ、確かにそんなことを書いている本もあるけど、おとぎ話よ。できるわけがないじゃない。彼女は自分の頭で、その天才によって未来の社会を計算したの」
「そうですか」
それはフォジフォスの言っていたことと寸分たがわず同じだった。
「それにしても、あなた、プリズマティカと言った? どこかでお会いしたような気がするんだけど、記憶違いかしら」
「ええと、それは多分、組合の施設じゃないでしょうか。私の後見人が、いや厳密に言うと私の友人の後見人がフォジフォス師なんです。それで私も時々プランタン学寮に行ったりします」
「フォジフォスのお知り合い?」
ニコルの目がすっと細る。「じゃあ、もちろん彼にも話を聞いたのね?」
「え、ええ、はい」プリズマティカは何故か罪の意識を感じて付け加えた。「すみません」
「いいわ。もちろん、フォジフォスは、パスカルにとって特別の存在だった。フォジフォスもパスカルのことを特別だと思っていた。私達は、つまり当時のプランタン学寮の若い組合員達はみんなでパスカルを守ろうとしたけれど、ある日、騎士修道会の暗殺者の手にかかって……」
「ひょっとして、ヨハネとかいう異端審問官ですか?」
「……え、名前があるの?」
「あ、いえ、ちょっとその、調査中で」
そりゃ、暗殺者にも名前くらいはあるでしょうと思ったが、当時、そこまで分かっていたはずはない。ただし、その受け答えに少しだけ引っかかるものがあった。
「暗殺者が、学寮に紛れ込んでいたのよ。最初は別に怪しいなんて思っていなかった。でもその人物はパスカルの周囲をずっと嗅ぎ回っていて、私達が気づいたときにはパスカルは殺された後だった」
「……その暗殺者は、その後どうなったんですか」
「それはわからない。五〇年前よ。生きているかも知れないし、死んでいるかもしれない」
それから幾つもの質問にニコルは丁寧に答えてくれたが、すでにプリズマティカが知っている以上のことはなかった。かまをかけるようにして、時間通信機あるいはそれに相当する遺品のありかも尋ねてみたが、ない、知らないという以上の答えは得られなかった。最後になってプリズマティカが思いつきでした質問は、流石にニコルの意表を突いたようだが、その答えも淡々としたものであった。
「パスカルが実在したか、ですって?」
ニコルは、眉を上げ、表情を凍らせた。笑い出すまでに数秒が必要だった。
「そう言われれば、自信がなくなることはあるわね。五十年も前。ほんの短い間のこと。でもね。あのとき世界を救ったのはパスカルだったのよ。他の誰でもない。それを私も、フォジフォスも、当時の全ての仲間達が覚えている。私達は彼女を忘れないわ」
プリズマティカは、その答えを聞いて、そう、安心した。彼女の中にあった一人の少女のイメージがしっかりと象を結び、実体のある存在として感じられるようになったのだ。パスカルなら、こう考えるんじゃないか、そう言った想像がひとかたまりの概念として頭のどこかに形を作ったのがわかった。
心からの礼を言い、ニコルの家を辞したプリズマティカだったが、その後ろ姿を見送るニコルが、ひっそりと呟いた言葉は聞こえなかった。
「これでいいんでしょう……パスカル」
結局、残りの二人には会えずじまいだった。一人は病院に入院しているということだったし、別の一人の家に寄ったもののそこは空き家で、たまたま通りかかった老婦人が、先生は半年前に他界したよ、と教えてくれた。
プリズマティカは図書館に戻り、待ち合わせたロビーでニコルの話をトルウに報告する。パスカルが暗殺者に殺された、という箇所では明らかに首を傾げたが、その理由は言わなかった。話を聞き終わり、大きくため息をついた。今日は、トルウは舌打ちとため息ばかりだ、とプリズマティカは思った。
「ありがとう。予想以上の成果だよ」トルウは笑みを浮かべて答えた。「おかげで次の手をどうしたらいいか、ますますわからなくなった」
「おいおい」
「なので、こちらから誘ってみようと思う。明日は空白地帯にゆくつもりだ」
「誘うって、誰を?」
「もちろんパスカルだよ。僕達が空白地帯に進むことで、同時にパスカルとその遺したものを追いかけている他の連中にも招待状を出すことになるだろうけどね」
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