3. PRELIMINARY RESEARCH
3.1 欲しいって言ってるわけじゃないんだけど
アルジェンティナの空港は、広場を中心とした旧市街からは西に外れた巨大高層建築が建ち並ぶ一画の、その建物の屋上を三つ繋げて作ったトラス構造の橋の上にあった。飛行船の発着場として作られたものだが、今では、飛行機やジャイロコプタなどの利用も多い。飛行機の離着陸には不便で不安全な面も多く、都市の外に飛行場を造るべきだという意見もある、らしい。
屋上に作られた大きなガラス張りのロビーから滑走路面に出たプリズマティカは、まず風の強さに驚いた。下水道掃除用の服をトルウが気にするので、知り合いからもらったツナギを着てきたのだが、もう一枚だけでも重ね着してくるのだった。思わず自分の肩を両腕でかかえると、トルウが自分の皮の上着を脱いでかけてくれた。トルウの着ている飛行服はそれだけでも暖かそうなので、遠慮しないで借りることにする。
空港面には全部で十機ほどの大小の飛行機が並んでいた。そのうちのひときわ大きな、一見飛行船のようにずんぐりとした白い機体をトルウは指さした。
「あれだ」
もとよりプリズマティカは飛行船にしろ飛行機にしろ近くで見たことなどないので、相場がわからない。ただし、その船は飛行船よりは小さく、飛行機よりは大きく、そのいずれとも違う形をしていた。最近、どこかで見たような記憶もある。
トルウは得意げな表情を取り戻した。「僕の〝マビノギオン〟にようこそ!」
「え? あなたの船なの?」
「……もちろん所有者は地理院だよ。船長は僕だ。もっとも他に船員はいないけど。素敵な名前だろう?」
「まあね」
船の前では二名の整備士が待ち構えていた。彼らは船に乗ってきたのではなく空港の職員らしい。トルウは二人にチップを渡して何やら紙を受け取りながら、「先に中に入っていて」と開いている扉を指さした。
船内は思ったよりも狭かった。乗り合いのトラムより二回り狭いぐらいの細長いキャビンは、プリズマティがかろうじて立ってあるけるくらい。内張はなく、白銀色の金属の構造が剥き出しである。キャビンの前方には、藤椅子が通路をはさんで左右に二つずつならんでいる。後方には大小様々な木箱や金属の箱がおかれ、一つ一つがベルトでしっかりと床のフックに縛り付けられている。
椅子の間を通って再前方までゆくと、二つの座席が前を向いて並び、その前にはスイッチやレバー、計器などがぎっしりとならんでいる。
「うわー」
小さく感嘆の声を上げると、後からトルウの声が聞こえた。
「常時使う計器は一部しかない。故障なんかがない限り、一回の飛行で一度も見ない計器もある。意味が分かってしまえば、パンを焼くオーブンとそんなにかわらないと思うよ」
プリズマティカはまだ操縦席の威容に圧倒されていた。余計なところにさわらないように両腕をぴったりからだの脇にはりつけて、動いていない計器から何かの意味を読み取ろうとしている自分に気づいて、おかしくなる。今度はすぐ後でトルウの声がした。
「右に座って」
「え、いいの?」
自分も左席に座ったトルウがベルトの締めかたを丁寧に教えてくれる。それからレストランのメニュほどの大きさのカードに書かれた文字を読みながら、スイッチを入れたり、つまみを捻ったりするうちに、計器の針が動き、モータの音が船内に低く響き始める。
「じゃあ、行くよ」
モータの音とプロペラが風を切る音が船内にも響きはじめ、ごくん、という衝撃とともに船が前に進み始めた。大きく向きを変えながら、滑走路の端に到達すると、トルウは二人の席の間にあった二本のレバーを大きく前に進めた。モータの音がひときわ大きくなり、機体が前に加速してゆく。プリズマティカの身体は軽く椅子に押しつけられる。やがて、滑走路が尽き、機体は虚空に放り出された。船首が下がり、プリズマティカは思わず声を上げそうになる。しまったと思って隣のトルウを覗うが、トルウは至って真剣な表情で正面の窓と計器を交互に見遣りながら、ゆっくりと舵を引いた。昇降機が動きだすときのように、すうっと身体が重くなり、船は上昇に転じる。ぐんぐんと高度を上げてゆく。
もう、都市の全ての建物よりもラジオ塔よりも高いところを〝マビノギオン〟は飛んでいる。水道局の建物も見える。事象学組合の学寮のいくつかは綺麗な緑にかこまれて行儀良く並んでいる。小さい。とても小さい。手を伸ばせば、今朝、家から辿ってきた道のりが、開いた親指と人差し指の間に収まってしまう。プリズマティカの住んでいるアパルトマンの場所の見当はつくが、同じような建物が周囲に幾つもあってどれかわからない。飛行船に乗るなんてわかっていれば、ロジェに手を振ってもらうように言っておくのだった。
今まで地図でしか見ていなかった都市の全景が見える。千年以上前、今の広場を中心としたほんの小さな町だった頃にも慎ましい市壁があった。それは、現在いくつかの塔を残して跡形もなく、トラムや電気車が行き交う大きな通りになっている。その何倍もの広さの市街地を囲むようにして、新しい(といっても三百年以上前だ)市壁があり、その外周にはライン河の流れを変えて作った堀がある。堀の外には、農地と工場と、最近できた集落が点在している。
トルウは船をわずかに右に傾けながら、都市の外周を辿るように飛行していた。あっという間に半周している。都市の東をかすめるように流れるライン河が太陽の光を反射して銀色に光っている。流れる方向がわからないほど緩やかな流れだが、その源は南の山地に、先は北の海に注いでいることをプリズマティカは知っていた。ここからではそのどちらも見えず、ただ銀色の流れが蛇行しながらもやの中に消えてゆくだけだ。ただし、そこまでの距離でさえ大変なもので、鉄道で何時間もかかるだろう。その鉄道は都市の南端をかすめるようにして東西に走っている。都市の中央駅までは短い引き込み線で繋がっている。
〝マビノギオン〟は、二〇分ほども都市の上空をのんびり散策した挙げ句、結局、都市からは歩いても三時間程度、まっすぐ飛べば一〇分とかからないロムステット村に降りた。もちろん飛行場などないから、村の外れの採石場の跡に着陸した。
船から下りたプリズマティカと目をあわせたトルウが、最上級に得意げな笑顔をしていたのは、きっと彼女がよほど嬉しそうに見えたからだろう。まあ、それくらい、いい、とプリズマティカは思う。生まれて初めて見た空からの光景と、浮遊する感覚からくる興奮が醒めきらない。
「あたし、この船、好きかもしれない」
ようやくプリズマティカは言った。
「〝マビノギオン〟か。意味はよくわかんなけど、良い名前だね」
「最初に言ったろう」
村の中心に向かう道を歩きながら不機嫌を装ってトルウは言う。
「ウェールズの神話から取ったんだ」
そのトルウは肩から大きなカバンをぶら下げている。プリズマティカの方も、助手らしく金属製の三脚を背負い、一抱えほどの金属の箱を手に下げている。プリズマティカはこの村に来た記憶はなく、本来の案内人はつとまりそうもないので、せいぜい力仕事だけでも手伝わなくてはならない。
「でもさ、今日は、測量じゃなかったよね」
「うん。予定を変更したんだ」
トルウは、最初からロムステットの調査にゆくと宣言していた。
「はあ? なんで隣村なんかに?」
そう言うプリズマティカに、トルウは件のパスカルからの手紙を裏返して見せた。
「……なるほど」
封筒の裏側の差し出し人のところには、パスカルの名前の下にロムステットと書いてある。「いたずらなのか、何かのメッセージなのかわからないけど、訪れる価値はあるだろうと思ってね」
とりあえず訪問するだけ、と言っておきながら、トルウは昨夜のうちに考えを変えたらしい。
ものの一五分も歩かずに、二人は村の中心に着いた。こぢんまりとした広場では、村の大きさに相応しいつつましげな市が立っており、沢山の人達が買い物に訪れていた。広場に面した教会をはさんで反対側にはさらに小さな広場があったが、トルウは人気の少ないその広場を作業場所に選んだ。
プリズマティカの持ってきた三脚を立て、金属の箱から取り出した望遠鏡のような黒い機械を取り出して三脚の上に載せる。別の木箱の蓋を開けると、中には細かい数字が幾つも描かれた時計のようなものがある。トルウはその時計の下のダイヤルをいくつかいじっていたが、傍らで所在なげに立っていたプリズマティカを呼び寄せて言った。
「ここの数字が十になったら、ゼロになるまで読み上げてくれる?」
そこには今、『一二〇』という数字が光電管の赤い色で出ていて、一秒ごとに減っているようだ。
トルウは手帳に書かれた数字を見ながら、三脚の上の機械で空の一点に狙いを定めた。プリズマティカは言われた通りに数字を読み上げた。ゼロの瞬間、トルウは機械のスイッチを操作し、機械の横に示された計器の数字を読み上げながらそれを記録した。
「次、今から読みあげる数字を、その三つのダイヤルにそれぞれ設定してくれ」
今度は機械をのぞき込みながらトルウはそんな指示を出した。
いつの間にか、学校に行く年にもなっていない小さな女の子が二人、しゃがみ込んで機械を操作するプリズマティカの傍らで、興味津々と機械とプリズマティカを見つめていた。にっこり笑って、手を振ってやると、向こうもぎこちなく笑い返す。
質問なんかしないでよ。こっちもなんなのかさっぱりわからないんだから。
言われた数値をセットすると、今度はさっきの赤い光電管の数字が一五になった。あわてて読み上げを始める。トロワ、ドゥ、アン、ゼロ。
そんな調子の作業を五〜六回繰り返したろうか。トルウは機械から顔をあげ、目をしばたかせながら、プリズマティカに言った。「これで終わりにしよう。良い計測値がとれた」
トルウを、プリズマティカと二人の女の子の目が見上げる。トルウはにっこりと微笑むと、ポケットから小さなメダルのようなものを二つとりだし、女の子達に手渡した。二人はそれを受け取ると目を輝かせ、ちょこんと頭を下げると、走り去っていった。
「それが欲しいって言ってるわけじゃないんだけど」
もう一度ポケットに手を入れたトルウに、プリズマティカは口を尖らせた。
「だから測量だよ。この位置の座標を求めるため数値を計測したんだ」
トルウは、笑いながらポケットに入れた手を取りだして空に向かって勢いよく広げた。小さなメダルは曲率の大きな放物線を描いて結局プリズマティカの手に収まった。翼の生えた目の描かれた銀色のコイン。小さいが、細工が細かく、とても綺麗だ。ありがとう、わざとらしく礼を言ったあとで、プリズマティカは尋ねた。
「あたしの知ってるところでは測量っていうのは、二カ所の座標が分かっている場所との方位を調べるのよ。空を見て調べたりはしない」
「考えてみなよ。何故、空を見て自分の位置が分かると思う?」
プリズマティカは、少し考え込み、すぐに答えた。「太陽の場所、いや、星?」
「その通りだ」
トルウは満足げに頷いた。「だけど、星や太陽の位置だけでは、精密な場所はわからない。ところで、我々のいるこの世界の周りには太陽よりも月よりも近いところを小さな星が沢山回っている。この機械はその星までの距離をはかる装置なんだ。君がいじっていた機械は、その小さな星がいつどの場所に来るのかを教えてくれるものだ。これでいくつかの星との距離を調べて計算してやると自分の場所がわかる」
プリズマティカは、自分でも驚いたことに、トルウの云っている意味を理解できた。そして、それを面白いと思った。太陽よりは近いといっても空気もないところを飛ぶ星までの距離を測るなんて、そんなことができるのか。そして、そこから自分の場所までわかってしまうなんて。しかし、そもそもの疑問にトルウは答えていない。
「で、なんで、こんな村の座標を計る必要があるの?」
「え? だって君もフォジフォス師の地脈の立体画像は見たろう?」
「見たよ」それだけ言ってにらみつけると、トルウもさすがに説明になっていないと気づいたようだ。
「ああ、つまりだ。あの画像によれば、というかフォジフォス師の計算を信じるなら、アルジェンティナの周辺には、地表近くに太い地脈が走っているのは間違いない」
「計算もなにも、実際にアルジェンティナの地下には冷脈が通っているんだから」
「前にも言ったように、アルジェンティナの冷脈はとても深いところにある。ローマの時代に、いきなりここに冷脈が流れている、と当てをつけて、あれほどの深い抗を掘ることはありえない。ということはだ。最初に地表近くまで上がっている冷脈本流の存在が知られていて、そこからあたりをつけて付近で支流を掘り当てたと考える方が妥当だ」
「つまり、このロムステットの下に、手つかずの冷脈の本流があるかもしれないってこと?」
もしそうだとすれば、アルジェンティナが直面する冷脈の枯渇の問題も解決できるかもしれない。しかし、トルウの話は都合が良すぎて、とても信じられない。
「おおざっぱには、そういうことだ。さて、さっきの子供達が仲間を連れてくる前に、次の場所に移ろう」
「あ、はい」
プリズマティカは素直に頷き、機械を手早く片付け始めた。
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