3.5 うんすっきり
アルジェンティナの目抜き通り。自分の足もとから響くのは、ぴかぴかのパンプスが石畳を打ち付ける二拍子のリズム。通り過ぎるショーウィンドウに映る自分の姿を思わず盗み見ずにはいられない。最新モードのインディゴブルーのスーツは
「絵に描いたような
短いつきあいだが、こいつにしては最上級の讃辞だろうな、という想像はついた。何しろパトロンなので、楯突いてもしょうがない。トルウは、
プリズマティカとトルウは、大通りに面した重厚な建物の前で立ち止まった。大きな回転ドアの上には鮮やかな赤い十字とともに、騎士修道会アルジェンティナ本部と描かれている。しかし、出入りしているのは、聖職者にも見えなければ、異教徒と戦う騎士にも見えない、身なりのよい男女ばかり。現代における騎士修道会の実態が、プリズマティカが言うところの「銀行やさん」であることは間違いない。
「いくぞ」
「うん」
小さく頷き合い、二人は回転ドアをくぐって、大きなホールに出る。五人の受付嬢が半円形に並ぶ大理石の受付で、トルウが管区長に話があると告げると、受付嬢はいぶかしげな様子ひとつ見せず、電話で連絡をとっていたが、「お会いになります。係の者が迎えにまいります」と済ました顔で告げた。プリズマティカは、この手の若い娘が街を闊歩しているのを見ることはあるが、こうして仕事をしているところは滅多に見ない。目を皿のようにしてその挙措を覚えようとする。
ものの良さそうなグレーの
「空白地帯の地図ができたとしても、私に報告してもらう必要はないはずだ」
ジャン=ポール・ド・マイヨール管区長は、相手に対する敬意はおろか礼儀さえも欠く態度だったが、さすがに二人を立たせたままにはしなかった。二人を案内してきた青年は扉の前に立ったままである。
「さきほど、私の船が騎士修道会の船かの攻撃を受けました」
「知らん」
「では教えて差し上げます。船籍符号P-EAD1、F-101E
「知らんと言っている」
「銃撃を受けた際の弾痕、船の写真、いずれも現像中です。急がせましょうか」
「リヨン管区の船だ。こちらには関係ない」
「アルジェンティナ管区で起きたことです。関係ないとは言えないはずだ」
「わかった調査しよう」
「いつまでに」
「……三日」
「一時間待ちます。無電を飛ばせばすぐにわかるでしょう」
「ふざけるな若僧」
短いつきあいとはいえ、トルウがこうまで相手に対して無礼な態度を取れることに驚くプリズマティカだった。ドアの所で立っている青年がいつ懐から拳銃を出すのか気が気でなく、冗談でなくおなかが痛くなってくる。
「あ、あの……トイレ……じゃなくて、お化粧室をお借りしてもいいですか?」
おずおずとプリズマティカが言うと、場は一気にしらけ、言い合いをしていた二人の男はいずれも不機嫌そうにプリズマティカを見つめた。トルウは、舌打ちして「ったく、さっきの店で済ませておけばいいのに」と愚痴った。
管区長室の外には女性の職員がやってきていて、手洗いの場所を教えてくれた。すぐ近くなので、済んだら自分で戻れる、と言うと去っていった。
手洗いのドアをあけて中に入るが、むろん用足しなどするわけがない。三十秒数える。呼吸を整え、ドアを開いて外を窺う。先ほどの女子職員は見あたらない。こそこそするのは却ってよくない。そのための一張羅ではないか。背筋を伸ばし、つんと澄ました表情を作って廊下を闊歩する。廊下にまで敷かれた絨毯はほどよく足音を消してくれる。管区長室とは反対側に進み、階段を見つけると二階分を降りた。途中で当然、他の職員ともすれ違うが、誰もプリズマティカに気づいた様子はない。五階は人の往来が多く、むしろ緊張が解けた。トルウに教えられた十四号室は奥のほうにあった。重そうな木製の観音開きの扉である。ひょっとしてと期待してノブを回してみるが、開かない。しかたない。トルウから預かってきた万能鍵の出番だ。いかにも普通に鍵を開けるような態度で万能鍵を鍵穴に入れる。ゆっくりと回すと、かちゃり、と手応えがある。
「あれ、おかしいな」
周囲には誰もいなかったが、聞こえよがしに呟きながら抜き出した万能鍵を見る。もっともらしい鍵の形ができあがっているではないか。根本の蝶番ネジを回して形を固定し、もう一度鍵穴に入れて回す。がちゃん、がちゃんという手応えがあり、ノブを回すとドアは開いた。
中は書庫だった。かび臭い臭いが鼻をつく。
扉の脇のスイッチを入れると冷光灯がついたが、窓がないせいか決して明るくはない。そして、ここから先は全く情報がない。目的の書類はどこか。トルウがマイヨール管区長との言い争いを引き延ばしている間に探しださなくてはならない。早足で、いくつもの書棚が並んだ室内を一回りする。書棚に並んでいるのは、ほとんどが帳面やファイルの類で、印刷された本は少ない。一番奥の書棚には、十分に歴史的な価値がありそうな古い本や帳面がぎっしりと並んでいる。好奇心で取り出した一冊には、見返しにMCCCLXXXIXという記載があった。
分かったのはそれらが分類されておらず、単純に年代順になっているということだった。であれば、話は少しだけ簡単だ。今から五〇年前、一八五四年の五月一〇日。その前後とおぼしき書類を片っ端から調べてゆく。
わけのわからない帳簿のようなもの。わけのわからない議事録のようなもの。やたら大きな活字をあしらった紙に、やたらといくつもミミズののたくったようなサインが踊っているのはわけのわからない契約書か公文書だろうか。違う、これも違う。書棚は低く、一番上の棚でも脚立を使う必要がないのはありがたかったが、それでも調べるべき書類は某大な量だ。
もちろん、プリズマティカは目的の書類を見たこともなかったが、どのようなものであるかは、トルウに教わっていた。それは、「管区域入出記録」というもので、アルジェンティナ管区を訪れた騎士修道会の会員や関係者の出入りが必ず記録されているという書類だ。各管区のこの書類を参照し合うことによって、騎士修道会はお互いの会員の身分を保障することができたといい、さらには現在の為替制度の基本にもなっているという。
「うん? これか!」
何十冊目になるかわからなかったが、簡素に製本されたその帳面には、ひたすら日付と人名が並んでいた。見開きには確かに「管区域入出記録」とある。心の中で小躍りしながらページをめくる。五三年、五四年、一月、二月、三月……。一ヶ月間の入域記録が二、三人という月もあれば、数十人が同じ日にやってきた例もある。特に目的の年代の周辺は出入りが激しい。四月、五月、そして六月……。
パスカル・アルファが殺害された五月一〇日を挟んだ入退出の記録は見あたらない。そもそもそう簡単に手がかりが得られると思う方がどうかしている。プリズマティカは心の中で、こんな危険で益の少ない作戦を考えついたトルウに対する怒りがふつふつとわき起こるのを感じたが、それをも一瞬にして冷却するような物音が耳を打った。
がちゃん、がちゃんと扉の鍵を回す音。ついで、がちゃがちゃとノブを引っ張る音。
(あれおかしいなあ)とでもいうようなこもった声が聞こえたような気がした。それからもう一度、鍵を回す音がして、今度はドアが開いた。
そのあいだ中、プリズマティカは恐怖に身を縮こまらせて、その場を動けないでいた。
「ちょっと誰か居るの? 鍵は内側につけておけって言われてるでしょ?」
甲高い女性の声だった。プリズマティカは一瞬だけ躊躇し、息を吸って大声を出した。
「すいませーん。忘れてましたぁ」
「あなた誰? ジョセフィーヌ?」
「いえ、プ……パスカルです」とっさに答える。とにかく逃げだそう。手に持ったままの「管区入出記録」を閉じようとしたとき、手が滑ってとり落としそうになる。あわてて掴んだ時、数ページ前の箇所に指が挟まった。つい、そのページを開いてしまう。そこに奇妙な記録があった。
「パスカル? どこの子?」
「庶務課です」
「庶務課がなんで書庫なんかに? どこの鍵を借りてきたの?」
「そ、それがボスがとにかく管区長の指示だからって、なんか地理院ともめてるとかって」
「ああ、その件か」
そうなんですよ、とプリズマティカは思わず大きく息をついた。女性職員の足音はプリズマティカからは遠くなってゆく方向のようだ。急いで手元のページを確認する。
『異端審問官ヨハネ・ドミニクス師ならびに従者
一八五三年二月二二日 年 月 日』
入域の記録だけで出域の記録がないのだ。そんな例は他に見あたらない。その後に死んだということだろうか? それとも今でも、この街に住んでいるのだろうか?
「管区長も大変よねえ。ラ・ローシュからは猶予は一切認めないってお達しだし、あの方からは手を出すなって釘を刺されたそうだし」
「そうですねえ(ラ・ローシュ? あの方って?)」
「おまけに学生団のバカどもは、うちがパトロンについたからって好き勝手にやってるくせに、何一つ成果出さないし」
え、それってどういう意味?
今度こそプリズマティカは帳簿を書棚に戻し、心を落ち着かせながら、名前も知らない「先輩」に姿を見られないように、出口に急ぐ。
「どうでもいいけど、異端狩りごっこにうつつをぬかして、本業を疎かにするのはやめてほしいわよねえ」
「ほんとうにそうですねえ。それじゃあ」
「あ、ちょっと、パスカル? あなた、鍵は……」
もうゆっくり歩いてなどいられなかった。乱暴に書庫の扉を閉め、振り返りもせずに廊下を走る。タイトスカートの限界まで足を開いて、二段抜きで階段を七階まで駆け上がる。まずトイレに飛び込んで、水を流し、二回深呼吸をしてからまた廊下に出た。
角を曲がると、ちょうど管区長の部屋からトルウが出てくるところだった。
プリズマティカの姿を認めたトルウは顔をしかめて、「大丈夫か」と訊いた。
プリズマティカは、傍らに案内の青年がいることには気づいていたが、構わず親指を立てた。「うん。すっきり」
青年が驚いた表情をしたのも、トルウが舌打ちしたのもプリズマティカにとっては愉快なことだった。
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