1.3 その時はあなたが助けてあげて
トラムの終点である大広場(グラン・プラス)前で降りたプリズマティカとマリカは街の大通りの一つであるパスカル通り(アヴェニュドパスカル)を二ブロック南下し、都市水道局の中庭にある窓口に行き、その日の受け持ちエリアを指示され、電気銃の充電済み電池(キャパシタ)などの必要な装備を渡された。プリズマティカの担当は市の中心部の直下だったので、水道局の敷地内の昇降機から地下に降りた。
昇降機の鉄柵状の扉が、がらがらと大きな音をたてて開くと、壁に灯った冷光灯でプリズマティカの背丈の二倍ほどの高さもある大袈裟な鉄の扉が浮かび上がった。腰につけた小袋(ポシェット)から出した大きな鉄製の鍵を鍵穴に入れ、二回転して扉を押すと地獄の門もかくやという音をたてて開いた。その隙間から、初めての人間なら胃に入っているものは水だろうと空気だろうと全てはき出したくなるような強烈な異臭が吹き出す。この瞬間は、プリズマティカもいまだに息をとめてしまう。でも、いつまでも呼吸を止めているわけには行かない。申し訳程度の効果しかない小さなマスクをつけ、少しずつ呼吸をしながら自分の感覚が麻痺するのを待つ。不思議なことに一度慣れてしまうと、中で弁当を食べるくらいは平気になる。
下水道は真っ暗ではなく、扉の奥に向かって伸びる道の所々に冷光灯が灯っている。星明かりよりは少しはましという程度。肩に乗せた強力な冷光灯を点灯させると、プリズマティカの正面はいっきに明るくなり、逆に黒々とした通路の奥を際立たせた。扉を閉め、電気銃の電源を入れて、通路を奥に向かって歩き出す。しばらくして道は右側に折れ、幅五メートルほどもあろうかという巨大な本溝の側道に出る。下水の表面には波も見えず、流れているのか流れていないのかも分からないが、時折、何か得体の知れない大きなものが浮かんできたりすると、思っていた以上に流れが速いことに気づかされる。
床にはすっかり摩耗した石畳、周囲の壁は煉瓦ほどの大きさに切られた花崗岩が積まれている。その表面には、いつの頃に描かれたものかわからない、落書きのようなものもある。天井を見れば、大小の太さのパイプやケーブルが通っている。下水道と呼ばれているが、実は下水以外のもののためにも重要な役割を果たしているのだ。古い陶器のような色合いのひときわ古い管は、「冷脈」から得られた冷気を流しているものだ。
本溝からはいくつもの側溝が枝分かれしている。下水道以外にも、なんのためか分からない細い側道が、やはり時々ぽっかりと暗い口を開けていることがある。そのうちのいくつかは、迷って入り込む者がいないようにバリケードで封鎖されている。
「あれ、誰かいたずらしたのかな?」
その側道を封鎖していたバリケードは鎖の一部を断ち切られて入り口の脇に寄せられていた。それは「空白地帯」と呼ばれる、なんのために作られているのわからない巨大な迷路区画につながる四〇もある入り口のうちの一つだ。プリズマティカは舌打ちしながら重いバリケードを引きずって、とりあえず入り口を塞いだ。
最初の目的地は、二四一号と呼ばれる浄化槽だった。おそらく、あまり見たくない何かが詰まっていて機能が低下しているのだと想像できた。一番嫌なものは人間の屍体だ。ここ、アルジェンティナでは、いや冷脈から得られる温度差による電力を主要な熱源とする大陸の主な都市では、その空気さえも凍らせる低温によって屍体を氷漬けにして地下深くに埋葬する。死刑囚や自殺者さえも、最も苦痛の少ない死として、冷脈の超低温による穏やかな死を選ぶことがほとんどだ。しかし、何かの拍子に、そうした凍結屍体が冷脈の流れの変化によって、取り残された大昔の地下墓地から下水に紛れ込んでくることがあり、わずか一年あまりの下水掃除人としての仕事中に、プリズマティカは三回ほど、それらしきものに出会っている。
使い込んだマイカのケースに入れた地図と、側道の壁に埋め込まれた金属片に刻まれた通りの名前を見比べながら、何本かの分かれ道を過ぎ、橋を渡り、さらに細い道に入り込む。下水の水かさが増し、側道まで水が押し寄せてきた。足首のあたりまで水に浸かっていて、時折何かが足首の辺りにぶつかるが、さすがのプリズマティカも何がぶつかったのか確認しようという気にはならない。やがて下水の悪臭にはすっかり慣れていたはずの嗅覚をさらに刺激する異臭が漂ってきた。これには不安を感じて、再びマスクを着ける。
ゆっくりとカーブする水道を進んだ先に、水道をほとんど塞ぐような黒い塊が見えてきた。動いている様子はない。近づくと、それは作業用の
「こんなんばっかりだと楽なんだけどな」
小さな声で呟いた独り言が洞内の壁に反射する。その末尾に、カーンという鋭い音が重なった。そして何か重い物をぶつけ合うような音と地響き。その時、プリズマティカの頭に浮かんだのは自動機械の腹に空いていた大きな孔だった。剣呑な輩がこの辺りをうろついている可能性はある。幸い次の仕事場は音の聞こえた方とは逆だ……。
だが、もう一度金属音が響いたとき、プリズマティカは確信した。間違いない、あれは人間が実体弾の銃を撃った音だ。そう思うと、反射的に走り出していた。方向を間違えることはない。二つ目の角を曲がったところで、プリズマティカは狭い下水道を塞ぐようにして背を向けている、ぬめぬめとした肌の、大きな四つ足の動物を見つけた。背中には青い二筋の線が入り、プリズマティカの照らした光に美しく反射した。疑似イモリの雄だ。
「こっちよ!」
相手は、震動はわかるが人間の声のような高音はろくに聞こえないので、叫ぶ必要はなかった。大きな水音をたてて、その巨体には相応しくない俊敏な動きで、イモリはプリズマティカの方に向き直った。イモリの向こう側、下水の中に腰の辺りまで浸かっている人影が見えた。冷光灯に照らされた顔は、まだ少年のように見えた。
「そこの人、側道に上がって!」
「え?」
「電気銃つかうよ。急いで」
片手に冷光灯、片手に拳銃をもったその若い男は水の勢いに負けそうになりながらも何とか一方の側道に近づこうとする。間に合わない。一回はなんとかやり過ごさないと。
イモリが飛んだ。口を大きくあけ、鋭い爪のある左右の前足を広げて、プリズマティカに躍りかかってきたのだ。それを予想していたプリズマティカは、イモリに体当たりするように前に走った。イモリの前足がプリズマティカの側頭部をかすめて髪の毛が数本飛んだ。イモリは側壁にしたたか頭をぶつけて、大きな音が鳴り響いた。男はようやく側道に腰まで這い上がったところだ。プリズマティカは肩に掛けていた電気銃を下ろして腰だめにする。イモリは激突の衝撃などなんでもないというように体勢を立て直すと、再びプリズマティカに向き直った。
「目をつぶって!」
プリズマティカは叫び、電気銃の引き金を引いた。
イモリは跳躍しようとしていたが遅かった。電気銃の先端から飛んだ金属の杭はイモリの肩口に突き刺さった。直後に轟音とともに銃口と杭の間を青白い放電の橋が渡った。最初の電撃でイモリはびくびくと痙攣したが、すぐに動かなくなり、タンパク質の燃える臭気ともに煙を吹き上げ始めた。五秒ほどして銃に取り付けた三つのキャパシタを空にして放電が終わったときには、ミイラのようにひからびた死骸が白煙を上げながら横たわっていた。
銃を肩に担ぎ上げて振り向くと、先ほどの男が汚水まみれになって立ちつくしていた。冷光灯をむけられてまぶしげに目を細める。見慣れない服装だ。青い上着につばのない青い帽子。帽子には銀色の羽根のような飾りがついている。一見してプリズマティカのような下層階級の人間ではないとわかる。背はプリズマティカより少し高い程度。この土地の男に比べれば高い方だろう。東の方の民族のようにも見える。
「ありがとう。助かった」
若者は、意外に元気そうな声で言うと、丁寧に頭を下げた。
頭を上げてプリズマティカを見つめた黒い瞳には、こんな体験をした直後というのに、一瞬息をのむほどの輝きがあった。整った顔立ちであったが、何よりその目に心を奪われて、数瞬の間プリズマティカはそれに見とれた。
「どうしたの?」
若者に言われて、プリズマティカは我に返った。
「ど、どうしたも何も、自分の格好を考えてみたら?」調子が戻ってきた。「拳銃持っただけでここの下水道に潜るなんて、黄金漁りでも、おたずねものでもなさそうね。あなた誰?」
「僕はマティウス・トルウ、マリエンブルグ市の地理院からきた。きみは、ここに住んでるの?」
おい、ここってどこの意味で言ってる? 若者の無知と侮辱に対して怒りの衝動がわいたが、そこはさすがにこらえて、なるべく理知的(と彼女が信じるやり方で)に答える。
「ここはあたしの仕事場よ。住んでいるのはもう少し上の方。ええと、トルウと言ったわね。地理院ですって?」
帝国地理院。プリズマティカはその名を聞いたことがある。いや、知っていると言ってもよいかもしれない。それはかつて神聖ローマ帝国政府の一部局だったが、現在では独立した技術組合であり、文字通り世界の地図を牛耳っている組織だ。
「で、その地理院のトルウ君は、ここで何をしてるの」
「いや……。その、それはちょっと言えない。つまり、仕事上の理由で」
「はあ。まあ、あたしみたいなモンが聞いてもわからんでしょうけど。で、今日はこれからもその仕事を続けるの?」
「いや、今日はその、威力偵察ってとこかな。目的は果たしたので、戻ろうかと思って」
トルウは力なく笑い、そしてその表情がすぐに哀しそうになった。「あの……」
プリズマティカは、トルウが何を言おうとしているのか分かったが、どうせそうなるのだ、一寸いじめてみるくらいいいではないか。
「どこから入ったか知らないけど、まあ、気をつけて帰りなさいよ。じゃあ、あたしは仕事の続きがあるから」
そう言って、くるりと振り向いて歩き始める。案の定だ。
「あの、すまないが、きみ、その……」
と、後から呼び止められる。余計な手間をかけることになったことと、予想が当たったことがないまぜになった気持ちごと、プリズマティカはせいぜいかわいらしく振り向いてみせた。「なあに?」
「すまないけど、僕を上まで案内してくれないか。なにしろ、その、ここは初めてで」
初めてもなにも、普通は一生くるところじゃない。
「しょうがないわね。じゃあ、一番近いゲートまでね。そっからは昇降機で昇れるわ」
「いや、その、ありがとう。もちろん、お礼はする」
その言い方は、いかにも金持ちのぼんぼんといったふうで、プリズマティカの燗に触ったが、どうにか今日二度目の忍耐力を発揮した。
「お礼なんていらない。その替わり、今度どこかで迷っている子をみつけたら、その時はあなたが助けてあげて」
トルウは、一瞬あっけに取られたように目を丸くした。しかし、すぐに笑顔を浮かべて、
「ああ、もちろん。必ずそうするよ。ええと……」
「あたしの名前はプリズマティカ。ごらんの通り下水掃除人よ」
どういうわけか、それを聞いてトルウは、へえ、と感嘆したような声を出して目を丸くした。
「どうせ長くて変な名前ですよ。でも、この状況でそれ嘲笑(わら)うとか、どうかしてるんじゃない?」
トルウはあわてたように頭を振った。「いやいや、笑うなんてとんでもない。それどころか僕が世界中で一番好きな名前と言っても過言じゃない」
「……あんたとのつきあいは短いけど、そんな言葉がめちゃくちゃ似合わないってことだけはわかる。っていうかきもい!」
「いや、本心だよ。じゃあ、アルジェンティナの志高き下水掃除人プリズマティカに地図作成組合のマティウス・トルウより心からの感謝を」
そう言って、トルウはプリズマティカの銃を持っていない方の手を取ると、口づけするかのように顔の前に捧げた。その動作は優雅で、もちろん本当に口づけなんてするわけではなかったが、プリズマティカは不覚にもどきりとしてしまう。しかし、顔を上げたトルウは、いかにも間抜けな調子でこう言った。「で、出口はどっち?」
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