090:銀製オオカミ
何故心引かれたんだろう。
駅のポスター。古代メキシコ展。
中央に鎮座する銀色のオオカミ。目玉の展示物。
珍しいと思った。思わず見入った私は、今、結局ココにいる。
そして思う。
――あぁ、やっぱり。
生きているかのような、その目に。
*
「遅かったのね」
おみそ汁の臭いをさせながら、義母さんが顔を出した。ごめんなさいと言い返して、制服を着替える。なんとなく……本当に何となく。部屋着というよりコンビニでも行くような格好を選んだ。
夕飯はまだ始まっていなかった。いつもより、少し遅くなってしまったけれど、待っていてくれたようだった。
「遅くなるなら、連絡くらい入れろ」
「ごめんなさい。学校が終わってから寄り道しちゃったの」
むすっと私の顔も見ずにほかほかご飯に手を伸ばした義父さんは、メガネを湯気で曇らせた。私ももう、子供じゃないんだけどなと思ったけど、口には出さない。心配してくれてると分かってるから。
「博物館でね、メキシコ展やってて。ポスターがキレイだったのよ」
義母さんは少しだけ目を見張った。義父さんは曇ったメガネをこちらに向けて、今度はおみそ汁に取りかかった。
あれと、内心首をかしげた。そんなに、妙だったろうか? 確かにあんまり博物館に行くようなタイプじゃない。驚かれてもおかしくはないと思ったけど。珍しいとか、驚いたとか、そんな風には見えなかった。
けれど、すぐにそんな表情は消して、話題はおかずに移った。そして、大学で教鞭を執っている義父さんの学生への愚痴にと変わっていく。
義父さんも、義母さんも、何か隠してる。そう、感じた。
今日は月ばかりキレイで、それもあってなんだか落ち着かなかった。
月は好き。昔から、それこそ覚えてない頃から、私は月を見つけて喜ぶ子供だったと言う。
今日もそう。そして、今日は違う。もう一つ、気になるものがあった。
時計を見る。優しい鳩時計の針はまだかろうじて下を向いてる。雑誌をぽんと投げるように横に置く。もう八時? まだ八時。閉館はしているだろう、追い出されるように帰ってきたんだから。けれど。何だろう、落ち着かない。
手探りで鞄を引き寄せ、突っ込んだ冊子を取り出す。わざわざ買ってしまったパンフレット。ガラス越しのオオカミの目。あの迫力には及ばないけど、印刷物になった目も、とても精緻で動きそうで。置物のクセに私をじっと見ているかのような錯覚を覚えた。
勢いをつけて、起きあがる。――だめだ、じっとなんてしていられない。
動いたからといって何もないだろう。既に閉館。職員だって帰っただろう。厳重に閉じられた扉。見回りの警備員が居るのだろうか。
行ったからと言って、見れるワケじゃない。なのに。承知しているのに。
五分の後には、馴れたスニーカーを突っかけて、静かに自転車を押していた。
博物館は自転車なら三〇分の距離だ。歩きなら、結構かかってしまう。
通常はバスを乗りつぐ。学校からなら、反対方向のバスに乗ればいい。
この辺は住宅街で、それだからだろうか人通りはもう、かなり少ない。
バスが着くたびはき出される人の波を横断するように自転車をこぎ続ける。
国道へ出て、ほろ酔い始めた通行人を避けながら、先を進んだ。
周囲を森で囲まれた博物館は、暗い中で見ると不気味な雰囲気さえあった。
あくびを今にもかみ殺したような顔をした警備員に気を付けながら、少し離れた塀を登る。
足場に使ったチャリががしゃんと音をたてたけど、警備員は気付かなかった。
整備された木々の間を駆けながら、多分、私の頭は麻痺してしまっていたのだろう。
何で私は走っているのだろう? 全く考えない事でもなかったが、それより何より……オオカミが気になって仕方がなかった。
オオカミを見たい。あのオオカミをもう一度見たい。退館時間になっても居残る私に学芸員さんは言った。「また、明日もおいで」
それでも振り返る私に、さらに言った。「よっぽど気に入ったんだね」
違う。声には出さなかったけど、そう浮かんだ。気に入ったんじゃない……こわいんだ。
蛇に睨まれたカエルのように? ……そうでもない。こわいけれど、恐怖じゃない。多分、違う。なんだろう。わからない。分からないから余計に……足が動く。
木々が途切れた。右に回れば正面入り口。左に回れば、多分、職員入り口。
月が芝生をしらじらと照らしていた。ふと、足を止めた私は、芝生の上に、”何か”を見た気がして、左の”何か”を追いかけた。
白く見える気がする。獣の、足跡。月の光を淡く淡く反射して……。
それは結局本当に職員出入り口まで続いていて、一つ大きく息をして、扉をそっと引いた。……期待通りだったと言うべきだろうか。音もなく扉は、外に開いた。
どくんと、鳴った。
やはりと思う気持ちと、何故と思う気持ちがまだ、確かにあった。けど、もう、戻れない。……違う。もう、戻らなくては。
ガラスの向こうに、オオカミがいた。非常口の淡い光の中で、昼間と同じ顔をこちらに向けて。その瞳だけが、生き物のようにみえる。
やっと会えたのだ。会えてしまったのだ。あと数十センチ。このガラスさえなければ。左右を見回した。鑑賞用の、長いすが見えた。
「やめとけよ」
椅子の反対側に、手があった。
「どいて」
「ちょっと落ち着け」
どかりと、椅子に座り込んだ。
小柄な少年に見えた……非常灯に浮かぶその髪は、銀。
「……いいわ」
椅子は……他にもある。走り出そうとした手が、捕まれた。
「離して」
振り返るまでもない。一人しかいない。……メーウィだ。それが、少年の名。
出てくる。分かる。浮かんでくる。
邪魔しないで。メーウィだって、同じじゃないの。人の姿でこんな所に居るんだから。
「ルーフ!」
「邪魔しないで!」
私が私を取り戻して、何が悪いというの!? こんな所で、見せ物になって、私が助けなくてどうするの!?
もういい、椅子なんて要らない。こんなガラスくらい……!
ぐいと、腕が引かれた。あ、と思う間もなかった。パンと、いい音を聞いて、じんわりと頬が熱く、なった。
「……平塚朋子! 東松山商業二年五組。義理の父は平塚弘幸、義理の母は平塚さなえ。……おちつけ、お願いだから……!」
きらりと光る粒が、メーウィの頬を滑った。
そうだと、思い出した。
私は”朋子”になることを選んだ。十六年前。身体を捨てた。最後まで反対していたのは……。
止まらない涙のメーウィを、そっと抱きしめた。すぐ下の弟。一番仲がよかった兄弟。
心配してくれたの? この国まで来るのは大変だったでしょうに……。
「ルーフ……朋子」
「ん?」
「警備員が来る。……終わるまで、僕はここにいるから」
うん、……ひとつ頷いた。
最後に、懐かしい手触りの少し硬い銀の髪を撫でて、すっかり大人になった感触を手放した。
「ありがと……さよなら」
「……待ってるから」
ライトがちらりと片隅を動いた。振り返らずに、走り出した。
古代メキシコ展の最終日。ごったがえす人混みに流されるように、銀製のオオカミに近づいていった。初日には気付かなかったけれど、オオカミは二体あった。
人々の溜息のような声が聞こえる。
ほんの少しほこらしく思いながら通過した私に……私だけに、声が届いた。
『会いに来て。今度は、朋子が』
心の中でそっと返した。
『いつか結婚して、子供が出来たら、必ず』
もうポスターのオオカミは、私に語りかけはしなかった。
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