アナはキチンと病めてるか?

アナ雪、見てるとエルサがすごく可哀想で、アナの暴力的な屈託の無さが、見ている私としてはちょっと憎らしくなってしまう程です。


でも、ドラマ終盤で、そんな皮相な見方を作品側から次のセリフでたしなめられます。


You were so desperate for love


ハンスがアナに言った言葉です。言われてハッとしました。劇中でのアナの快活さに目が眩んで、アナを単なる陽気なオバカさんとしてドラマ終盤まで見ていた私でしたが、客観状況を冷静に考えれば、アナも深く傷ついてるわけです。多年に渡り大好きだった姉に拒まれ、人との交流も阻害されて。さらに言えば、エルサ以上にアナの方が傷ついてると考える方が、客観状況からは自然です。だって、エルサがアナを拒むのは、自己の魔力による危険に妹をさらしたくないという理詰めの合理的判断であって、人は合理性のある痛みならまだしも耐えやすいと感じるものですが、アナは劇中の事件が起こるまでその経緯をまるで知らされていないわけで、姉の拒絶は全くの理不尽、耐え難い痛みのはずです。


しかるにあの快活さです。人を求めることに対して絶望しても不思議では無い10数年を経て、なおも、戴冠式のパーティーにおける素敵な出会いを無邪気に夢見られるような無屈託ぶりです。


その無屈託は、健気を通り越して、もう病的の域でしょう。


「喪の仕事」という概念が心理学だかの分野にあります。悲しい喪失体験を真っ正面からキチンと悲しみ痛むことは、それを克服するために重要な作業です。アナの暴力的快活さは、その作業から逃走するための病的推進力なのかもしれません。それを正確に「desperate for love」とハンスが見抜けるのは、やはり彼も、母国に於いて確固たる居場所を持たぬという空虚感を抱えてるせいなのかなぁと思います。そういう意味では、楽曲「love is an open door」で言われる「僕らは似た者同士だ」という意味の発言は、単に真顔の述懐なのかもしれません。でも、ハンスはその空虚感を埋める現実世界向けの作業にキチンと取り組んでる。病的躁の高揚感で、直面を回避しようとしている貧弱な魂を、ハンスが作業手段として利用しようと考えたのは、ある意味、むべなるかな、です。


エルサは、人里離れた山奥で真の自己像を解き放つという疑似れりごーから、物語を通じて、共同体に祝福される形での自己表出という真れりごーへと到達し得た。一方、アナは結局、病的快活への逃走という段階から全然抜け出せないままドラマが終わっちゃったんじゃないのか。一時期、そんな風にも考えてみてたりしました。


でも、考え直しました。


最終盤で、アナがいったん完全凍結してしまう場面、実はあそこで、ハートを完全に凍らせるという形で、アナの遅れてきた喪の仕事がヒッソリと終わっていたんじゃないか、と。理不尽な姉の拒絶に対して胸の奥深く仕舞い込んでいた怒りと絶望の冷たさ全てを体表に顕在化させて、自らの存在をいったんそれが覆うに任せることによって初めて、姉を守る硬い盾ともなり得、また、蘇生の可能性をも開くことが出来たのではないか。あそこで、ハンスをクリストフに部品交換して溶かすだけでは、病的快活から脱出することは出来なくて、やっぱ、自分の心をいったん全面的に凍らす喪の仕事が必要だったんだろう。


そう考えてみることにしました。

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