086:クィーン・パール

 思い切り息を吸い込み、浮かぶ体を反転させる。どぷりと耳に重い音を感じると、一気に静寂が訪れる。

 腕をかく。すいと沈んだ体に、水面を潜った足ひれで大きく水を蹴る。所々に海草が繁茂する底を目指す。

 ごつごつした岩のスキマに目をこらす。岩のように見えるそれを、知識と経験と勘で見分けて引きはがす。

 すいと過ぎるのは小魚の群れ、時折かすめるのはエイの仲間。逃げることもなく、襲い来ることもない。ここでは私は単なる来訪者。彼等を傷つける存在ではないことを、彼等もまた知っているのだ。

 一つ。また一つ。三つ抱えて諦める。諦めて、水面を目指す。きらきら光る、まるで天上が底にあるかのような水面を。

 ぷはっ。大きく口を開く。獲った貝を生け簀へ投げ入れ、私はゆっくりと手を挙げた。

 穏やかな波はゆりかごのようだ。生け簀と一緒に漂わせていた浮き輪に掴まり力を抜くと、子守歌でも聴きたい気分になる。

 このままたゆたうのも悪くないかも知れない。一日の仕事の終盤になると、私はいつもそんなことを思う。

 出来るわけがないのに。

 ふと、生け簀に目をやった。

 中で積み重なる貝を見、自分の手と比べ、生け簀のサイズと比べ、思わずため息が漏れた。

 間違ったわけじゃない。狙った種類の貝ばかりだ。初等教育を終え、城に上がって早七年。姐さん達に教え込まれた通りに、獲ることが出来るようになっている。

 小さい。

 もちろん、真珠のサイズは貝の大きさだけに依存するものじゃない。異物を飲み込み、何年かけて真珠を作ったか

にだって依存する。開けてみなけりゃわからない。

 けれど、貝以上にはならないわけで。

 小さいのだ。

「おつかれ」

 データがのばしてきた手を借りる。三つも年下なのに、ディータは難なくミヤをボートに引き上げる。ミヤは釣られた魚のようにボートへ乗り込む。

 乗り込んでだるい体をそのままにミヤは空を見上げる。雲一つ無い空はうっすら赤味を帯び始めている。

 今日が終わる。

「ダメだったみたい?」

 生け簀をたぐりボートに括り、ディータはゆっくりと船を繰る。オールが水を掻く音が静かにミヤまで届いてくる。

「ん……」

 小さくミヤは頷いた。


 七色に輝く巨大なパール。数代前の女王が所有していたというその真珠は、別名をクィーン・パールといった。

 真珠の寿命は数十年であり、当然、それがどんな真珠であるのかなど誰も知らない。ただ七色に輝く巨大な真珠であったと伝わっている。

「今こそ、威厳を現すものが必要なのです」

 直々に賜った女王の言葉に、城に仕える海女たちは頭を垂れるしかなかった。最年長のアオイ婆が畏れ多くもと声を挙げる以外は。

「真珠の産出量は年々減っております。しかも小粒ばかり。伝説のクィーン・パールを探せと申されましても」

 全員が同じ気持ちだった。下から数えて僅か三人目のミヤでさえ。

「……隣国の圧力が年々増していることはあなた達も気付いているでしょう。この真珠を産するしかない小国に打つ手が多くないことも」

 真珠と歴史だけで保っている国だ。ミヤもそれは良く知っている。そして、だからこそ、威厳が必要なのだと女王は語る。海の女神を祭り続けるために、この国がこの国であるために。大地と戦の神に飲み込まれてしまわないように。

 アオイ婆もまた、堅い女王の願いに、頭を深く垂れるしか、なった。


「伝説では、片手に乗り切らないほどのサイズで、しかも真球であったというわね」

「七色なんて、普通の真珠貝で出る色かしら?」

「ね、南の環礁の珠は面白い色をしていると言うわよ?」

 姐さん達は記録をひもときおしゃべりがてらに研究する。

 ミヤも末席に加わりながら、目は書物を滑るばかりだ。

 直径が十センチを超えるようなものならば、貝も相当大きいだろう。この辺りの海域はミヤたち海女が知り尽くしている。そんな貝、あるはずもない。

 では、知らない海域か。……では、どこ?

 それとも本当に、真珠貝ではない貝なのだろうか?

「この真珠を獲ったという女の子はどこの子かしら」

 どういうことか。

 ミヤ達の視線を集めながら、姐さんの一人は言う。

「私たちは国中から集められるわ。この子の出身地の側で、私たちが知らない所にあるんじゃないかしら?」

 それならば、海女達が知らなくても、当然なのではないかと。

「記録と地図を持ってくるわ」

 そして誰かが席を立つ。


 アイディアを丁寧に調べてみると、なんとも奇妙な点があり、海女達は寝るのも忘れて事実と推測と憶測と想像に精をだす。

 ミヤは部屋の片隅で、記憶を必死にたぐり寄せる。

 真珠を見つけた少女の出身地は王都の側で、つまり海女達の本拠地だった。推測が外れたと気落ちする中で、あっと声を挙げたのは引退間近の姐さんの一人だった。

「この年に行方不明になっている子がいるわ。その子と彼女、直前に休暇に出てる」

 その消えた少女の出身地はミヤと同じ村だった。

 ミヤは記憶をまさぐる。村の周辺にそんな場所はあっただろうか。何度も潜った海の中、巨大な真珠貝など。

 もしくは、立入禁止の場所、なんて……?

「あ」

 浮かんだ顔に声が漏れた。

 しまったと思ったときには、注目を浴びていた。

「何を思い出したの!?」

 圧力に逆らうことなど出来るはずもなく。

 幼い頃の苦い思い出を訥々と語る羽目になった。


「で、なんでミヤ一人なわけ」

「村の掟だから。海女は本当は入ってはいけないの」

 姐さん達を説き伏せた。そして代わりに付いてくる羽目になったのは、例の如くディータで。それはミヤの希望でもあった。

 ずっと未来に同じことがあったとしたら、変わった記録を海女達は目にすることになるんだろう。

 ボートは凪いだ面を滑るように進んでいく。ディータの力強い腕が的確にオールを繰る。

 この腕なら、難しいことはないだろう。ミヤを軽々とボートに引き上げる、この腕なら。

「海神様のほこらなの。本当は男の人しか入ってはいけない場所」

「なんで」

「女性が……海女がほこらに行くと、嫁に取られてしまうからって」

 ディータは首を傾げる。

 良くある迷信だ。信心深い村で語り継がれ守られ続ける迷信に過ぎない。

 そう、思っていた。

「姉がいたの」

「うん?」

 ディータは首を傾げてくる。波音だけが耳に届く。

 静かだ。……あのときと同じ。

「姉が就学して間もなく、二人で探検に来たの。お姉ちゃんはもう大きいから、大丈夫だよ、なんて言って」

 背伸びしたい子供の浅はかな「大きい」だ。

 こっそりこぎ出したボート、交代で漕いでやってきたここ。凪いだ面から覗く海中に魚の一匹もいなくて。

 神域という意味を肌で感じた。高揚する気持ちとは裏腹に、鳥肌が立った。

「あの岩を回るとほこらが見えるの。ほこらの下には見事な一枚岩があるの」

 するりと船が岩を回る。記憶の通りのほこらが。そして。

 あの時、無かったものが。

「……あれ……!」

 声を挙げたのはディータだった、うなずき、ミヤは上着を脱ぐ。

 ざん、小さな波音で海中の人となったミヤは、それへ近寄り、大切に抱え上げる。

 ……子供ほどの大きさの真珠貝。

「それ……!」

 でも、小さい。多分、『クィーン・パール』には、足りない。

 貝をボートへ挙げ、ディータを見上げる。手を伸ばしてきたディータの腕を掴み。

 唇を奪った。

 手を離す。ボートから離れ、ディータへ叫ぶ。

「十日後にもう一度、一人で来て。絶対一人で来て。パールを獲って」

 ぽかん、ミヤを追っていたディータの視線が険しくなる。

 慌ててオールを取り、近寄ってくる。

 ミヤは、逃げるように泳ぐ。そして、水面を蹴った。

「ミ……」

 ディータの声がとぎれ、慣れた静寂の中へ沈んでいく。どこまでもどこまでも。底など無いかのようなほこらの下を潜っていく。

 不思議と苦しくはなかった。それはもう、海神へ嫁いだ証拠であるのかも知れない。

 だからきっと、海神の嫁(クィーン・パール)になる。


 海女でもないものがそれを持ってきたことに城の一部は騒ぎになった。しかし、功績の前に不問となり、何事もなかったかのように海女連に褒美の話が持ち上がった。

 海女達としては彼にも相当分を渡すつもりでいた。なんと言っても一番の功績者であったから。しかし、彼はかたくなに拒み、やがていずこかへと去っていった。

 女王の元からは海女が一人と手伝いの少年が一人消え、直径五センチの小振りながら見事なクィーン・パールと、伝説を超える直径二十センチにもなる見事なクィーン・パールが残された。



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