3.3 ごめんあたし……

 トルウは、プリズマティカのデザートをだしに、もう少しその店で粘るつもりだったのかもしれない。広場に戻ると、教会の建物の日陰にあった、何かの建物の礎石に座って、午前中に取った数値の計算を始めたのだ。早速、子供達が周囲に集まってくる。とはいえ躾がいいのか、邪魔をするわけでもなく、遠巻きにはしゃいでいるだけだ。

「難しい計算じゃないよ」というが、ぱっと見てロジェの受験勉強の内容よりも複雑に見える。紙に何本も線を弾き、算盤をぐるぐる回し、出た数字を書いてゆく。その間プリズマティカは手伝うこともなく、大事な機材を(時々)見守りながら、広場を散策していた。

 小さいころ、この村には来たことがあったかもしれない。

 シュークルートの味は、昔に食べたことがあるような気がした。両親に連れられて訪れたことがあるとしても、別に不思議ではない、ひょっとしたらここで暮らしていたことがあったかもしれない。この村をはじめとして周辺の村落出身の者はアルジェンティナにはたくさんいる。確か、ロジェも別の村の出身のはずだ。

 一年前より以前のことが曇りガラスの向こうのことのようにしか思い出せないことに対し、プリズマティカは拘っていない。だが、トルウと会って以来、何度かその記憶の不確かさが、プリズマティカの心をかきまわす。

「わかった」

 突然、トルウが立ち上がった。その表情は喜色満面である。懐中時計を取り出して、太陽の方角に翳すと、すぅっと視線と右手の人差し指を前方に伸ばす。そして、右足のかかとに左足のつま先をつけるような歩き方で、ひょこひょことその方向に歩き出す。面白がった子供達がその後をついてゆく。それは滑稽きわまる風景だったし、子供達やその親達が笑うなか、プリズマティカはあっけにとられたまま視線でトルウの行方を追う。

「ここだ!」

 トルウは教会の塀のわずか五〇サンティ手前で立ち止まると、真下を指さしたおかしなポーズで、プリズマティカの方に笑顔を向ける。「ここに冷脈の突出口がある」

 「そんなてきとうな……」

 いいかけてプリズマティカは言葉をのみ込んだ。なんということもない田舎の集落の広場だ。石畳はなく、踏みしめられた地面のそこここには雑草が力強く頭を出している。だが、視線を少し広く取ってみると、トルウの立つ場所を中心に半径三メートルほどの半円状(半分は教会の敷地にかかっている)にはきれいに雑草が生えていないのだ。こころなしか地面の色も少し違って見える。「……うそでしょ?」

「うん、万全の自信はないけど、調査する価値はあると思うね」

 子供達や暇そうな大人達も何人かが遠巻きに集まっていた。それに気づいたトルウは、姿勢を正し、ポケットにねじ込んでいた羽根飾りつきの帽子を被りなおし、笑顔を浮かべて村人達に会釈した。

「帝国地理院のマティウス・トルウです。ごきげんよう」

 帝国地理院のネームヴァリューは絶大だ。未開の領域を開き、かつての神聖ローマ帝国の、いや人類の版図の最前線にあってその先をゆく英雄として、こんな田舎でもその名は知られていたのだ。子供達はよくわからないまま拍手し、大人達も深々とお辞儀をした。トルウは、上機嫌でポケットからじゃらじゃらとメダルをとりだすと、一人一人子供達に手渡してやった。もとからそれが目当てだったらしい子供達はすぐに姿を消したが、何人かは残ってプリズマティカの手を引っ張ったりした。プリズマティカはあまり子供の相手は得意ではなかったが、それでもしゃがんで目線を合わせて、三歳くらいのおしゃべりな女の子の話を、うんうんと相槌をうちながら聞いてやった。

「お仕事中にすみませんねえ」

 と、その小さな女の子の母親らしい若い女性がプリズマティカに声をかけた。

「あの方、あんなにお若いのに地理院のメートルだなんてすごいですねえ」

 いや、あいつは実は見習いですから、などとはばらさず、笑顔を返す。

「さっきアルファ先生の話をされてましたけど、何か調べておいでなんですか?」

「はい。えー、アルファ先生?」

「ちょっとまって」

 もっていたメダルをその辺にばらまいて子供達に取られるままにして、トルウが身を乗り出してきた。

「なんですか、今のお話?」

「いえ、だからアルファ先生の生まれた家が、もう何十年も前から空屋だったんですけど、村で保存していたんですけど、そこに御用事があるのかなと思って」

「パスカル・アルファ! そうか、パスカルが生まれたのはこの村だったんだ」

 トルウは快哉を叫んで、指を鳴らしたが、あまり良い音はしなかった。

「で、その家は、僕たちが見ることもできるんですか」

「できると思いますよ。役場で鍵を借りてくれば」

 トルウは勢いよく立ち上がると、プリズマティカに命じた。

「機材を持つんだ。役場に行こう。これは思わぬ情報が手に入るかもしれないぞ」

 プリズマティカは、はいはいと頷き、貴重な情報源である若い母親に丁寧に礼を言った。

「いえいえ。お嬢さんも大変ですねえ。でもあのお若いメートルについてゆけば、きっと立派な職人になれますよ」

「はい、がんばります」と、笑顔でうなずく。実は笑いをかみ殺すのに必死であったが。


 パスカルの生家は村の中心に近い一軒家だった。農家ではなく、かつては薬屋だったらしい。もう二十年以上誰も住んでいないということだったが、家の外側は手入れされている。よく見ると通りに面した壁にどちらかと言えば新しい真鍮の板が張ってあって、パスカル・アルファの生家であるということが三行ほどで書いてある。パスカルがそもそものどのような人かということまでは何も書いていない。

「パスカルは有名人で、どんな国の歴史の教科書にも載ってるんだよ。大々的に宣伝した大陸中から物見遊山の客が集まるんじゃないかな」

とトルウは言うが、

「そうやって騒がれるのが嫌なんじゃないの? 村の人達にしてみれば」

「うーん。確かに三十年くらい前までは政治的に微妙なところがあったかもしれないけど、今は五十年たってるんだからねえ」

 役場から借りた鍵で扉を開けると、中はさすがにほこりっぽく、辛うじて廃屋とまでは行かない程度に古びて痛んだ家具が雑然と置かれた状態だった。

「だって、パスカルが死んでから三十年くらいの間、人が住んでいたんでしょう? その、ご両親とか」

「そうらしい。それに最後は遠い親戚の人の手に渡ったみたいだから、パスカルやその家族の遺品なんかが残っている可能性はないんだって」

 それでもトルウは家の中に丹念に目を走らせながら進んでゆく。食器棚や本棚は空っぽで、ほとんど生活の跡すら残っていない。

 プリズマティカは何かもの悲しくなってきた。自分たちが探すパスカルという女性は確かにここで生活していたという事実はある。しかし、ここには、彼女のモノも想いも何一つ残ってはいない。トルウは暖炉の上に倒れた写真立てを見つけたようだった。それを起こし、息を吹きかけて埃を払うが、首を横に振って、また戻す。プリズマティカはパスカルの顔を知らないが、トルウは写真か肖像画を見たことがあるのかもしれない。

 先に立つトルウは、居間にあったドアの一つを開けて、中に入った。

「ここが組合に入るまでパスカルが使っていた部屋だって、役場で教えてもらったんだ」

 そうトルウは言うが、そこはとても十代の少女が使っていた部屋とは思えなかった。どうやら最後にその部屋を使っていたのは若い男の子だったらしい。壁には肌もあらわな若い女性の写真が何枚も貼られ、それに混じって古い形の飛行機や自動車の写真や絵もあった。毛布もマットもなく、骨組みだけになったベッドは場所もずれ、とりわけ廃墟じみた印象を与えた。プリズマティカのもの悲しさは頂点に達し、もはや立っていられないほどだった。

「トルウ、ごめん、あたし……」


 プリズマティカとトルウはパスカルの生家という建物を出て、鍵を町役場に返した。応対してくれたのは六〇近い初老の男性だったが、プリズマティカの質問には愛想良く答えてくれた。

「残念ながら、アルファ先生の遺品とか写真とか一切残っていないんだよ。時々尋ねて来る人がいるんだけどね」

「でもせいぜい五十年前でしょう? 昔実際に会ったことのある人とか、残っていないんですか?」

「私自身この村で生まれ育ったけど、あの家に女の子がいたなんて記憶はないんだよね。ずいぶん小さい頃に都市の方に出ていったんじゃないかな。他の年寄りに聞いても同じだと思うよ。一〇年くらい前に大分調べたしね」

「一〇年前? なんで一〇年前なんですか」

「この村でアルファ先生が生まれたっていうことが分かったのも一〇年かそこら前だったのさ。確かにあの家にはアルファという姓の一家が住んでいたし、教会にも台帳が残っている。ところが、パスカル・アルファという名前については、台帳にないんだよ」

「そうなんですか?」

「だって異端審問にかけられたような人だろう? 当時は怖くて、この村がアルファ先生の出身地です、なんて言えなかったと思うよ。昔の人が台帳からも削除したんじゃないか」

 トルウは納得したように頷いている。

 今の生家も、その頃に事象学組合が買い取って、それを村に寄付したらしいということだったが、それもごく当然のなりゆきだろう。

 トルウはさらに、最近、村でその泥棒とか、怪しい七十才くらいの女性とか、十七才くらいの娘を見なかったか、と聞くと、その初老の担当者は笑って言った。

「まあ、この数ヶ月で一番あやしいのはあんたらだね」

 プリズマティカもトルウも苦笑するしかなかった。

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