1.2 あなたなんか捨て猫のくせに!

 幼い恋人達のコンパートメントは、当然ながら五階建てのアパルトマンの五階だった。三年前に設置された昇降機は今日も故障中で、プリズマティカは階段を小走りに下る。

 街路に出る前の最後の踊り場を曲がり終えた時だった。プリズマティカは、そこに一人の小柄な娘の姿を見つけた。娘はちょうど階段の一段目に足をかけようとしていたところだったが、プリズマティカの姿を見ると、ひぃっ、と小さく叫んで後ずさりし、つまずいて、ものの見事に背中からひっくり返った。それを見ていたプリズマティカは、残酷な笑みを口元に浮かべこそすれ、欠片の同情もしない。

「あらあら、ちょっと来るのが早すぎたようね、ウルスラ・ヴァッサークランツ」

 ウルスラと呼ばれた娘はずり落ちた眼鏡を上げ、顔を真っ赤にして乱れた裾を直しながら、どうにか立ち上がった。黒いスカートに白いブラウス、その上に羽織ったくすんだ橙色のマントは学術組合の年少構成員の出で立ちだ。

「わ、私は、ウルスラ・フォン・ヴァッサークランツですわ。さっさと汚水と汚らわしい化け物のお友達のところにいってらっしゃいなさいよ」

「おやおや、貴族のお嬢様がそんな言葉使うんだ。ってか、留守を狙って人のオトコを横取りしようなんて泥棒猫みたいな真似すんじゃないよ!」

「な、なにが泥棒猫ですか! あなたなんか捨て猫のくせに!」

 ウルスラは突きだした人差し指をふるわせながら糾弾するが、プリズマティカは怯まない。

「ええ、捨て猫だった。でも今は違うの。猫なんて拾われたもん勝ちなのよ。ほら、さっさと帰って学校の宿題でもやってなさいよ!」

 ウルスラは拳を握りしめ、歯ぎしりをして悔しがる。涙がほほを伝ってぽたぽたと下に落ちる。迫力でも腕力でも勝てないと分かっているので、なおさらだ。「もう、覚えてらっしゃい。必ずロジェは取り返してみせるわ!」

 そう捨て台詞を残して、通りの方に走り去る。

「あいにく、あたしはあんた達学生さんと違って頭が悪いのよねえ。とても覚えてなんかいられないわ」

 事象学組合の年少構成員と言えば、この都市での地位は決して低くない。勉強ができる身分というものを有り難く思うべきだ。それをあの連中は、自由だ自治だと称して昼の日中から酒場で集っているかと思うと、留守を突いて人のオトコを奪いに来るんだから。

 プリズマティカはため息をつくと、去ったウルスラの後を追うようにして、路地に出る。

 そこには、身なりのあまり良くない工場労働者や、寮に入ることができない貧乏学生などが家路を急ぐ姿がある。都市の中心に向かうトラムはすぐそこの四つ角から出ているが、そのあたりには、パン屋や酒屋、肉屋などの生活品を扱う数件の店が固まっていて、夕方の賑わいの名残を見せている。通行人や店の者と挨拶を交わしながら、プリズマティカはトラムの停車場に向かう。

「おや、ご苦労様。毎晩大変だね」

「おはよ……じゃなかった、こんばんは、おばさん」

 パン屋のおかみさんは、閉りかけたシャッターの間から太った身体をようやく出して、プリズマティカに紙の袋を渡す。

「ごめんね、今日はドーナツくらいしか残ってなくってねえ」

「とんでもない、あたしこのドーナツ好きだもん。いつもありがとう、おばさん」

 店を出ると、すぐ正面の停車場にトラムが滑り込んでくるところだった。プリズマティカは全力疾走で道を横切り、やってきたトラムに駆け込む。その車両は空いていたが、プリズマティカは電気銃を抱えるようにしてつり革に掴まる。トラムは三分ほど走って、やはり大きなアパルトマンが連なる一画で停まった。何人かの乗客と一緒に乗り込んできたのはプリズマティカと同年配の娘だった。背は高く、ソバージュのかかった金髪と青い瞳が見た者に強い印象を残す。プリズマティカと同じようなボディスーツにごついジレーを羽織っているが、ずっと女性らしい体つきで、その服装もあって周囲の男達の視線を集めているのがプリズマティカにも分かる。手に持っているのは銃身の短い多芯多機能の銃。

「おはよ、ティカ」

「おはよ、マリカ。今日はあなたが相棒?」

「残念でした。今日からあたしの相棒はフィル」

「フィルか、いいな、ちくしょう……」

「おや、ロジェの坊やが聞いていいセリフかなァ?」

 プリズマティカの緑色の瞳がマリカの形のよい唇をにらみつけた。

「ロジェのことを坊やって呼ぶのはやめてちょうだい。あなたと同い年なんだから」

「おーこわ」

 マリカは肩をすくめて、「で、彼、元気?」

「うん、願書送った。士官学校の」

「ほーう、二人の夢が現実となるのもいよいよですな」

「でも……大丈夫かな。ロジェ、頭はいいけど身体はあんまり強くないし」

「何言ってんのよ。下っ端の兵隊じゃあるまいし、戦争ってのは頭でやるもんでしょう? 大丈夫、受かるわよ」

「ほんと? ほんとにそう思う?」

「大丈夫、あんたのロジェじゃないの」

「うん……」

 真剣な表情を装いつつも、つい口元がほころんでしまうプリズマティカである。

「やれやれ、かなわないねェ、こう毎度毎度ノロケにつきあわされたんじゃ。でも、真面目な話、募集人員もずっと増えたんでしょ」

「そうなのよね! それはいいんだけど……」

 プリズマティカは自分の心にすっと暗い影が差すのを感じた。士官学校の募集人員が増えた理由は明白だ。もうすぐ東部でオスマン帝国との戦争が始まるからだ。

「下っ端の兵隊として戦争に行かされるよりはずっとマシなんじゃない?」

「うん、でも」

「下っ端の兵隊になるよりはマシだって」

 と、マリカは少しさみしげに繰り返した。戦争が始まれば、そして長引けばフィルは兵士として徴発され、本人の意図にかかわらず戦場に送られるかもしれない。ひょっとしたらマリカやプリズマティカだって従軍させられる可能性はある。もう半世紀もの間、ヨーロッパでは戦争らしい戦争がなかった。そんな長い平和はこの千年で初めてのことだ、と学者達は言う。遠慮がちだが確かな熱狂と、足もとに溜まる霧のような不安が都市全体を覆っている。

 トラムはくすんだ色合いの支配する低所得者向けの住宅街を抜け、市街地へと入っていった。このあたりは商店が多く並び、煉瓦造りの昔ながらのどっしりした建物が、整った町の風景を形作っている。その向こうには、千年近くも前に建てられた教会の石造りの尖塔が三つ、さらにその背景には、この十年あまりの間に建てられた何棟もの十階建てを超えるの巨大な建物が、遠近感を失わせるように黒々とした姿を見せていた。政治や金融などの中心としてどんどん賑やかになっている一画である。その一棟の屋上には鉄骨のトラスで組まれた巨大な「板」が乗っており、小型の飛行機や大小の飛行船の発着場として使われている。『空港』と呼ばれている施設だ。

 ぼんやりと霞がかかったような景色の中、夕日を浴びた小振りの飛行船が、かなりの速度で滑り込むように降下してゆく。

「あぶないわねえ。ぶつからないのかしら」

「でもうまいじゃない。マリカは、乗ってみたいと思わない? 飛行船」

「そりゃ、思わないでもないけれど……」

 マリカは首をかしげて、「そのままどっか遠くの町に行けるなら、それもいいかも」

「ええ? どっかいっちゃうの?」

「だからいけないって。あんたこそどうなのよ」

「あたしは出て行かない。ロジェが士官学校に行っている間、ずっとここで待ってるんだ」

「あんたも行けばいいじゃない。ダルムステットだっけ? 士官学校は」

「仕事みつかんないよ」

「ふん。今のより悲惨な仕事ってのもそうないと思うけどね」

 そんなものか、とプリズマティカは首を傾げた。そう言えば、この仕事をどうして選んだのか、はっきりと思い出すことができないのだ。

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