092:隠したメモ

 定員四人のシェアハウス。一人欠けていて今は三人。

 男一人と女二人で半年。よく保ったと思うわ。

 ハウス内では恋愛禁止。建前でしかなかったけれど、仲良くやっていたと思う。

 まぁ、具合が悪くなった訳では無いけど。

 唯一の男性である剛が実家の都合で出て行くことになったのは、美佐が二週間の合宿に出ている間だった。とても急なことで、話を聞いてから一週間後には、大きなボストンバックに着替えを詰めた剛は、残りの手続きやら家具の処分やらその他諸々を私に任せて旅立っていった。

 剛は最後まで美佐のことを気にしていた。落ち着いたら連絡ちょうだい。また来れば良いじゃない。私は振り返らせないように剛の背中を押し続けた。

 美佐が帰ってきたのは剛が旅立ってから二日も後のことで。後の人が使えそうな家具だけ残して荷物の処分もあらかた終わった頃だった。

 連絡はしておいたけれど、息せき切って帰ってきた美佐は一人分の存在が減ったハウスに入るなり呆然と立ち尽くして、やがて静かに泣き崩れた。


 知っていたよ。あんたたちが付き合ってたことくらい。

 私に気を遣って、遣いまくって、家の中では無理を感じるくらい距離をとっていたことも、美佐が一生懸命私にいい人を紹介しようとしていたことも。

 そうね、誤解していたのかも知れないね。


 熱々のコーヒーをナミナミ入れたマグカップを持って、そろりそろりと居間へ運ぶ。泣き疲れた美佐は化粧の溶けかかったぐしゃぐしゃの顔のまま、ぼんやりと座っている。

 テレビからは空々しいくらい賑やかな声が流れてきた。あまりの空々しさに私はリモコンを操作する。……ぷつんと、音を立てそうなほど唐突に音が止んだ。

 美佐の前にカップを置く。並べて自分のカップも。

 美佐の隣に腰を下ろす。改めてカップに手を伸ばしながら、私はぽつぽつと話し出す。

「お父さんが亡くなったんだって」

 突然の電話だった。朝を待って、まだ暗いうちに剛は飛び出していった。

「着いたらお通夜で、次の日にお葬式。一度帰ってきて、それで終わり」

 お母さんが心労で倒れたらしい。当分、向こうを離れられないからと、親戚がいる間にお母さんを託してこちらを引き払いに来たのだと。

「美佐に会えないの悔しがってたよ。でも、落ち着いたら絶対連絡するからって」

 じっと見ていると美佐の白い頬の上をぽろりとしずくが転がっていった。見る間にしずくは増えていき、やがて流れる涙に変わった。

 私はそっと美佐を抱き寄せる。すると美佐は、堰が壊れたかのように声を立てて泣き始めた。

 小さな子をあやすように、手の中にすっぽりと収まってしまう小柄な美佐の小さな頭を私はそっと、そぉっと撫でる。

 美佐はいつまでも泣き続けた。


 美佐の身じろぎで目を覚ました。壁の時計を目で探せば、すでに朝と言える時間だ。

 美佐をそっと揺り起こす。

 帰ってきたまま泣いたままだ。シャワーでも浴びてこいと寝ぼけ眼の美佐をシャワー室へと送り出す。

 今のうちに、朝食でも作ってしまおう。美佐もお腹が空いているだろう。

 悲しくても辛くてもお腹は減るもので、それは美佐も剛も変わらない。

 キッチンに立ち、熱したフライパンに卵を落とす。頃合いを見て皿に手を伸ばして、こつりと当たったものを見る。

 ……数日いなかったせいで奥に追いやられていた。だから、見落とした。 

 浴室からはシャワーの音が響いてくる。まだ続きそうな音に、そっとそれを掴み出す。向かう先は不燃ゴミ。

 ガシャンと響いた音に心臓が跳ね上がりかけたけど、シャワーの音は変わらなかった。


 卵を焼いてトースターがチンとできあがりを告げる頃、美佐はようやく日常に戻ってきたような顔でキッチンに現れた。

 タオルに髪の水気を吸わせながら、片手に携帯電話を持っていた。

 下着無しのTシャツに短パンは、剛にいくら注意されてもやめなかった。

「ねぇ、真菜穂」

「なに」

 定位置に座るとタオルを頭に乗せ、携帯をいじりながら、呟くように美佐は聞いてきた。

 私は美佐の前に皿を出す。パンものせて、ミルクを注いで。

「剛、メモかなにか置いていかなかった?」

「住所の? もらったよ」

 冷蔵庫の扉に張ってある。日本を縦断しそうなほど、遠い地名が書かれたメモだ。

「違うの、そうじゃなくて……」

「どんなの?」

 自分の皿を美佐の対面に置いた。ミルクが苦手な私はオレンジジュースだ。

 剛の定番リンゴジュースは、昨日、もったいないと思わないでもなかったけれど、排水溝へながしてしまった。

「……ないなら、いい」

 美佐は憮然と言ってのけて、パンにかじりついた。

 あ、気落ちした。

 溜息もつかない。一見がっかりした風でもない。でも。

 ……けれど、気づかないふりで私もジュースに手を伸ばす。濡れたままの美佐の茶髪が朝日にすけて金色に輝いていた。


 いってらっしゃい、と美佐を送り出す。いい加減にしなよね、と美佐が返して背中が遠くなっていく。

 私は今日も自主休講を決め込んでいる。いつものことだ。いつもの。美佐にとっては。

 いつもなら、すぐに私はバイトに出かける。今日は。最後のゴミ出しをしてしまうつもりだった。

 不燃ゴミを引っ張り出して、今日不燃ゴミの日の置き場まで持って行かなくてはならない。あんなマグカップ、すぐに捨ててしまうに限る。

 置いていった雑貨もゴミ袋の内だ。程度の良さそうな者はリサイクルショップ行きだけど。

 そして、アレは。

 ……ベランダで燃やしてしまおうと決めていた。


『俺の前夜/O3の523/19→10』


 美佐の部屋、ドアの隙間に差し込まれていた。私にはわからないメモ。万一私が見てしまってもわからないように二人で決めた暗号だろう。

 だから私は知らんぷりして火をつける。こんなもの、ゴミと変わらない。


 私の手の中でぶわりと燃えたメモは溶け消えるように燃え尽きた。


 知っていたわ。あんたたちが付き合っていたことくらい。

 でも知らなかったでしょう。あんたなんかに渡さないと思っていたことなんて。


 愛しい、美佐を。

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