魔力維持幸福王子抜き

「アナと雪の女王」を見て、それから「塔の上のラプンツェル」を見ました。両方を見た人は絶対に思ったでしょうが、エルサの氷の魔力と、ラプンツェルの髪の毛の魔力、双方の迎える結末が露骨に対照的です。つまり、この記事のタイトルで言ってるような対照をなしています。


その件については、例えば1966年生まれの男性にはまだまだ多いタイプであるところの、生理感覚として男尊女卑が浸透しているタチの私からすると、あまりどうこう言いたい意見は涌いてこないです。所詮他人事、って感じ。男であることの有形無形のメリットを享受して生存している者がそこで何を言ってもなぁ、って気がします。って、結局何か言っちゃってるんだけど(笑)。


でも、ラプンツェルが2010年で、アナ雪が2013年でしょう?。そこはまぁ、やっぱり、ふーん、とは思っちゃいますね。


ただ、対照で無いところもあって、実はそっちの方が大事なのかも、って気もします。アナ雪については、同性愛者視点の解釈が広く流布しているようですが、そういうマイノリティーの痛みを投影できる余地はラプンツェルには特に無い気がします。ラプンツェルには毒親の寓意が露骨に使われてますけど、毒親問題はマジョリティにもダイレクトに訴求力を持つ普遍的モチーフで(だって、親の毒にどっかで犯されてない人なんて、親を持ってる人の間ではむしろ少ないでしょうから)、Let it goに見る冷えたカタルシスの周辺世界とはちょっと異質に思います。


と、言ったそばからなんですが、考えてみると、エルサの痛みは、あらゆる意味で「異能」なんぞと縁の無いマジョリティな私にも割と素直にアピールする普遍性を持ってましたね。Let it goの爽快感はこちらにも無理なく共振してきました。


マイノリティーの魔力が共同体の中で冷たいまんまに暖かく受け入れられる状況、ってのが2013年のアメリカ映画が夢見たファンタジーだったってことでしょうか。必要なのは共振?狂信?共信?。頭書の2作を観た頃の2015年の冒頭、ちょっと考えてしまいました。

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