084:薄命人形

「ねぇ、君」

 若い男の声で、ナリコはすっかり遊んでいた足をとめた。横を過ぎる茶髪のキツイ男が、恥ずかしいくらいの髪飾りをちりばめた女を腕にぶら下げながら、迷惑そうに一瞥して過ぎていった。

 ナリコを呼び止めた男は、腕を取ると邪魔そうな幾つもの視線を全く気にせずに、歩道の脇に寄った。ナリコが疑問を顔に出すより早く、男は厚紙を差し出して見せた。

「芸能界に興味はない?」


 ファンレターと同じだけ、嫌がらせの手紙がある。段ボール箱いっぱいの手紙を横目で見ながら、ナリコは社長室へ向かった。後ではマネージャーが、事務員を総動員し『危険』な手紙を除けるように指示をした。

 ナリコはざっと事務所の中を見回した。事務机ばかりが並ぶ乱雑な部屋の中、あの男の姿はなく、目に付くのは後輩の華やかなポスターばかりだった。一年前には分厚い化粧と恥ずかしい衣装で着飾ったナリコのポスターばかりだった。その前、ナリコが初めて事務所を訪れた時には先輩のポスターばかりで、その先輩の姿は、もうどこにもない。

 ち。知らず舌打ちが漏れる。どこか既視感のある後輩のポスターは神経をいらだたせた。新譜の箱に貼られた申し訳程度のビラの笑顔にとても似合わない仕草だった。ナリコちゃん――たしなめようとしているようなマネージャーの声が聞こえる。ようやく見慣れてきたばかりの分厚いメガネを見る気にもなれずに。社長室の扉へ向かった。

 ノックはマネージャーの仕事だった。向き合ったナリコの脇をすり抜けるように扉に近寄ると、素早く叩いて返答を待つ。死刑宣告を待つように、ナリコよりも細い肩を背広の中で懸命に縮めている。

「どうぞ」

「失礼します!」

 裏返りかけて断ると、二度ノブを掴み損ないながら重々しい扉を引き開けた。いきなりカサを増した絨毯に足を取られよろけながら進むマネージャーの後から、ナリコは足を遊ばせながら、社長室へ入った。


 かっこいい男だと思った。地味ながら髪型も服装も多分流行のもので、ナリコを力強く引っ張る腕も、確信を持って語る口調も、頼もしく思えた。

 遊びながら歩くクセを良くないと言われて、懸命に直した。笑顔の方が良いと言われて、どんなときも笑うように気をつけた。分厚い化粧も、思いカツラも、ふりふりの衣装もナリコの趣味とはほど遠かったけど、大丈夫だと確信を持って言われると何でも我慢できた。


「あぁ、ナリコ君か。待っていたよ」

「あの、社長、ナリコは……」

 社長は背が高かった。女性の標準身長しかないナリコはいつも見下ろされた。男性の平均身長に届かないひょろひょろのマネージャーも同様どころか、さらに頭を低くしてさえいた。

 ナリコは上目遣いで社長を睨め付けた。ナリコの視線を受けても、動じないのが悔しくて、一層力を込めた。

 マネージャーは何も言わない。けれど、ナリコにだって呼ばれた理由くらい察しが付いていた。けれどその理由で恥じることも、頭を下げる必要もないと思っていた。だから、堂々としていようと思っていた。こうすれば良いという声がないから、ナリコ自身の方法で。

「大谷君もわかっているだろう。原因などはどうでも良い。大切なのは実績だよ」

「しかし、昨年のレコード大賞の……」

「過去は利益を生まない。そんなこと、君だってよく知っているだろう」

「けれど、時間が経てば……」

「我々は慈善事業を行っているわけじゃない。今日、明日、明後日……時間にかかるコストというモノを考えたことがあるかね?」

 途中からばかばかしくなった。社長の背後には人を飲み込みはき出す大都会が広がっていた。視線を僅かに下にずらせば、巨大な電光掲示板。文字が生まれては輝き流れて消えていく。……ナリコのように。

 クチの端で笑うナリコを知ってか知らずか、掲示板は語っていた。『……井ナリコ盗作疑惑に、渦中の作詞家花森……』

 ナリコは作詞などしたことがない。毎回ナリコの名前で発表される詩の一文字も、ナリコが考えたモノではない。

 ナリコはあの声の通りに、笑い、歌い、演技してきた。それだけだった。


 『声』が消えたのは、半年前のことだった。


 なおも食い下がるマネージャーに、社長の声は冷たかった。

 決まり切った結論内容など聞く気も起きず、もう社長を睨み付けるもの疲れていた。

 電光掲示板は画面を二つに割っていた。文字が流れる狭い部分と、大写しのナリコの姿。雪のように白くなめらかに造られた自分の頬に、母親の人形を思い出した。……セルロイド人形といったか。

 思い出した人形から、遠い実家を連想した。

 紙片を片手に真っ直ぐ帰った実家で、母親は泣いた。父親はむっつりだまりこんだ。ナリコは頷かない両親の住む家を、スポーツバッグ片手に飛び出した。

 あの人形は何処にあっただろうか。母親は非常に大事にしていた。寝室の奥のタンスの上、ショーケースの中だったか。

 小さなナリコは寝室に忍び込むたび、手の届かない人形を眺めていた。人々が時折足を止めて見上げる、電光掲示板のナリコの写真のように。

 いつもいつも見上げていて、そして。

 あ、と。小さく声を上げた。

「悪いけど契約を打ち切らせて貰うよ」

 人形を傷つけたのは、ナリコ自身だった。


 頬に入る一筋のヒビ。けれど決定的なそれのために、人形は家から姿を消した。

 まだ小さかったナリコは行方を知らない。

 ……あの男が、ナリコの今後を知らないように。


 人形はいつか捨てられる。たくさんの人形に囲まれていれば、尚更。

 人形には替えがある。より価値の高いモノに、変えていけばいい。


「……ナリコちゃん」

 マネージャーは懸命に目を見開いて、ナリコを真正面から見つめた。

 ドアを一歩出れば空気は冷たく、ナリコはコートの前を掛け合わせた。

「僕も会社を辞めるよ。……君がココでつぶれるなんて勿体ない」

「……マネージャー?」

 こんなにはっきりしゃべるのを聞いたのは、初めてだったのではないだろうか。ナリコはうろんに、見返した。

「……僕は、その表情の方が好きだよ」

「え?」

「人形じゃないんだからね」


 ゴミ捨て場のあの人形を拾い上げる人影が合ったことを、思い出した。


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