088:月下美人と醜いコウモリ

 今夜も大きな月が出る。


 ロウウィは月の出と共にふわりと地面に降り立った。

 黒い頭、黒い服、浅黒い肌は、夜の闇夜に容易に溶ける。太っていく月の光をあびてさえ、浮き立つどころから一層影に沈んでしまう。

 黒い姿は嫌いではなかった。彼らの種族にしてみればそれは当たり前のものだったし、それを生業に利用してさえいた。生まれつきばかりではなく、縦横無尽に不自由なく行き来出来る体は便利で。同じく黒い、父も母も友人達もみんなみんな大好きだった。日の下に出るには適さないと知っていたけれど、闇の中で生きて行くには十分すぎるものだった。けれど。最近、少しだけ違う事を思うようになった。

 彼女は、しらじらと冷たい月の光の下にすくりと立ち、いつも遠くを眺めていた。


 早く帰らないといけない。日の下に出る事は固く禁じられていたから、猶予はあまりない。頭の隅で分かっていても、ロウウィは、仲間から一人離れた。身軽く離れて、気まぐれでも起こした風を装って、けれど、先を急ぐ。

「日の出までは帰りなさいよ」

 母の溜息に似た声を背後に聞いて、振り返らずに頷いた。振り返っている時間も惜しかった。

 『帰り道』を外れて一キロメートルほどだろうか。それこそ気まぐれを起こしてさまよった先に、彼女はいた。あの日と同じように、あの日より遙かに太った月を見上げて、真白い肌を夜気にさらして、ただ月を眺めていた。

「こんばんは」

 声を掛けると、僅かに顔を向けた。儚く笑むと、また月へ戻してしまう。

 ロウウィは……もう何度もそんな仕草をされたからいい加減馴れてしまって……素早く彼女の前に回り込んだ。前と言っても、視界を遮るのではなく、視界の隅の……暗がりの中へ。

「今日は月がキレイだね」

「……もうすぐだわ」

 花の露が零れるような可憐でか細い声だった。ロウウィは一言一区……いや、その一音も逃さぬように耳をすました。

「月が天を統べるとき、私は私になるの……」

 謳うように、夢見るように、彼女は紡ぐ。白い壊れそうな……日に日に美しさを増していく面に淡い笑みをのせて。

「キミはキミになるの? 今だってキミはキミじゃないの」

「……貴方には、分からないわ」

 うっとりと呟くそれは、拒絶の言葉。

「言ってみてよ、分かるかも知れないじゃないか!」

 じれったくて飛び出たロウウィを……月を遮る黒い姿を、彼女の目は映してはいなかった。


「朝までには帰る」

 それでもロウウィは、彼女の元を訪れる事を辞める事はできなかった。

 月が太って行くに連れ、彼女の面からは幼さがはがれ落ちるように消え、儚い陶器のような頬はその白さを増していった。

 すっかり定位置となった暗がりに潜り込んだロウウィは今日もそっと彼女を見上げた。

 月は明日、満月を迎える。夏も盛りで、彼女を彩る数多の緑も、鮮やかに……けれど控えめに、彼女の背後に控えていた。

 ……ごくりとつばを飲み込んだ。しらじらとした月の中にたたずむ彼女は、肌を彩るあでやかな衣装に身を包み、白銀の髪を柔らかい風に揺らし、ふれれば壊れてしまいそうなほど、とろりと僅かな笑みを浮かべていた。

 ロウウィは知らず手を伸ばして……。僅かにふれた、そのすべやかな感触に、驚いて慌てて引っ込めた。ふれてはいけないような気がして。

 彼女はそれすら気付かぬように、無言で月を見上げるばかりだった。

「……ロウウィ。こんなところに」

 はと顔をあげた。彼女の背後に、いつの間にか知った顔が立っていた。彼女とは対照的な黒い髪、浅黒い肌、黒い衣。しまったとロウウィは思った。つけられたのだ。父や母は騙せても、同い年の……婚約者は騙せなかった。

 黒い少女……トゥランは音もなくロウウィの前に立つと、やはりトゥランを見もしない彼女を見上げた。正面から星でも浮かべそうな眼差しを見て僅かにひるんだ……のは一瞬だった。訝しげにしかし、物怖じもせずに真正面から観察すると、やがて鼻で嗤った。

「ロウウィ、夢見るのもいい加減にしなさいよ。帰りましょ」

「トゥラン……」

 ロウウィは緩く首を振った。夜明けまでにはまだ間がある。もう少し、彼女を見ていたかった。

「……明日は遠いのよ。早く帰って休まないと」

「明日……」

 あ、とロウウィは気付いた。明日、満月の夜。……仕事場に着くのは夜更けで、戻ってくるのに精一杯の所だった。……彼女を見るほどの余裕はない。

「僕……」

 行きたくないと、続けるはずの言葉は何もかも分かってるとばかりのトゥランに遮られた。

「だめよ。……会わない方がロウウィのためでもあるわ」

 さあ帰りましょうと、トゥランは暗がりに沈んだロウウィの腕を取った。

 一歩二歩と歩き出し、されるままに足を踏み出したロウウィは……いやだと、心の中で呟いた。

「ロウウィ?」

「……何で?」

「え?」

「僕のためって、なんで!?」

「……ロウウィ」

 当惑ですらなかった。真剣に見返したロウウィを哀れむようにのぞき込むと、トゥランはそっと抱きよせた。

「忘れてしまった方がいいのよ。どんなに真剣になっても、私たちに彼女は救えない」

「……そんなんじゃないっ」

 救おうなんて、ロウウィは思っていたワケじゃない。救いが必要だとも考えた事すらない。ただ、ただ、ロウウィは彼女の……昇華していく彼女を見つめていたいだけなのに。

 生きる世界が違う事など、言われるまでもない。彼女が彼女に似合いの男を待っているだけだったとしても、構わない。だから……。

 どん、と、ロウウィは戒めを振りほどいた。そして……駆けた。

 ねぐらとは逆の方向へ……明日の彼女を手に入れるために。

「……ばかっ!」

 一人残ったトゥランはきゅっと唇を噛むと、彼女を一別してくるりと背を向けた。


 仲間はきっと、仕事をしているはずだ。トゥランだって、ついていったろう。

 日が落ちると同時に登りはじめた月の光の中で、彼女は祈るように指を組んで……息をのむほどの冴えた美しさを増しているようだった。

 月のない夜から見続けているロウウィにはわかった。分かってしまった。今夜がそのとき。……待ち人が来たるとき。

 きっと、彼女と似合いの……抜けるほども白い肌の背のたかい、紳士なのだろう。月の光の中でも栄える、夢の中の住人。ロウウィには思いも及ばない場所からやってくる、至上の国への案内人……。

 どこからくるのか。まさか闇を漕いでは来るまい。月の光に乗ってくるのだろうか。風に運ばれてくるのだろうか。ロウウィはあたりを見回す。……彼女を迎えるのなら、それくらいで似つかわしい。


 けれど、迎えは現れなかった。


「ロウウィ、帰ろう?」

 もう、明るくなり始めていた。彼女は儚い笑みのまま、力無く月の行き先を見守っていた。

 ロウウィは一つ頷くと、トゥランの横に並んだ。


 無力さに、一つ涙をこぼした。


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