2.4 下水掃除もできない男が何を偉そうに

 事象学組合のフォジフォスの研究室を辞したプリズマティカとトルウは、都市の中心に向かって帰途についた。

 パスカルの研究資料や様々な記録は、当時の都市の役人達が多くを焼いてしまったこと、残された資料は事象学組合の図書館に保管されているので、地理院の名で申請すればいつでも読めることをフォジフォスは教えてくれた。

「いつでも来てくださいって言われたけど、まあ、そうもいかないだろうなあ」

「そりゃそうよ。昼間は偉い人としての仕事で一杯だし、夜は大切な研究の時間だからね」

「ていうか、どうして君はあんなすごい人と知り合いなんだ。そりゃ、僕だってフォジフォス師の弟子のその弟子くらいには、つてを辿って会うつもりではいた。まさか本人に、こんな早くに会えるなんて」

「よかった?」

「ああ、もちろんだ」

 トルウは、そこでようやくプリズマティカのわざとらしい笑顔に気づいたようだ。「ああ、ありがとう。君はまったく素晴らしい案内人だ」

「ふん」

プリズマティカは満足して鼻をならすと、フォジフォスとの関係を説明することにした。

「フォジフォスはね、ロジェの先生だったの」

「ロジェって、君の彼氏だっけ?」

「そう。ロジェはもともと組合の見習いだったんだけど、ちょっとした事情で組合にいられなくなって士官学校を目指すことにしたんだ。フォジフォスはもちろんロジェを直接教えていたわけじゃないけど、何かの折に若い見習がそういうことになったって聞いて、いろいろ援助してたみたい。でも、今はロジェにはあたしがついてるからね、言ってみればフォジフォスはあたしに頭があがらないのよ」

「ロジェと君は、その幼馴染みか何かなの?」

「いいえ。ロジェと会ったのは一年前。あたしは浮浪者で、自分の名前も覚えていなくて、その辺にすっころがっていたんらしいんだけど(あ、今いやらしい想像したでしょ)、病気になってさ、道ばたで死にかけてるところをロジェに拾ってもらったの」

「そりゃ壮絶な過去だね。じゃあ、君の名前はロジェくんがつけてくれたんだ」

「まあ、それだったらもっとロマンチックだったんだけどね。あたしが持っていた紙に『プリズマティカ』って書いてあったんだって。それでね、そのときはロジェも組合を追い出された直後で住む場所もないような状態で、お互い似たようなものだったけど」

「ひえ……すごいな、君達。家がないとか食べ物がないとか、想像がつかないよ」

「トルウはお坊ちゃん育ちなんだ」

「家があって食べ物があるのというだけでおぼっちゃんとはいわないだろう。僕は八才の時に師匠のところに預けられて、それ以来ずっと旅暮らしで、ほとんど学校にも行かなかったけど、まあ、寝るところはともかく食べ物には困らなかったなあ。もっとも……」

「いや、べつにあなたの話はきいてないから」

 話を途中で遮られて、トルウは舌打ちしたが、そんなに気を悪くした様子でもなかった。

「でも、あれだな、そんな壮絶な出自のわりに、君は物事を理解するのも上手いし、筋道だった考え方をしている。実はちゃんと教育を受けたことがあるんじゃないか?」

「はあ?」プリズマティカは吹き出しそうになった。「そんなこと言われたの、はじめてだよ。あたし、ロジェとの話とか全然ついていけないし、さっきのフォジフォスとの話だってわけわかんなかったし」

「知識と知性は違うってことだ。知識がなければ理解できないことも多い。でも理解しようする姿勢とか方法論は、知識とは別なんだ」

「あのさ、二つ教えてあげよう。一つ、理屈っぽい男は嫌われる。二つ、あたしは頭が良いと言われて喜ぶような女ではない」

「別に君を喜ばせようとしているわけではないから、二つ目の有り難みは少ないね」

 トルウはプリズマティカの口まねをして言った。「ああ、でも、その君の心証を悪くしたいとも思わない。感謝してると言っておくよ。下水で助けてくれたことも、フォジフォス師に会わせてくれたことも」

「はいはい。あたしは下水掃除をサボれるし手当もでるからお互いよかったじゃん」

 プリズマティカが強引に会話を切り上げてしまったのは、照れくさかったのと、面倒くさかったのが半分だったが、トルウは別に気を悪くした様子もなく、黙って歩きながら何かを考え始めたようだった。

 しかし、それは間もなく打ち切られた。大学区画も外れにさしかかったところで、少し先の曲がり角の向こうから聞こえてきた耳障りな機械音に、プリズマティカとトルウは顔をしかめた。プリズマティカは、その音の発生源に心当たりがあった。音はどんどん大きくなり、やがて曲がり角からその姿を現した。

 まず、街灯と建物の窓から漏れる灯りに照らされたのは、黒っぽい揃いのインヴァネスを羽織った二人の若い男達と、橙色のマント姿の一人の娘だった。そして、歩いて近づいている彼らの後から姿を現したのは、人間の背丈の二倍ほどもある二体の機械警邏だった。四角い鉄の箱を組み合わせて人の形を模した、およそ美的とは言えぬ機械人間達は、必要な電力を得るための長いパンタグラフを道の上の蜘蛛の巣のように走るトラム用の架線に延ばしていて、まるで操り人形のように見える。頭の位置につけられた二つの『目』はぐりぐりとせわしく動きながら、プリズマティカとトルウを捉えようとしているようだ。

 三人が足を止めると、少し遅れて機械警邏達も歩みを停めた。モータ音が小さくなり、真ん中にいた男の甲高い声が通りに響いた。

「誰かと思えば、下水掃除人の売女か。二度と学寮地区をうろついて風紀を乱すなと言っておいたはずだが」

 プリズマティカの返答は一瞬の間も置かなかった。

「売女も下水掃除もできない男が何を偉そうに。話を聞いてほしいんなら、その汚い尻で竿の二三本もくわえ込んできてからにするのね」

「なんだとこのっ」

 たちまち激高する真ん中の青年を両隣の二人が抑えこむ。

「……くそっ。今夜はお前なんぞに用はない。おい、貴様か、帝国地理院の送り込んだ間諜というのは」

 トルウは、不意を突かれた様子で、「え?」と間抜けな応答をした。後に控える自動機械にすっかり魅せられてしまった様子で、人間の方は全く目に入っていなかったらしい。

 青年はトルウの方に一歩足を踏み出し、胸を反らして宣言した。

「私は事象組合学生団副団長にして、第一総隊長のジャン=ジャック・アントレイヴァスだ。警告する。我々学生団は貴様の行動を事象学組合の利益を損なうものとして看過しえない。即刻この都市を立ち去るがいい」

 プリズマティカは、アントレイヴァスを知っていたし、彼の行動原理も立場も知っていたが、トルウにそれがいきなり理解できるとは思えなかった。説明を省略しすぎだ。ばかばかしいことだが、彼女が通訳をしてやる必要があるかもしれない。「ああ、トルウ、こいつらはね……」

 しかし、トルウは、相手に合わせるように一歩踏み出すと、わずかに腰をかがめて古風なお辞儀をした。「大変失礼しました。帝国地理院のマティウス・トルウと申します。このたび自分は都市政府の依頼により、こちらで地図の作成作業に従事しております。本業務の遂行にあたっては近隣の緒卿ならびに業務の後関係者には多大なるご迷惑をおかけし、またご協力をお願いすることになりますが、これも人類の版図拡大ならびに域内の安全なる移動のために必須にして人類共通に益となる業務にてあれば、関係者諸氏には、なにとぞ御寛容を賜りたくお願い申し上げます」

「あ……」 

 アントレイヴァスは、たっぷり五秒ほども口をあんぐりと開いて二の句が継げなかった。だが、プリズマティカが思わず漏らした嘲笑に気づいたのか、どうにか調子を取り戻した。

「我々を愚弄するのもいい加減にしろっ」

 その声に反応するかのように、後に控える機械警邏達がモータのうなり声を高め、身じろぎした。よせばいいのに、どういう仕組みなんだと言わんばかりにトルウの口が感嘆の形に開き、興味津々と目が輝く。

「都市政府の愚民どもが何を貴様に頼んだかなど関係ない。事象学組合は都市政府と同格にして不干渉である。貴様がこの都市でやろうとすることが我々組合にとって不都合であり、停止しないと言うのであれば、我々学生団は実力を持って貴様を排除する。我々は」

 そこでアントレイヴァスは芝居がかった様子で声のトーンを一気に落とし、「帝国地理院など恐れはしない」と、にやりと笑うのを忘れなかった。

 なんという馬鹿丸出しの演説だ。プリズマティカは、多少ならぬ因縁のあるこの男には、微塵の同情もしなかったが、事象学組合そのものには好意を持っている。その組合の立場をむしろ危うくさせるセリフの数々に、応援してやろうかという気さえしてくる。

「ご心配はごもっともです、ムスィウ・アントレイヴァス。ですが、対立の多くは、話し合いによって歩み寄りが可能です。もし、私どもの作業のどの部分、具体的にはどの場所での作業がそちらにご迷惑をおかけするのかお教えいただければ、検討の上対処させていただきたく思いますが」

「交渉などありえない! そもそも都市政府は電力計画を失敗した挙げ句、ありもしない冷脈の吐出口などという……」

 そこでまたアントレイヴァスは左右の青年達から強くこづかれて演説を中止しなくてはならなかった。

「と……とにかくっ。二日以内にこの都市から出て行かないというなら、当学生団は実力行使に出る。繰り返すが、我々は地理院の艦隊など怖れない」

 控えている機械警邏達がまたうなり声を高め、威圧するように左右に一歩踏み出した。トルウは、興味を失ったように、ふん、と鼻を鳴らし、しかしかろうじて慇懃な態度は崩さないまま「考慮しましょう、ムスィウ・アントレイヴァス」とつまらなそうに言った。

 左右に分かれた機械警邏とおつきの人間達は、そのままトルウとプリズマティカを挟み込むようにしてすれ違っていった。その間、トルウは名残惜しそうに架線から派手に火花を飛ばしながら歩いてゆく機械警邏を見つめていた。プリズマティカと言えば、橙色のマントの少女、ウルスラ・フォン・ヴァッサークランツに思いっきり眼を飛ばすのを忘れなかったし、向こうも眼鏡の奥から魔女の呪い《ヘクセン》のような視線をプリズマティカに突き刺した。

 アントレイヴァスと機械警邏がいってしまうと、トルウは、プリズマティカを見遣り、感に堪えたように言った。

「いや、君の友人達は本当に個性豊かな人達ばかりだなあ」

「アントレイヴァス? それともあのトロリー人形?」

「圧倒的に後者だね。前者は、まあ、演劇的に面白いけど興味はそそられない」

「言っとくと、少なくとも人間の方はあたしの友達じゃないからね、それどころか……」

「でも、いい情報をくれたよね。それにあの機械警邏、スイス傭兵隊が使ってるって噂のやつだろう。てことは、バックについてるのは騎士修道会か……」

「ねえ聞いてよ! あいつがロジェを組合から追い出したのよ!」

 トルウは、言葉を切り、なるほど、と真面目な顔で言った。

 プリズマティカは説明する。

「組合の年少構成員で作る学生団は、もともと穏健な集団で、都市と組合との関係に首を突っ込んだりしなかった。ところが、あのアントレイヴァスが副団長になって、都市政府に対して強硬な態度を取ることがかっこいいって思わせちゃったのよ。そのときの穏健派で、もう一人の副団長だったロジェは、いろんな言いがかりをつけられた挙げ句に組合を追い出されちゃったわけ」

「そりゃ災難だ」

「それから、あの眼鏡のブス、ウルスラ、あれは絶対だめ。最悪」

「ああ、あの小柄なちょっとかわいい子」

「かわいいなんてとんでもない! トルウがどんな女にひっかかろうがあたしの知ったこっちゃないけど、あいつだけは絶対駄目。泥棒猫。あたしのロジェを狙ってんの。貧乏貴族のくせに、勉強だけやってりゃいいのに。いくら自分がロジェの元カノだからって……」

「……あのさ、泥棒猫っていうけど、そしたらむしろ君が」

 トルウはプリズマティカの殺意を込めた視線に気づかないほど鈍感ではなかったらしい。息を呑むようにして押し黙ったトルウが少し憐れになって、プリマティカは話題を変えた。

「騎士修道会が時間通信器を欲しがってるって、フォジフォスが言ってたよね」

「ああ。なにせ、五〇年前にパスカルを暗殺したのが騎士修道会だから」

「え、そうだったの?」

「当時、フランスと神聖ローマ帝国との間で和平が結ばれることに反対する者は多かった。当のフランス王と神聖ローマ皇帝からしてその急先鋒だからね。教皇庁はフランス王のいいなりだったから、異端の廉でパスカルを告訴した。それを受けて騎士修道会は公然とアルジェンティナ政府と事象学組合に圧力をかけた。騎士修道会はパスカルが暗殺されたときに、その犯人を匿ったという疑いをかけられたけど、『神は異端者を正しき道に導きたまう』と声明を出して否定しなかった。正々堂々としたものだよ。教皇庁は後になって、パスカルを聖女に列したりしたけどね」

「騎士修道会は、なんでパスカルが邪魔だったのかしら」

「実は騎士修道会はパスカルを異端審問にかけることではなく、時間通信器を狙っていたっていう説がある。フォジフォス師のおっしゃることが本当なら、やはりそれが理由だったのかもしれないね」

「だからさ、時間通信器を使ってなにをやろうっていうの? 神様とでもお話しようっていうわけ?」

「まあ、そんなとこじゃないかな……」

 笑っていたトルウだったが、何かを思いついたようにその笑顔は急速にしぼみ、黙って考え込んでしまった。

 プリズマティカは通りをはさんで反対側にある、大きな石造りの建物に目をやった。騎士修道会のアルジェンティナ本部。最上階の壁面につけられた赤い花のような十字が電飾でぼんやりと光っている。その佇まいは、由緒ある金融機関のそれでしかない。ほとんどの窓には明かりが灯っていて、まだ多くの勤め人が勤務中のようだ。

「うーん。欧州連合ができたおかげで平和な良い世の中になったわけでしょ? 騎士修道会だって、いい商売ができてるんでしょ?」

「……良い世の中だと思うかい?」

 初めて聞くトルウの冷たい声に、プリズマティカはぞっとした。声も出せないでいると、トルウが続けた。「そりゃあ、五〇年前に較べれは世界はよくなったよ。でも貧富の差は広がるばかりで、仕事や家のない人達がどの町にも沢山いる。確かにヨーロッパの中での戦争はなくなった。でも東の端では民族同士の殺し合いが今でも続いている。それどころか、オスマン帝国とは四百年ぶりに戦争が始まるかもしれない」

「戦争……」

 プリズマティカの脳裏に浮かんだのはやはりロジェのことだった。トルウは陰気な声で続けた。

「『イスタンブールに十字軍を』と叫んでいる聖職者もいる。そんなときに、もしもだよ、もしパスカルが再臨して世界平和を唱えたりしたら、それを愉快とは思わない人は沢山いるだろうね」

「パスカルの言うことが正しくても?」

「戦争が起きるのは、それが正しいからじゃなくて、誰かの得になるからだよ」

 トルウの答えは皮肉のようにも真剣に糾弾しているようにも聞こえた。そして、照れ隠しのように付け加えた。「まあ、騎士修道会が本当にそんな世俗的な理由で動いているならいいんだけどね」

 周囲が再び喧噪に包まれはじめていた。環状道路と大通りが交叉する大きな辻まで歩いたところで、トルウが言った。

「ありがとう。今日はここまででいいや。明日また頼む」

「え、だってまだ三時間もたってないよ」

「もう八時過ぎだし、今夜はできることはないよ。君には悪いけど明日は朝八時に僕のホテルのロビーに来てくれ」

「八時かあ。早いなあ。でもわかった」

「じゃ、おやすみ」

 トルウは急に何かが気になり始めたのか、プリズマティカに背を向けるよりも早く真面目な表情になり、後ろ手に手を振ると、街の中心に向けて歩み去った。

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