089:煙突の中の男
「アタッ」
ドサ、バキ。ついでに、ゴン。したたかに尻を打った。
もうもうと舞い散る埃で目の前はまさに灰色。
細かい灰に涙が出る。息が、出来ない。
最悪だ。
助手じゃない初仕事。最初からこれなんて、ツイてない。
あーあ、何て言い訳しよう。
普段からの仏頂面をさらにムッと唇を引いて、何も言わずに背を向ける頑固な親方が思い浮かぶ。
落ち着いて来た灰の向こう、遙か彼方に口が見える。
下は見たくない。見なきゃだけど、見たくない。あともう少し、もうちょっと。完全に晴れるまで。現実を、知りたくない。
……まき散らした埃の掃除も、全て俺の仕事だから。
「……あなた、サンタさん?」
「へ?」
思いもよらぬ方向から、舌足らずな声が飛んできた。
涙が流れて灰が張り付く目を瞬き、声を捜して顔を廻らす。
まだ灰色の視界の先に、小さな影が見えた。
「煙突から落ちてきたんだもの。サンタさんよね?」
「いや、俺は……」
ようやく落ち着いてきた灰の向こう。距離をとって、なのに好奇心むき出しの爛々と輝く目が、そこにはあった。
きらきらと輝く金の巻き毛。暗所に慣れた俺の目にも、異常さが際立つ青白い肌。柔らかそうな、フリルのネグリジェ。
この部屋の住人と思しき少女が、期待のこもった目で俺を見ていた。
「あら、おじいさんじゃないのね。それにまだ、クリスマスまではずいぶんあるわ」
「あの、俺は……」
「あぁ、わかった! あなた、サンタさんの見習いね!」
「え」
少女は一歩、近づいた。散らかりまくった灰に臆することなく。ネグリジェのすそがたちまち黒く汚れていくのとは正反対に、その目はより一層輝いて。
近づき、座り込み、落ちた姿勢のままの俺を上目遣いでのぞき込む。
「アタリでしょう!?」
「……うん。じいちゃんのあとを継ぐのに、練習していたんだ。……失敗しちゃったけどね」
少女のきらきらした目に、本当のことは言えなかった。
家人に少女が連れて行かれたあとで、親方にきっちり叱られて、部屋の掃除もさせられた。
掃除が終わるまでに日はとっぷり暮れてしまったけれど、その日もう一度少女に会うことは出来なかった。
年に一回の煙突掃除。一年分の経験を積んだ俺は、もう、落ちることはなかった。
少女のことを思い出したのは、四年も経った頃だったろうか。
ウワサを聞いた。
丘の上のお屋敷のお嬢さんは、療養所へ行くのを拒否していると。
肺が弱く、何年も寝たきりに近い状態で、これ以上回復の望みは無くて、もっと空気の綺麗な場所へ行かなければならないのに、と。
その年の夏の終わり、俺は親方に頼み込んで、屋敷の仕事を回してもらった。
落ちない掃除もお手の物で、埃を立てずに降りるくらい、もう何でもないことだった。
トナカイの橇さえ有れば、サンタクロースくらい、俺にだって出来るだろう、そう思えるくらいは経験を積んだと思う。
降りる必要も無かったけど、そして、見つかったら叱られるだろうから、本当に賭けだったけど、すっかり掃除を終えたあとで、そっと暖炉まで降りてみた。
子供の頃には周りを見回す余裕も有った焚き口だったが、もう、俺にはかなり小さかった。絵本の通りのサンタクロースじゃ、とてもじゃないけど、プレゼントなんて配れない。
それどころか、クリスマスなんて冬の最中。焚き口にもし火が入っていたら……。
そんなことを考えるなんて、俺はどうかしているだろうか?
とすんと、軽い音と共に、肺の上へ足がついた。かがんでちょいと覗いた部屋は、まさかとは思っていたけど、記憶の片隅と寸分違わぬものだった。
鮮やかな赤いカーペット、暖炉の前のロッキングチェアと大きなクマのぬいぐるみ。片隅に置かれたデスクの上には、さすがに絵本はなさそうだったが、……まだ、彼女の部屋だと直感した。
そして、奥にしつらえられた、でっかいベッド。金の巻き毛を絵から抜け出たばかりの天使のように輝かせて、果たして彼女はそこにいた。
同じまなざしを、ほっそりと大人びた容姿に乗せて、俺へ向ける。
「……ひさしぶり」
「見習いのサンタさん……」
こわばった表情が、ふと、緩んだ。
親方が待ってるから、少女の家人がいるから、そんなにゆっくりしているわけにはいかなかった。
それでも、ガウンを羽織った少女は……もう、少女と呼ぶには綺麗になりすぎていたけれど……変わらぬ青白い顔と、折れそうな手足のまま、暖炉へ近寄ってきた。
それだけで弾む息が痛々しい。
彼女は荒い息のまま、僅かに頬を上気させ、懸命に話す。俺はそれをただ頷いて聞いていた。
彼女が胸を押さえて、倒れるまで。
単なる煙突掃除の俺が、お嬢さんの部屋に居るわけにはいかない。
少女をベッドへ寝かせ、暖炉の中から大声を出すと、俺は一目散に退散した。
ドアの開閉する音が、煙突の中にまで聞こえてきた。
クリスマスの時期には、俺たちには仕事など無くて、弟子は皆家へ帰されるのが常だった。俺は孤児で、帰る家など無かったから、親方の元に留まっていた。
今年もそう。親方と二人で過ごすクリスマスは、ケーキもツリーも蝋燭もプレゼントもなくて、質素なものだったけど、ソレを不満に思う歳でもなかった。
いつも通りの夕食を終え片付けている俺に、何を思ったのか、親方が小さなコインを渡してきた。
疑問は顔に出ていたのだろう。低いぼそぼそした声で、親方は言った。
「……サンタクロースが手ぶらで行くもんじゃねぇ」
「親方……」
一〇セントコインを俺の手の中に押しつけると、そのまま親方は寝室へ入っていってしまった。
きゅっと握りしめたコインは、どこか、温かかった。
思った通り、雪も降り出すほどの寒い夜だというのに、少女の部屋に続く暖炉には火がなかった。
パーティでもやっているのかと思えなくもなかったが……あの少女の様子で、会食やパーティなど出来るはずがないとどこかで思ってもいた。
逆にそれならば、俺の出番など無いはずで、多分その方がずっと良いことなのだ。だから、降りた先が無人でも、別にそれはそれで良かったのだ。
期待は、裏切られた。良い方なのか悪い方なのか、俺には判らない。
ほっとした半面、やはりと残念にも思った。
そして彼女は、待ちかまえていたとでもいうかのように、ガウンを羽織ったままの格好で、冷たい暖炉の前に座っていた。
「一人前になったのね」
笑顔が痛々しかった。……秋に見たときよりずっと、頬が細くなっていた。
「ようやく、ね」
俺も笑い返した。……笑い返す以外に、何ができるだろう?
「プレゼント、あなたから欲しかったの」
「それは、待たせてしまったかな」
「ううん……」
ゆるく首を降る彼女に、そっと俺はプレゼントを差し出した。
淡い蝋燭の光の中で、彼女はそれに見入っている。少しだけ、首をかしげながら。
「俺は、一人前になったから。君が応援してくれたから。……だから、一年間良い子だった子供に、プレゼントを配るんだ」
彼女はふと顔を上げた。……哀しそうに、見えた。
「……君も、一人前にならないと」
「え……」
「じゃね……また、来年」
「サンタさん!」
俺の『声』は届いたろうか。届けばいい。そう願いながら、煙突を昇った。
一〇セントコインで、街の絵はがきを買った。
彼女だって、判っているはずだと思うから。
サンタは子供の元にしか現れない。わがままを言えるのは子供の特権だから。
丘の上の屋敷のお嬢さんが、療養に出たと、花が咲く頃になってウワサを聞いた。
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