085:恋は雨の下で
「でかい傘で道ふさいでんじゃねーよ」
傘に、言われた。
いや、傘しかないと思ったその下に、挑戦的な目があった。
「邪魔」
「え、あ……」
俺がなにか言う前に、小さな傘が俺の胸元を過ぎて行く。その目と同様、挑戦的な真っ赤な傘。奪われるように追ってしまったその先で、いらつくように一度ふるえるとぱたんと閉じられてしまった。
豪雨ではないにしろ、本降りの雨の中。路地の出口の信号待ち。消えた傘の代わりに現れた小柄なボブカットは、見る間に肩をぬらしながら傘と傘の間を縫っていく。
怒鳴られたサイズに見合うはずの俺の視界は、すぐに元通りカラーパレットのようになってしまった。
『とおりゃんせ』が聞こえはじめてパレットが揺れはじめると、パレットから黒い染みが抜け出ていくところだった。
突然降り出した雨に駆けだした俺は、ようやく見つけた軒先に飛び込んだ。俺の背中をめがけて来たかのような雨音が、さらに大きくなる。間一髪。逃げ切った。
降りしきる大粒の水滴は地面に落ちてもなお跳ね返る。少し時間をつぶそうと振り返った先は花屋だった。大きな軒も道理で、花を陽射しから守るためのもの。軒の守りの届かない道路際には、雫に負けてうなだれる幾つもの鉢植えがあった。
「いきなりかよっ!」
聞いた声だと思った。太陽もすっかり厚い雲の向こうになりをひそめ薄暗くなった表とは対照的に、さわやかな自然色の蛍光を備えた店内から、黒い小さな影が飛び出して来た。
俺の前を弾丸のように過ぎると、ためらう素振りもなく雨を、跳ね返りをあびた鉢植えを抱えた。かけ声と共に抱え上げ、まず軒先に、そして店内へと、鉢植えを抱えあげて往復する。
「……邪魔。店に用がないなら、あっち行って」
「あ……」
睨め付けるようなあの目だった。
俺はそそくさと、場所を譲った。ギリギリ軒に入る部分まで後退する。
「ごめんなさい……」
俺の声なんて聞こえもしていないのかもしれない。一抱えもある鉢を、いくつも段を組んだ棚を、濡れながら、抱え上げ、移動する。
すっかり道沿いの鉢植えが移動し終わる頃、弾丸はずぶぬれに、そして雨は細く弱くなりはじめていた。
俺は軒を出た。気合いを込めて視線を戻して、歩きはじめる。
黒い弾丸が目に焼き付いていた。
その日も突然の雨だった。
貫徹麻雀朝帰りの俺は前日の雨の名残で、腰ほどの長さになる邪魔な荷物を提げていた。電車を降りて、邪魔な荷物がこの上もない宝物に思えて、しょぼしょぼした目を手元に向けたとき、弾丸が過ぎていった。人の少ない駅前を、定められた通りまっすぐ標的に突入するように。一瞬だけ伺うように空を見ると、ためらうこともなく濡れた地面に足を出しそのまま小走りに駆け出した。
「あ、ねぇ!」
弾丸が、振り返った。挑戦的な目にどこか怪訝そうな色を浮かべながら。
ごくりと息をのみこんだ。いや、気圧されている場合ではない。
「……花屋でしょ? 俺んち、その先だから……」
邪魔者扱いされる大きな傘を差しだした。
「助かったわ」
にっと、わらった。ともすると置いていかれそうな早足で、信号を過ぎ、商店街へ入っていく。
「店長に叱られるところだった」
でかい傘だったけど、人の多い商店街でも、今日はさほど気にならなかった。すいすい抜けていくスピードが、心地よいのかも知れない。
「アタシは濡れたって、気にならないんだけどね」
「……うん」
花屋は商店街を過ぎた先にあった。駅からたかが百数十メートル。走ると少し濡れてしまう。傘があれば、気にもならない。そんな距離だ。ほんの数分でたどり着く、そんな、距離だ。
「さんきゅ」
そして彼女は、明るい花でむせかえるショーケースの向こうへ消えていった。
傘を差して歩道を歩くときには、道路側に寄る癖がついた。車の跳ね返りを気にするような格好はしたことがなかったし、のんびり歩いていても急ぐ人は壁側を心持ち低くして抜けていったから、多少ぬれてもまぁいいかと思えた。
曇天の下、ついに落ち始めた粒に、友人にすら邪魔扱いされる傘を広げた。まだかろうじてぱたぱたと聞こえる背後からの足音が、すいとすり抜け越していく。
挑戦的な、真っ赤な、傘。
「あ……!」
ぱたっと止まった傘が、ほんのすこし、傾いた。
「大きい傘も、いいね」
挑戦的な目が、傘よりも鮮やかな花のように、咲いた。
再び走り出した赤い傘を、いつまでも見送っていた。
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