087:二又フォークの先で
サリーエバンスは自分の早寝早起きの習慣を呪った。
健康過ぎると地元の医者に評された、痲酔も効かない丈夫さを呪った。
もしくは、学校の友人にもつきあい始めたばかりの彼氏にも親にも教師にも隣家のオジサンにも町内会長にも国会議員にも神父にも司祭にも枢機卿にもうぬぼれと言われたとしても、自慢して止まないこの美貌を。
――だって、それが無ければ。アタシはこんなとこでこんなことに頭を悩ませたりしてはいなかったはずで。
一方で、どうしてこうなったのかも、映画フィルムを逆回転させるがごとく考えていた。
――寝たのはホテルの部屋だったはずだ。硬い枕に寝付くまで難儀した。
――ホテルへ行ったのは旅行だった。ひとり旅で、送迎バスと電車と路線バスだった。
――ホテルは選べなかった。選べるほど数が無かった。
――旅行を決めたのは三週間前、未婚女性用ひとり旅スペシャルプランだった。
――安かったのだ。凄まじく安くて、凄まじくいいプランだった。そう、騙されているのかと思うような。
サリーエバンスは薄く唇を噛んだ。目は真正面を捉えたまま、指先で感触を辿る。
視界の片隅にある衣服は、旅行用の薄くて軽い布地ではなく、手首には重く冷たい感触があった。指で辿るのは、太い金属。足を僅か動かせば、じゃらりと重く音がする。
呪うこと、何故を考えるのも飽きてくると、何とかしなければとサリーエバンスは思った。
目の前に立つ奇妙に質量を感じる影の紅い点を睨みながら、甘く絡み、ともするとぼぅっとしてしまいそうな匂いを空気に感じながら、体の中へ今にもするりと入り込んで来そうな低く一定のリズムで流れる音を耳にしながら、どうするべきか、何をすべきかを考え始めた。
すべきことは三つだ。死なないこと、脱出すること、やめさせること。
サリーエバンスは死ぬなんてまっぴらだった。長く女子校で暮らしたサリーエバンスに彼氏が出来たのはつい一週間前でこれからやりたいこと、まだまだしたり無いことが山摘みだった。死ぬなんてとんでもない!
同じように、脱出することは必須命題と言えた。ここがどこかなんて、サリーエバンスにはさっぱり分からなかったが、枷をなくして脱出し、大学そばの小さな城に何としても帰り着かねばならなかった。しかも早急に、だ。今日は彼氏が夕飯を食べに来るはずだったから。
だからといって、自分の美貌を恨んだからといって、他の人と替われれば文句がないかと言えば、そうでもない。いくらそれが赤の他人だったとしても、自分の代わりにどうにかなるなど寝覚めのいいものでもない。もしサリーエバンスが知らない間に行われることで、サリーエバンスの知らない人が犠牲になると言うのであれば、決して博愛主義ではなかったから構わないと言えたかも知れないが、今はもう知ってしまったのである。
どうするべきだろう。サリーエバンスは必死で考えていた。
「どうしてアタシを食べるの?」
ぎらりと光ったように輝きを増した赤に、衣装のしたで汗をかきながらサリーエバンスは聞いた。
しなければならない三つのことを実現する為にはさらに細かいSTEPがあり、どれも道具がなかったり、サリーエバンスに超能力などないことで、達成するために手段を選ぶことなど出来そうになかった。
こんな状態であっても出来ることと言えば声を出すくらいで、こいつに言葉が通じるものか大変怪しいことではあったが、試してみないわけにはいかなかった。
「どうして食べなくてはイケナイの?」
一つ目の賭は成功といえるかもしれない。
確かにそれの注意がサリーエバンスに向いているのを、目で、肌で、鼻で、耳で感じ取っていた。
これは言葉を解すのだ。実は音を発するモノがサリーエバンスしかなかったから、注意深く観察しているだけかも知れないが、最悪のシナリオを選ばずには済んだらしい。
すなわち、言葉も届かず、したがって説得することも出来ないという状態からのシナリオだ。
サリーエバンズは言葉を続けた。
「あなたからみて私ってば美味しいの? 添加物を毎日摂取して、安いウシみたいに、増殖することだけを考えて、ぶよぶよの肉に、張りのない肌。そんなんでも美味しそう?」
言葉を発しながら、サリーエバンスは注意深くそれを観察していた。それの一挙手一投足を一片たりとも見逃すまいと。
どんなKeyがそいつには不利で、関係者には有利に働くのかと。
「いい、今時汚れなき乙女なんて存在しないの。服でごまかされたって無駄だからね。添加物で栄養バランスは崩れて、一〇歳台の若い肌も紫外線でぼろぼろ。四〇待たずに更年期が始まって、病魔と闘いながら残りの数十年を生き続ける。いい、添加物はね、身体のの中に残るのよ。いつか表面に出る時を伺いながら、じーっとじーっと時を待つの。食べたが最後、もう逃れることはできないのよ。影響はね、十年も二十年も経ってから出てくる。あなた、それが耐えられる?」
口から先に生まれたと評されたら甘んじて受け止めただろう。それくらい必死でサリーエバンスは言葉をつむいだ。
じっと見続けた目の先で、赤が揺らいだように、見えた。
意味がわかっているように、見えた。
サリーエバンスはさらに言葉を続けた。出来ることを必死で、掴んだ。
「もっと美味しいモノを食べたいんじゃない? 好みに個人差があったっておかしくないわ。ね、そう思わない? 綺麗にお皿に並べられた大して美味しくもない食材と、探して探して探し当てた極上の食材のどっちが好き? そもそも捧げられたからといって、そのものが好みかどうかは別問題だわ。それに必ず応じなくてはイケナイの? そんな不自由な暮らしをあなたは望んでいるわけ? だとしたら……」
これはいけると、サリーエバンスは確信した。
言葉の度に赤は揺らぎ、どっしりとした黒い影が……僅かな風にゆらいでいるように見えた。
「だとしたら、がっかりだわ。たかだか人間の言いなりになるしかない、悪魔なんて!」
ぐわりと風が起こった。たまらずサリーエバンスは瞳を閉じた。
三年前から伸ばし続けていた髪が激しく風に巻かれた。
ヒダの多い純白のドレスのすそが嬲られはためき邪魔くさい。
最後に、ガンと音がして、風は止んだ。
おそるおそる目を開けたサリーエバンスの前で、部屋の様相は一変していた。
深くえぐれた何本もの爪痕にずたずたにされた魔法陣。
一部が崩れ、登り始めた日から差し込む今日の光。
大きく倒れ、傾ぎ、一本として役割を果たしていない四隅の松明。
そして、倒れ伏せる、中肉中背の人影が四つ。
「……勝ったの、かな?」
両手両足にはまったままの枷を眺めて、サリーエバンスは喜んでいいものかどうか真剣に悩んだ。
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