4.2 きれいな字だよね

 気がつけば三時間ほどがあっという間に過ぎていた。プリズマティカは本を書架に戻し、疲れた目をしばたかせ、石筆の粉で真っ黒になった手を手洗いで洗ってから、待ち合わせ場所のロビーに行った。トルウはぐったりとした様子でソファに座りこんでいたが。片手には自分のノートを持って、なにやら呟いている。プリズマティカの姿を認めると、急に背筋を伸ばして無理矢理という感じで笑顔を作った。

「どうだ。論文の一冊くらいみつけられたか?」

 プリズマティカはその言葉を失礼とも思わなかった。まあ、そうだ。さっきまで目録の読み方さえ知らなかったのだから。

 プリズマティカは特に誇るつもりもなく、ノートのページを開いて見せた。トルウは、それを一瞥してたちまち笑いを消した。一枚、二枚とページをめくり、最後の随筆のところ(結局プリズマティカはそれを全部ノートに書き写した)では、全部の文字を追って最後まで読んだのがわかった。 

 プリズマティカはタイミングを見計らい、自分の考えを伝えた。

 つまり、時間通信というのは、実際に未来と通信することではなく、未来を正確に予測し、その予測された、計算上の人物と会話することなのではないか、と。そのために必要なのは、あのフォジフォスの研究室にあったような電気算盤なのではないか、と。

「じゃあ、僕が聞いたパスカルの声は何なんだ」

 長い沈黙のあと、ようやく返ってきたトルウの声はすこししゃがれていた。

「声? あなたがもらったのは手紙なんでしょ?」

 トルウはまた黙り込んで、プリズマティカのノートにじっと目を注いでいる。プリズマティカは大きく息を吸って言った。

「ねえ、トルウ。あたし頼みがあるんだけど」

「僕もある。とりあえず昼食にしよう」

 プリズマティカは頷いた。


 図書館に併設されたカフェはちゃんとした食事もできる立派なものだった。若い組合員などではなく、観光客や食事だけを目的として来るような金持ち達を対象にしているようだった。プリズマティカは、以前、ロジェと一緒にフォジフォスに連れられて、このような店に入ったことはあったが、決して愉快な思い出ではなかった。プリズマティカは粗末な身なりをしていたし、それ以上に作法を知らなかった。

 プリズマティカはお品書き《カルテ》を渡されたものの、中身を理解できない。字も言葉も読めるが、素材の名前と料理の方法の用語がわからないのだ。

 トルウも最初は順番に上から読んで、プリズマティカに説明したりしていたが、途中で面倒くさくなったのか、「もうサラダと鶏でいいや」と言いだし、プリズマティカには「これかこれかこれのどれかにしなよ」と選択を強制してくれたのは、正直ありがたかった。

 そのトルウのテーブルマナーはおおざっぱだった。サラダの皿は二人の真ん中においてつっつく、ナイフは右から左に持ちかえる、またしても肉のソースはパンで拭き取る。それでも食器の音は立てないし、食べた後のお皿も綺麗だ。トルウだって、十分おいしそうに食べるじゃないか、と文句を言いたくもなる。トルウを引き取って育てたという師匠はどんな人なんだろうか。多分、素敵な人なんだろうな、とプリズマティカは思い、何故か自分の顔が赤くなるのを感じた。

 プリズマティカは、トルウより少し遅れて、やたら大きなお皿の真ん中にちょこんと置かれたチキンのソテーを平らげると、意を決して考えを伝えた。自分は帝国地理院マリエンブルグでトルウのような地図製作士になれないだろうか、と。

「前も話したけど、あたし、ロジェに拾われるまでの記憶がとてもぼんやりしているの。戦争の跡みたいな誰もいない村でたった一人でいた記憶。男の人に守られていたような記憶。それはみんなとても切ない寂しい記憶だけど、でも、学校で授業を受けていたような記憶もあるの。ううん、子供達が授業をうけるのを見ていた、のかもしれないけど。それがとっても羨ましいっていうか、憧れっていうか。だから、その、とにかく、勉強をしたいの」

「年齢がなあ」話を聞いたトルウには、驚いた様子もない。「今いくつだけっけ?」

「たぶん、十七いや、一八かもしんない」

「みんな十四才までには弟子入りするか、学校に入るんだよね。それにさ、ただ勉強したいっていうなら別に地理院じゃなくてもいい。それこそ事象学組合はどうなんだい? 」

「若年構成員まではお金を払わなくちゃいけないらしい」

「旧帝国領の都市には奨学金の充実している学校もあるんだけどね。ま、本当に地理院に来たいっていうなら、推薦はできなくもないけど」

 トルウの言葉に、プリズマティカは顔を輝かせた。「本当?」

「この件が終わったら、師匠に相談してみるよ。君はその……」

 トルウは口ごもり、次に真面目な顔でプリズマティカを見つめて言った。

「何かちょっといろいろ変わってる」

「変わってる……て」

「学校にも行っていないような女の子は、こんな立派なノートを作れないよ」

「そ……あたしだって、字くらいかけるわよ!」

「きれいな字だよね」

 トルウはつぶやき、テーブルにおかれていたプリズマティカのノートに目を落とした。だが、ふと目を細めて、プリズマティカをにらみつける。

「でもさ、地理院に入るってことは、ロジェ君とは離ればなれになるってことだろ」

「大丈夫。どうせロジェが士官学校に入ったら、別々の暮らしになるし」

「その後はどうするの」

「それは……大丈夫」

「ロジェ君が任官したら、彼の任地について回るのかい? 地理院は辞めて?」

「そんな言い方しないでよ……彼とは心が結ばれてるから、離れていても大丈夫!」

 トルウはしかめ面で宣言した。

「地図作成組合への入門は却下します」

「なんで!」

「まったく、もうちょっと考えてからにしなよ」

 トルウの言い方は、彼らしくなく乱暴で、悲しそうにさえ見えた。 

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