2.2 喜んでご案内つとめさせていただきます

 プリズマティカが水道局の裏口に辿り着いたのは結局いつもと同じような時間だった。窓口が閉まるまでにあまり時間がないというのに、今日の分担をくれるはずの担当である禿頭のベリエフは、プリズマティカの顔を見るなり、ああ、お前か、一寸待て、と相変わらずひどい訛りで言い捨てるなり、奥に引っ込んでしまった。掃除人に仕事を伝える担当者はもう一人いるので、後から罵声を浴びせられることこそ無かったものの、もう一人のミゲッラの前には長い列ができてしまい、彼らの幾人かからは暖かいとは言えない視線を送られた。定時の一八時一五分までに仕事がもらえないと、本当に連中はばっさりと仕事を打ち切って窓口を閉めてしまうこともあるのだ。

「おい、どうしたんだよあのスケベ親父」

 ちょうど隣に並んだアンジェロが手を伸ばしてプリズマティカの腰のあたりをこづく。

 おめえの方がなんぼかすけべだろうが。

「知らないわよ。突然ひっこんじゃったんだもん」

 その会話の直後に、窓口の奥の扉が開く気配がして、ベリエフが戻ってくるのが見えた。だが、彼は窓口には座らず、その横にあるドアを開いて顔を覗かせた。

「ティカ。こい。局長が呼んでる」

 は? 局長ですって? 

「なんかやったなお前!」

 うれしそうにアンジェロが言った。「これでクビだな」

 そんな。クビだなんてそんな。

「おい、ぐずぐずするな」

 プリズマティカはとにかく、言われたとおりに窓口のドアをくぐって役所の建物の中に入った。途中で肩に担いだ電気銃の先を思い切りドアにぶつけたが、銃は無事だった。木枠から欠片が飛び散ったので、ドアの閉まりは良くなったろう。

 昇降機に乗り、上の階に向かう。役所に入ることなど月に一回もなければ、幹部のいる上階にゆくなど初めてのことだ。局長なんて名前も顔も思い出せない。言われた通り十二階に上ると、昇降機から降りたところに、艶のある黒い立派な受付机があり、黒いスーツに身を固め、亜麻色の髪を結い上げた上品な中年の女性が座っていた。彼女はプリズマティカのなりを見て、一瞬、顔をしかめたが、すぐに無表情に戻って言った。

「プリズマティカ嬢ですね。お待ちしていました。局長室へどうぞ。その得物はこちらでお預かりします」

 得物という言い方が、彼女が言うといかにも場違いで面白かったが、このころにはプリズマティカもいい加減に緊張してきて、笑うどころではない。

「まずノックして良いと言われたら失礼しますと言って……」

 しかし、なんと、ドアは半開きになっていた。これでは想定していた手順が当てはまらない。どうしたものかと逡巡しているうちに、そのドアの隙間から漏れてくる話し声が耳に入ってくる。若くない男が二人、低く抑えた声で、しかし、かなりシレツに言い争っているようだ。

「二週間ですか……話になりませんな」聞いたことのない声。やや高く、あまり気持ちのよい感じがしない。「当初の期限は半年前でした。それを半年延長して、さらにもう一ヶ月延ばして、その期限が三日後ですよ」

「……いや、まあ、二週間というのは、速報程度の報告書の提出までが二週間ということで、できれば一週間で目処はつけていただきたいのですが」

 これも知らない声。ただし、あまり他人に対してへりくだるのは慣れていなさそうな感じだ。

「話は聞いていますか局長。再延長は認められないと申し上げている」

「だが、実質二日では無理だ!」

「調査がぎりぎりになったのは、都市政府の怠慢でしょう。情状酌量の余地はない」

「あ、それについては、当方にも理由の一端はあります」

 急に若い男の声が混じる。あれ? この声は? 

「アルジェンティナ市政府のご要望が伝えられたのは二ヶ月前でした。市政府と修道会の問題がそのようにのっぴきならない状態だと分かっていれば、もう少し早く着手できるよう、『多少の無理』は可能だったと思うのですが」

 急に静かになった。プリズマティカは内容も状況も分からなかったが、チャンスは今しかないと野性のカンが告げた。ドアの縁を叩くと同時に引っ張り、大きな声で名乗る。

「失礼します。お呼びでしょうか!」

 部屋の奥に大きな机があり、その手前に手の込んだ造りの応接セットがあった。ガラス製のテーブルを挟んで三人の人物が向き合って座っていた。一人は黒いインヴァネスを、一人は白いマントを、一人は青いマントを羽織っていて、青いのには見覚えがあった。見覚えのない黒いのが立ち上がって、プリズマティカを向いた。

「ええと。君がプリズマティカ、なのか?」

 インヴァネスを着た初老の男は、プリズマティカの格好を上から下まで見て、明らかに納得できないというように顔をしかめて、ソファに座ったままの客に話しかけた。「この者でよろしいのですか? マイスタ」

 プリズマティカは、自分で言うのもなんだが、馬鹿なわりには知恵が回るほうだと思っていた。だから、綺麗な青い組合ギルドのマントを羽織った黒い髪の青年がこう言っても、あわてて声をあげたりはしなかった。

「実は、自分も初めて会います。我が師たるファンダイク提督が、かの地では下水掃除人のプリズマティカを頼れと言っていたものですから」

 何がファンダイク提督か。プリズマティカはどういう顔をして良いものかまでは流石にわからず、思ったまま、つまり驚いた顔をしていた。

「下水掃除人でプリズマティカなどという名前の者はこれしかいないということです。まあ、人違いでないのなら、それでも良いのですが」

 そういって、おそらく局長だと思われるインヴァネスの男はプリズマティカに向かって言った。

「この方は帝国地理院から派遣された地図製作士でトルウメートルだ。本市での調査中、案内役を務めるように」

「案内役? ですか? この子の?」

「マイスタだ。お前のような階層の人間が呼ぶときには先生と言うのがよろしい」

 駄目だ。笑いがこらえきれない。

 こいつは見栄っ張りどころか、とんでもない詐欺師だ。下請けだか見習いだかしらないが、よくもマイスタなどと見え透いた嘘をついたものだ。だが、こんな土座回りの芝居で局長をだませるものなのか。この男も役人としてはそれなりの経験なり実績なりがあってこの地位についたのだろうに。

 だが、トルウはそんなプリズマティカの内心に気づいたのかどうか、にっこり笑いかけてきた。

「見たところお若いようですが、この都市については、下水はもちろんあらゆるところを知り尽くしていると伺っています。よろしくお願いします。プリズマティカマドマゼル

「マイスタは最短でも『二週間』こちらに滞在される。その間、お前は通常の作業をする必要はない。マイスタのご案内をしていればよい。追加の手当も支払われる」

 プリズマティカは一瞬考えた。何か断らなくてはならない理由はあるだろうか。このいけすかない若僧のおもりだろうが、通常の仕事だろうが下水に降りるという意味では同じだ。手当をはずむというなら、それは全く悪いことではない。プリズマティカは、内心の笑いをようやく表に出すことができてほっとした。

「はい。喜んでご案内つとめさせていただきます!」

 局長は、ほっとしたように息をつき、白いマントの初老の男に恨みと懇願の混じったような視線を送った(とプリズマティカが思ったのは、さっきの意味不明な議論を聞いていたせいだが)。

「調査計画は、地理院と政府で決めればいい。報告は来週早々に伺う」

 それを聞いて、トルウは笑みを浮かべて大きく頷いた。「ご配慮ありがとうございます」

 局長は明らかにほっとした表情を見せ、プリズマティカに言った。

「くれぐれも粗相のないようにな。マイスタのご要望にはなんなりと従うように」

 プリズマティカはまた笑いの発作が起きそうになったが、必死にこらえて顔が真っ赤になっていたのは、思いもかけない幸運に上気している娘という態でごまかせていたかもしれない。

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