2.3 君、その格好、恥ずかしくない?

 プリズマティカとトルウは局長の部屋を辞して昇降機に乗った。二人きりである。

 もう、言わないではいられない。

「ファンダイク提督ですって? あれえ? あたし、そんな知り合いいたかしら〜」

「提督は本当に僕の師匠だ。もちろん、提督は君の事なんか知らない」

 トルウは、プリズマティカから視線をそらして言った。

「仕方ないだろう。案内人が必要だったんだ。それでもいくら地理院の名前を使ったからって、市に無断で勝手に下水道に入った時に助けてもらった掃除人がいるんで、その子を案内人にください、なんて言えるわけないじゃないか」

 トルウは、何故か少し顔を赤らめているが、その理由はよくわからない。

「まあ、あたしを案内人に選んだのは悪い選択じゃなかったわね。でも、なんで? ニックだってよかったじゃない? 彼の方が、経験も知識もあたしよりずーっと上よ」

 トルウは虚を突かれた様子で口ごもる。プリズマティカはにやりと笑って口調を変える。

「まあ、あれだ。気持ちはわかる。男の子だもんね。干からびたじいさんより、あたしみたいなかっわいい女の子と一緒の方がいいもんね」

「いや、あーその」

「いいわよ。手当もはずんでくれるっていうし、あたしにとっちゃ、悪い話じゃない。でも、あんたも学習しなよ。その格好でまた下に行く気? ひょっとして衣装部屋ごと旅行してんの?」

「いや、今日はもう下水道には降りない」

 その口調には、こりごりだという気分がありありと伺えた。「いずれ行くにしても、今日はいいや。別のところを案内してよ」

「別って? 下水じゃないの?」

 じゃあ、なんであたしなの? と言いたくなるが、ま、それでもいいかと思い直す。

 だが、もう一つ気になることがあった。

「ねえ、さっきの部屋にいた人達だけど」

「都市政府の水道局の局長だよ。きみの上司だろ。彼のことも知らなかったのか?」

「だから、そうだけど、そうじゃなくて、あの白い方」

「白? ああ、赤いエイヴィス十字は騎士修道会タンプルと決まってる」

「騎士修道会って……」確かに、白いマントには赤い花のような文様がついていたような気がする。「……銀行やさんだっけ?」

「……大陸中に広がった財産管理組織だよ。七〇〇年前は、聖地への巡礼者を異教徒から守って戦っていたかもしれないけどね」

「なんで銀行やさんがあそこにいたの?」

「あそこに居たのはアルジェンティナの管区長、ジャン=ポール・ド・マイヨールだ。騎士修道会はアルジェンティナ政府に資金を貸している。その返済期限が近いらしいね」

「ああ、それが一年とか半年とかあと三日ってやつね」

「え、知ってるの?」

「あ、さっき立ち聞きしちゃって」

「なんだそうだったのか。まあ、いずれ、本当であれば今日から三日以内に都市政府は負債の返済計画を修道会に説明しなくてはいけなかった。君の言った通り、政府は空白地帯にあるという冷脈の突出口をあてにしている。それでこっちの調査が終わるまで期限を猶予しろと修道会に頼んでいるわけだ」

「そこで質問です。じゃあなんでもっと早く地理院は仕事を始めなかったの?」

「始めようとしたさ。二ヶ月前には一〇人の部隊マンシャフトと専用列車を仕立てて送り込んだ。『運悪く』途中で列車事故にあってね。死人が出なくてよかった」

 それで、さっきマイヨール総長は、トルウの嫌みな言い方に反論もしなかったというわけか。だが、それにしてもつじつまが合わない。

「でもさ、修道会としては都市政府から借金を返してもらえればそれでいいわけでしょ? 調査を妨害するのはおかしいじゃない」

「いや、そこなんだよね」トルウは気障ったらしく人差し指を立てて左右にふる。嫌みな感じがしないのは、トルウが聞いて欲しかったところを訊いてもらえて嬉しそうだからだ。

「騎士修道会は、債権を口実に別の何かを都市政府に要求しているようなんだな」

「別の何か?」

 昇降機がちょうど地上階についた。議論を中断する。

 町を歩くのなら電気銃はさすがに物騒だ。どんな場所をご所望か知らないが、この町指折りの怪しげな一角でもさすがに電気銃はいらないだろう。役所の入り口のロビーにトルウを待たせ、装備一式を受付所に預けてくる。受付時間は終わっていたが、事務所側から入ればさすがに残っている者がいて、名前を言うと預かってもらえた。

「おまたせ。で、どこに参りますか、トルウ閣下」

「その閣下っていうのはやめてくれ」

「なんだ嬉しいのかと思った」

「そうは思って言ってないだろう」

 図星だ。

「そりゃ閣下なんて呼ばれれば、多少は自尊心と虚栄心はくすぐられる。だが、君に言われると全然うれしくない」

 なるほど、バカでも鈍感でもないということか。

「いいよ。生まれた町だし、どこでも知っているよ」

「あのさ、君、その格好、恥ずかしくない?」

「え」

 プリズマティカは思わず自分の身体を見る。ジニーを羽織っているとは言え、その下に着ているのは、紳士淑女の社交場で踊り子が着ているのと見た目がそう変わらないボディスーツだ。トルウがそう思ったとしても無理はない。

 しかし、もちろんプリズマティカは知っていた。アルジェンティナで夕方に見かけられる下水掃除人達の姿は、ある意味この街の名物なのだ。男も女も若くて鍛えられた肉体を誇示するような服装で、現実離れした武器を抱えて歩く姿は、他の土地から訪れる人々やあるいは地元民からもある種の目で見られている。

 だが、トルウはそんな実情を知らないようだった。プリズマティカは面白半分で答えた。

「ははーん。さてはきみ、あたしの身体見て欲情してるんでしょ?」

「な、そ、そんな下品な……」

「図星か〜。まあ、そういう年頃だよねえ。もう、何してても女の子の裸のことしか考えられないんでしょ。え、どうよ、ほれ、うりうり」

「ち、ちょっと、おい、やめろよ」

「なんだ、そんなに遠慮しなくたっていいのに。あ、でもね、まさかと思うけど、念のため言っとくけど」

 プリズマティカはトルウの顔に人差し指を突き立てた。

「あたしは売約済みだから。彼氏いるっていうか、もう結婚してるみたいなもんだから。まさかと思うけど、そういうつもりであたしを選んだりしてないよね?」

「ああ、大丈夫」

 少しだけ意外ではあったが、トルウは淡々と答えた。「自分のためだけにあんな仕事をできるなんて思ってないよ」

 その言葉に、一瞬プリズマティカは虚を突かれた。だが、次の言葉を聞くとため息しかつけない。

「ただ、まあ、正直ちょっと目のやり場がないってのはある」

 男の子って本当になんていうか、上半身と下半身が別のいきものなんだなあ。

「わかった。明日も下水に降りないなら、別の服装考える。で、今日は何処に行くって? 旅の恥はかきすてだからね。案内しますぜ旦那。自分の町じゃ、その何とか提督の目が厳しいかもしれないけど……」

「何度も言うな! 万が一ばれたら絶対殺される!」

「ばれないって……てか、やっぱ行きたい?」

「行かない! いい加減にしてくれ。そう、じゃあ、大学に連れて行ってくれ」

「大学って……。事象学組合のこと?」

「そうだ」

「あのね。この町は基本的に大学そのものだからね。子供の学校みたいに門があって校舎があってってのとは違うからね」

「数象研究所に行きたい」

 トルウの言い方には、見下したような響きがあった。君みたいな下水掃除人にわかるのか? 教えてみろよ、とでも言うような。一般の住民は組合の存在は身近で、建物や場所の名前は知っていても、それがどのような組織になっているのか、どんな研究をしているかなどは知らない。だが幸いと言うべきかプリズマティカにはそれに関する知識があった。

「プランタン学寮ね。地下鉄で二駅あるわ」

 プリズマティカのカンは当たっていた。トルウは、驚いて目をみはり、次にすまなさそうな表情を作った。小賢しいことを言うが、子供だと、あるいは弟のようだと思えばかわいいヤツといえるかもしれない。

「それはありがたい。だが歩いても行ける距離なら歩きたい」

「けっこう。二十分は歩くわよ」

 プリズマティカはトルウを従えて水道局の建物を(もちろん正面出口から)出た。普段は、門衛ににらまれたり、首根っこを捕まれたりするところだが、組合員と一目でわかるマントを着たトルウと一緒なので、今は驚いたような目でにらみつけるだけだ。うん、気分は悪くない。

 街をトルウと並んで歩いていると、二種類の視線が注がれていることがわかる。プリズマティカに注がれるのはいつもの通り好奇とそれ以外の入り交じった視線、そしてトルウにはその服装から容易に想像される組合上位者に対する敬意と思わぬ若さに対する驚きの視線だ。それはトルウも感じていたようで、こんなことをつぶやいたりしている。

「そうか。下水掃除人は街に不可欠な人々だけど、被差別化する要因は沢山ある。それを人目のつかないところに隠すのではなく、逆にその、そういった服装なんかで別の価値をつけて世の中に溶け込ませようとした、ってことなんだろうか」

「なあに、まだあたしの身体でやらしい想像して楽しんでいたの?」

「大丈夫だ。きみの服装と肉体はすでに僕の中では観念化されたから」

「……ねえ、ちょっと、それ侮辱?」

 トルウはわざとらしく目を細め、口の端をゆがめて答えた。「いいや」

 仕返しのネタは後で探すことにしよう、と思い、中途半端ににらみつけるだけにする。

 役所が集まる一画からさらに街の中心部に向かうにつれ、人通りが増えてくる。いつもと変わらない夕暮れ時だ。仕事帰りの勤め人達が家路を急ぐ傍ら、身分相応に粧って食事にでかけようという家族の姿もある。まだ明るい時分から黒いインヴァネスを羽織った男女が議論というより騒ぎながら歩いているのは組合の準構成員達、いわゆる学生だ。まったく態度が悪いといったらない。その後からおずおずという様子でついてくるのは、プリズマティカと同年配の年少構成員達で、くすんだ橙色のマントを羽織っている。しかし、彼らはプリズマティカにとっては羨望の的だ。年少構成員とはいえ、大陸中から集まった優秀な子供達だ。万が一にもプリズマティカが仲間に入れる可能性などないのだが、手が届かないとわかっているからか、容赦ない嫉妬と羨望の気持ちを抱いてしまう。

「こんなに賑やかな街だとは知らなかったなあ」

 トルウが目を輝かせながら呟いた。

「学術組合の都市っていうからには、もっと鄙びた感じを思い浮かべてたんだけどなあ」

「最近はそうでもないよ。電気代が値上がりしているし、停電も時々あって、お店が閉まるのも早かったり」

「そうかあ。今六時過ぎだろう? マリエンブルグの店なんて五時半にはみんな閉まっちゃう」

「最近は警察なんかの見回りが厳しくなったけど、裏通りに行けば物乞いも沢山いるよ。子供も多くていやになっちゃう」

 振り向くと、トルウはお上りさんよろしくきょろきょろと辺りを見渡しながら歩いているかと思うと、ショコラ屋の店頭で食い入るようにウィンドウを見つめたりしている。甘い物好きなのだろうか。暇そうにしていた店主がドアを開けてトルウに愛想良く笑う。トルウの服装は目立つということではないが、見る人が見れば、お金を持っていると思わせるのだろう。トルウときたら、ケースの一番よく見える位置におかれた林檎の形のショコラの塊を二つも買った。

「まあ、お大尽ね」

「これは師匠へのお土産だ。一つはきみにやるよ」

「え、いいの?」

「ああ」

「ありがとう。もらっとくね」

 それはプリズマティカとロジェと二人の一週間分の食費に相当するような値段だ。プリズマティカは大事に背嚢の奥に入れる。

「いやに素直だな。ははーん。あれか、さては彼氏がショコラ好きなんだろう」

「うん」

 あまりに素直な答えに、明らかに拍子抜けするトルウの表情が面白い。

「妬いてる?」

「だから、それはないといってるだろう」

「士官学校を受験するんだよ。もう願書も出したの」

「訊いてないよ。ああ、でも聞くよ。士官学校ってダルムシュタットだろ? ここからずいぶん遠いじゃないか」

「そう。だから旅費も貯めてます」

「そうじゃなくて、どうするんだよ。彼氏が合格したら、君もダルムシュタットに行くのか? あそこだっておいそれと仕事はみつかんないぞ」

「あたしはここに残るよ。五年でしょう? あっという間じゃん」

「だいたい、このご時世で士官学校かい。東の方はかなりきな臭くなってるっていうのに」

「心配してくれることは有り難いけど、あんたが心配することじゃない」

「そりゃそうだ」

 トルウは素直に黙り込んだ。

 道は市の中心部の広場の一つをかすめるようにして反対側の区画に入る。

 しばらくゆくうちに、周囲の勤め人は少なくなり、学生ばかりが目立つようになった。組合の学寮は都市全体に散らばっているが、この辺りには比較的古くからある学寮がいくつか集まっている。石造りの重厚な建物の間を埋めるように、小さな商店がいくつか軒先を並べている。学生相手の酒場にも灯りがついていて、騒々しい笑い声が漏れてくる。

「ここよ」

 プリズマティカは、通りに面して建てられた大きな石造りの建物の前で立ち止まった。建物の外側はもう二百年は経っている。壁や屋根には細かい装飾が施されていて、最近の高層建築などとは趣が違う。大きな木製の扉の上には、ラテン語で何かが書いているが、プリズマティカにはわからない。

 観音開きの木造の大扉は閉じられていた。

 しかし、プリズマティカは、右の大扉の端にあった小さな通用口のような扉を開けて中にはいる。トルウもそれに続く。

 建物の中は外見ほどには古くない。大きな階段ホールの脇には昇降機があり、高い天井からは冷光灯がぶら下がっている。マント姿ではなく、もっと動きやすそうな格好の学生達が小さな声で話しながら廊下を行き来している。

「ここが、プランタン学寮か……」

「拍子抜けした? もちろん鍵がかかっていて入れないところも沢山あるわ」

「ていうか、どうして君みたいな立場の人が、こんな所を知ってるんだよ」

「失礼な言い方だけどしかたないわね。知り合いがいるのよ。会ってゆく?」

「え? あ、ああ。もし、できれば」

「こっちにいらっしゃい」

 時代がかった幅の広い階段を上り、三階の廊下に出る。左右には数メートルおきに重厚な造りの扉が並んでいるが、その扉の前の部屋の主とおぼしき名札は立派だが、行き先を示した小さな黒板のようなものが貼られていて生活感を漂わせている。プリズマティカは一つの扉の前で立ち止まり、ノックした。

「あたしよ。お客さん連れてきた」

「はいりたまえ」

「いたいた。ラッキー」

 トルウは、扉の名札に一瞬目をとめ、驚いて一度見直そうとしたが、プリズマティカが勢いよく扉を開けてしまって確認できなかったようだ。

 部屋は薄暗く、窓を背にした机の周囲だけが冷光灯でぼんやり浮かび上がっていた。そこから赤いローブ姿の半白の長い髪をした老紳士がゆっくりと立ち上がった。

「ひさしぶりだね、ティカ。今日は休みか」

 背は高く、七十才に届く年齢のわりには若く見える。深い皺に埋もれた黒い目は深い知性と落ち着きを湛え、こんな時間の闖入者に対して不機嫌さの欠片も感じさせない。声は深く、聞く者を落ち着かせる。

「休みじゃなくて、今も仕事中。紹介するわ。この子は帝国地理院のマティウス・トルウ」

 見ると、期待通りトルウは目を丸くして立ち尽くしている。まあ、それはそうだろう。フォジフォス学寮長はプリズマティカがこれまでの人生で出会った人の中で飛び抜けた有名人で、多分、これからも含めてそうだと思えるほど(ロジェが将来将軍とかになったとしても)社会的な地位の高い人物だ。ろくな教育を受けていないプリズマティカも、フォジフォスがどのような仕事をなし、この大陸にどのような影響を及ぼしてきたか知っている。世界における学術組合の発言力と影響力の素地を作った張本人と言ってもよい。

 だが、そのフォジフォスの方も、トルウを見て少なからず驚いたような表情をしている。

「マティウス・トルウ……そうか、そなたが」

「え、この子のこと知ってるの?」

「帝国地理院、大陸地図作成組合の史上最年少マイスタとして大陸中に名を馳せたマティウス・トルウがそなただというなら、ああ、知っている」

「お初におめにかかります。大師(メートルグラン)フォジフォス。帝国地理院のトルウです。ええと、お会いできて光栄です」

 トルウは上気した表情のまま深く腰を折って挨拶した。

「こちらこそ会えて嬉しい。お座りなさい、若きマイスタ」

 そう言って、フォジフォスは部屋の中央の、ガラス天板のテーブルの周囲に置かれた籐椅子を指さした。テーブルも椅子もその組み合わせもセンスがいいとはプリズマティカには思えない。テーブルのガラス板の下には古い地図が挟まっているが、これも汚らしいから外した方がいい、と何度も言っているのに。しかしトルウときたら、その古いだけの籐椅子を骨董品とでも思っているのか、両手でそっと椅子を引いて座ったりしているから、笑いを堪えるのが難しい。

「最年少マイスタなど、虚名にすぎません。現在、地理院の関連する技術は革新的な進歩を遂げている最中で、旧来の技術の七割以上が新しく置き換えられています。その一時期の混乱の中で、私などの多くの若い者がマイスタ位を与えられているだけです。事象学組合のメートル位などとは比べものにならない」

「謙遜は美徳ではない。老いた者が若い者にとって代わられているのは事象学組合も同じだ。だが、それは若いからという理由でメートル位を得ているのではない。以前のように長い経験と多くの知識を重んじるのではなく、柔軟に知識と技術を使いこなす能力そのものが評価されるようになったということだ」

「しかし、師は十八才でメートルになられたと聞きました」

「十九かな。しかし、当時ですら、もっと若くして昇進する者もいた。私など非才の身、今でもここには私など足下にも及ばない若い優秀な者が沢山いる」

 トルウがさっきからプリズマティカの方をちらちら窺っているのは、フォジフォスと一介の下水掃除人がどういう関係なのか説明しろ、ということなのだろうが、それは今言わなくて、もう少しやきもきさせてやろうかと思う。

「かのパスカルも、若くしてメートルであったと聞きました」

「そのとおり。彼女は十六才でメートルだった。パスカルは、そう、私などとはとうてい比べものにならない天才だった」

 フォジフォスは、昔を思い出すように目を細めた。「パスカルのことを調べておいでか」

「はい。実は」

 そこでトルウは一度言葉を切り、プリズマティカの方をもう一度ちらりと見た。申し訳なさそうな表情をしていたから、プリズマティカには話していないことをここで話そうというのだろう。

「二週間前、私は手紙を受け取りました」

「ほう」

 フォジフォスは初めて声に驚きを混ぜた。

「これがその手紙です」

 トルウはそう言って上着の内ポケットから一通の封書を取り出し、テーブルの上に置いた。宛先がタイプされていること以外、なんの変哲もない手紙だ。切手もありふれたものだ。

「失礼、中を見せてもらってもいいかな」

 トルウが頷くのを待って、フォジフォスは封書を取り上げ、中の便せんを取り出した。それは妙に古びた紙で、開くとタイプで打たれた文が奇妙に間を空けて並んでいた。


   あなたは誰ですか。どこに住んでいますが。今はいつですか。

   あなたは幸せですか。食べ物は十分にありますか。夢はありますか。

   なんの仕事をしていますが。仕事は楽しいですか。恋人はいますか。


 封筒の宛先にはトルウの名前が、そして裏の差し出し人にはパスカル・アルファとある。

「これは大変興味深いものだ」

 と、フォジフォスは低い声でゆっくりと言った。

「パスカルは、欧州連合を提唱するにあたり、五〇年後の世界を予想したと言います」トルウはフォジフォスの目を見つめながら言った。「というより、俗説によれば、パスカルは時間通信の技術を発明し、五〇年後の人間と会話をし、それに基づいて選択すべき未来を比較したのだということです。この手紙で、私はその話を思い出しました」

「いかにもそれは、歴史小説家が喜ぶような俗説だ」

 フォジフォスは冷たく言い放った。「しかし、俗説には往々にしてその原因となる事象がある。パスカルの方法は、世界を数式で記述して未来を予測するものだった。そのとき予測をある一点に、例えばある人物に絞り込むことで、計算の負荷を最小限に抑えながら世界全体の様相を探るものであった、と考えられている。その実験でパスカルが作ったメモワールは失われてしまったが、若きメートル、あなたが得たというその手紙の内容は、私の知る限り、かつて見たメモワールによく似ている」

「本当ですか? じゃあ、パスカルは」

「パスカルが今でも生きていると? 確かにそのような戯作小説は五〇年前から今に至るまでいくらでも存在する。だが、その手紙のようなものでは、戯作小説の資料にもならない、というのはおわかりかな」

「ええ、はい」

「また、その手紙だが、パスカルが今生きていないのであれば、それがパスカルの手になるものである可能性は著しく低い。その封筒も消印も明らかに現代のもので、おそらく三週間前にアルジェンティナの郵便局から差し出されたものに違いない。確かに中身の便せんは古いものだが、そう見せかけたものを今作るのは難しくないだろう」

「では、これが偽造されたものだとして、何のために偽造されたのでしょう。そして、なぜ、私宛に送られたのでしょう」

 フォジフォスはゆっくり頭を振る。「わからない。仮にパスカルが時間通信によって貴君と時を超えた会話をし、貴君の名前を知ったとしても、その記録はないのだ。パスカル以外に、その人物の名前を知りようがない」

「それって、やっぱり手紙を出したのはパスカルって人ってことになるんじゃないの?」

「そうはならないさ」トルウは淡々と言った。「パスカルが時間通信で僕と会話したという前提に何の根拠もないだろう? 僕自身は、その、パスカルと時間を超えた会話なんかしていなんだから」

「普通に考えれば、何者かが、若きマイスタよ、貴君をこのアルジェンティナまで呼び寄せるためにそのような偽造の手紙を出したということになる」

「はい。私もそう思っています。ただ、やはり気になるのです。パスカルは、生きてはいないにしても、何かを伝えたいのではないかと」

 プリズマティカの頭は混乱する一方だった。トルウの言ってることは筋が通っていない。五〇年前に死んだ歴史上の人物から突然手紙が送られてくる。そんなもの誰だっていたずらだと思うだろう。誰かが、何かの意図を持ってトルウをアルジェンティナにおびき寄せようとしたとしても、そのことが、パスカルが生きていることには全くつながらない。いや、トルウ自身そう言っているのに、何にこだわっているのだろう。

「トルウ殿。地理院の狙いもまた、時間通信器の入手にあるということかね?」黙り込んだトルウを、慈しむように見ながら、フォジフォスは言った。

「え? いや、それは」そう言われて、トルウは明らかに狼狽した様子をみせたが、すぐに真剣な顔で答えた。「地理院はそのようなものの存在をあてにしてはいません。パスカルが行った未来予測が再現できない以上、なんらからの失われた知識なり論文なりがあるのではないか、と考えています」

「立派な見識だ。失礼した。時間通信器を差し出せという者はアルジェンティナ政府をはじめとして、いくらでもいるものでな」

「都市政府が?」

「連中はありもしない時間通信器を、借金のかたに騎士修道会に差し出すつもりだ」

 なるほど、とプリズマティカは納得した。騎士修道会は、例えば冷脈の吐出口が見つかって、都市政府に借金を返してもらうより、その時間通信器とやらの方が本当の狙いというわけだ。

「でも、そんなもの手にいれて、政府はどうするの? バクチの予言でもするの?」

 プリズマティカがそう言うと、トルウとフォジフォスは顔を見合わせるような仕草をした。バカにされたような気がして少し不愉快になる。フォジフォスがトルウに向けて微笑んだ。

「そういう目的のためには、もっといいものがある、そう説明しても納得してもらえない相手だということだ。さあ、折角、遠くから来てくれたのだ。それをお見せしよう。ティカ、君にはもう何度も見せたものだが、つきあってくれるかな」

 フォジフォスはその年齢の老人とは思えない身軽さで椅子から立ち上がり、机の場所に戻ると、引き出しから鍵束を取り出した。トルウとプリズマティカも立ち上がり、フォジフォスに続いて部屋を出る。廊下を突き当たりまで進んで、そこにあるドアを開けると、もう一つ、今度は古風な建物には不似合いな金属製の扉が現れた。フォジフォスは持っていた鍵を使ってその扉を開いた。

 その途端、扉の奥からは強烈な騒音が吹き出してきた。何度も見ているプリズマティカも、一瞬、羽虫の群れが襲ってきたのか、と錯覚したほどだ。

「どうぞこっちへ」

 それでもフォジフォスの声は良く聞こえる。部屋の中に入ると、そこは一階から三階までの巨大な吹き抜けになっており、大きな四角い箱がいくつもあって甲高い騒音を発していたのだ。プリズマティカ達はその大きな空間を囲む回廊に立っている。

「これは、一体……」

「近くに寄ってみたまえ」

 その吹き抜けの部屋は、周囲を回廊キャットウォークで取り囲まれていた。プリズマティカとトルウは打ち抜き鉄板で作られた回廊の床に足を踏み出し、すぐ目の前でその箱を見た。金属の棚の中に、小さな小さな親指の先ほどの円盤がいくつもあって、それらが同じくらい小さなモータによって大変な勢いで回転している。一抱えほどもある一つの棚の中だけでも何百いや何千という円盤が回っている。部屋全部ではどれくらいになるのか見当もつかない。

 トルウが、呟くように言った。

「これは……。電気算盤だ!」

「その通り」

 フォジフォスが後で満足気に言った。

 普通の算盤というのは、ロジェも持っているが、手のひらより大きい程度の金属の板に並んだ小さなダイヤルを回すことで、桁数の多い足し算やかけ算、使い方を工夫すれば相当複雑な計算までできる精巧な機械だ。目の前にあるそれば、その算盤を幾つも組み合わせて電気でダイヤルを回していると考えればよい、そう教わったものの、プリズマティカには全く別モノに見える。

「仮に人間の頭に置き換えるなら四万人分に相当する。むろん、天才の頭脳ではなく、愚か者の頭脳だ。しかし、かつては天才的なひらめきにたよっていた研究でも、この電気算盤を使えば、愚か者がするような試行錯誤に置き換えることが可能だ。その意味するところがわかるかね」

「ええ、わかります。この電気算盤を使えば、その未来だって予測できるかもしれない」

「そうだ。これをみたまえ」

 フォジフォスは、回廊の一隅にしつらえたタイプライタのような機械を載せた机に歩み寄り、ずらりと並んだスイッチの一つを押した。すると、部屋の四隅から、ふしゅーっと霧のようなものが吹き出してきた。次にもう一つのスイッチを押すと、今度はその霧がぼうっと橙色に光り始めた。いや、そうではない。部屋の四方の壁と天井には沢山の小さな光電管が並んでおり、そこから出る光が霧を照らしているのだ。そして、良く目を凝らせば、その橙色の光が人間の血管のような複雑な編み目模様を立体的に描いていることに気づく。

「これは……まさか、地脈の流れですか?」

「そうだ」

「でも、地脈の流れは地理院でもほとんど把握できていないんです。地表付近に出ているところはわずか一割で、地下深くの流れの全体を計測することなど不可能だ」

「計測したのではない。電気算盤を使った計算によって推測したのだ」

「ああ、そういうことか」トルウは、出てもいない汗を拭うような仕草をした。

「理論上は可能だとは知っていましたが……。あれが冷脈で、こちらが熱脈……あのあたりがアルジェンティナか。すごいな。この目で見てもとても信じられない」

 トルウは、文字通りに空いた口がふさがらず、キャットウォークから落ちそうになるほど身を乗り出していたが、ふとわれに帰ったように、懐からメモ帳を取り出した。

「ちょっとだけ写しても構いませんか?」

「ああ、もちろんだ。それにもう論文が出ているよ。主要な大学や、おそらく地理院マリエンブールにも配られているはずだ」

 トルウはそれを聞いて、恥じ入る表情を浮かべたが、それでも一分ほどかけてその図と数値を書き写す。

 プリズマティカも最初に見たときにはびっくりしたものだが、今では、立体映像そのものよりも、それを見て興奮しているトルウを見ている方が面白い。

「所詮は子供だましだ。掘削技術が進んで、もっと地下深くまで手が届くようになれば、この計算も意味があろう。だが、今の技術では、本当にこの通りに地脈が流れているのかどうか、検証することもできない」

「つまり空間だけでなく時間軸について予測することも可能だとおっしゃるんんですね」

「それを天才であるパスカルは半世紀前に成し遂げた。しかし、これほど巨大な電気算盤をもってしても、我々はまだそこに辿り着いていない。確かに我々は今、パスカルの天才を必要としている。もしも、貴方が本当にパスカルに会えたのなら、なんとかここに連れてきて欲しいものだ」

 プリズマティカは、トルウの驚きぶりを鑑賞るのにも飽き、そろそろ騒音に耐えられなくなってきた。

「ティカ、どうだ。きみは何か感じることはないか?」

 何度目だろうか。フォジフォスにそう尋ねられ、そのたびにプリズマティカは正直に答えた。

「あんまり、綺麗じゃないわね。それと、とにかくうるさい」

 フォジフォスは苦笑した。少し寂しそうな笑い方だった。

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