078:材料はトカゲのしっぽ

 グーディ・モールは三日三晩かかった儀式のあとで、丸一日ベッドの中から抜け出せずにいた。それこそ、飼い猫の黒猫マールがおなかを空かせてねだりに来ても動けないほど疲れ果ててしまっていた。グーディ・モールがようやく目を覚ます頃には、マールは空腹に耐えきれずに、猫の習性で持って自分の食事を調達し始めていた。つまり、ネズミや、トカゲや、虫や、高望みではあったが空飛ぶ鳥などを狙って活動を始めたのだ。

 結果、目を覚ましたグーディ・モールの枕元には、「偉いでしょ?」とばかりに狩りの成果が置かれることとなった。マールがおなかいっぱいになったが故にグーディ・モールへおみやげにされたネズミの死骸や、取り損ねたトカゲのマールの目の前に残ったであろうしっぽ等。

 思わず悲鳴を上げたグーディ・モールではあったが、魔を司る物の端くれであると気を取り直し、使い魔マールのしでかしたことでもあるしと、しばしネズミの死骸とトカゲのしっぽを眺めたグーディ・モールは、空腹も忘れて大地震でもあったあとのような書物の山をあさり始めた。

 やがて、今にも背がとれてバラバラになりそうな魔術書を引っ張り出すと、改めてネズミの死骸とトカゲのしっぽを眺めやる。そして、

「実験にはちょうど良いかしら」

 一人つぶやいた。


 *


 ペリオットの村は今日も静かだった。四方を山に囲まれ村を分断する川は水かさも多く、季節の切れ目の氾濫すら、畑に良土をもたらす恵みと言えた。雪解けを迎え水量も落ち着いた今は、山々の新緑が目にまぶしく、畑を見れば麦の新芽が生えそろい、良い季節を迎えようとしていた。

 村で唯一の猟師の家の息子ライアーも、冬の間通った学校の友人たちにしばらくの別れを告げる季節となった。父親について野山を駆け回る間は、里の子供たちと一緒に学んだり、遊んだりすることはできない。子鹿の皮や子イノシシの皮は高く売れる。狩れる季節は限定されているから、季節とともに、季節を感じ、狩る対象を変えるのがライアーの父親のやり方だった。

 今年最後の教室に大きな袋を持って訪れたライアーは、教師が入ってくる前のひとときに聞いた話をついに帰るまで忘れることができなかった。教師に最後なんだから身を入れて授業に打ち込みなさいとしかられても、教室に置きっぱなしにしていた本や、鉛筆や、教科書を袋に詰め込む間ですら、そのことを考えていた。

 話とは、村唯一の商人リルキンスが、山を越えて商売をしようと考えているというものだった。

 ライアーは父親について野山を駆けめぐることも多かったが、山を越えたことは一度もなかった。父親も、父親の父親も、そのまた父親も、山を越えない範囲で狩りをし、収入はそれで十分だったとも言える。猟師の家はライアーの家だけだったから、他の獲物が捕られてしまうこともなく、山を越える必要もなかったためだった。山は越えないもの。ライアーはそう、思いこんでいた。

 事の始まりは農地の不足なのだとリルキンスの六人兄弟の末弟ジョーイは言った。川を中心に平たい場所はすべて畑と家に変えてしまって、もっと人口が増えると足りなくなってしまうのだそうだ。だから、村の実力者でもあるリルキンスは、山を越えた向こう側に、新しい村を作ろうと考えたのだという。そして今、一緒に山を越える人たちを村中から集めているのだと。

 ライアーの目から見ても、確かに毎年、山の中腹から見る村は草原が減り、きれいなみどりの波を生む畑に変わっていった。ジョーイの言葉は尤もで、リルキンスの考えはとてもすばらしく思えた。そして。

 山に飽きたわけではなかったが、村に失望したわけでもなかったが、まだ幼さの残るライアーの胸には、まだ知らない風景が、世界が、とても魅力的に思えたのだった。


 大きな荷物を背負って家に帰ったライアーは、父親に早速聞いてみるのだった。

「父さん、リルキンスさんが山を越えた向こうへ行くんだって。僕も行きたい」

 しかし、父親の答えは素っ気なく、否を伝えただけだった。

「どうして。みんな畑が狭くて困っているんだよ」

「父さんも、父さんの父さんも、そのまた父さんも、絶対に山を越えてはいけないと教わってきたんだ。お前にも山を越えないように猟をするように教えたはずだ。リルキンスには思いとどまるよう父さんが忠告してこよう」

 そういうとライアーの父親はすぐに家出て行ってしまった。ライアーを一人残して。

 改めて考えてみると、何でだろうという疑問しか浮かばなかった。狩りをするには山を越える必要はないということと、山を越えてはいけないということは、全く違う事だと思ったのだ。

 父親は猟へ出かける支度をすでにあらかた終えていた。弓とたくさんの矢、罠に大振りのナイフ、そして、何日も山の中で過ごすための最低限の食料。

 ライアーは自分用に用意された袋とナイフを持って、父親が帰ってくる前にそっと家を抜け出した。


 山を越えるのは思ったより簡単で、想像より大変なことだった。なにせ、山でも谷でも峠を目指せばよく、ただ、そこへ至る道は当然ながらなかった。人が通る道があるはずもなく、獣道すら見あたらない始末で、ライアーは幾度も幾度も籔を手でこぐ羽目になった。

 それでも振り返れば、どんどん家は小さくなり、どんどんはたけは遠ざかり、村はずれのライアーと父親の粗末な小屋など、ずいぶん前に木々の合間に埋もれて見えなくなってしまっていた。

 対して上を仰げば空は近く、木々の隙間のその先にも高い青が見える気がして、懸命に籔をこぐのであった。

 家を飛び出したその日は、結局山を越えることができずに暗くなってしまった。リルキンスの説得に成功したかどうかはわからなかったが、帰ってきた父親は仰天したろう。そして、探しているかもしれない。けれど、ライアーは山の向こうを見るまで、山を越えてしまうまで、帰らないと心に決めていた。ちょうど良い枝振りの木の上に荷物を引き上げ、干し肉をかじりながら、薄い毛布をかぶって寝ることにした。

 翌朝は日が出ると同時に歩き始めた。村の南に向かって歩き始めていたライアーは、右手から日が差し込むことを確認しながら、日が向かう方向を見定めて歩く方向を決めていた。

 気温が高くなり、日が真上に来た頃一度休憩した他は歩き続けて、西の稜線に赤い光を残すだけになった頃、ついに、一番高い場所へと上り詰めていた。

 振り返れば、村がもう、マッチ箱に乗るほども小さなおもちゃのように見え、その分青天井がやたらと近く思えた。

 そして目の前には。

 ライアーは息をのんだ。みどりの山が続き、みどり一面の平原が広がっていると思っていた。もしくは、色とりどりの花の咲き誇る、楽園が広がっているのかもしれないと。学校で学んだ巨大な湖『海』があるかもしれないとか、はたまた一面砂だらけかもしれないなどとまで考えていた。


 何もなかった。


 ライアーは目をこすった。汚れた手でこすってちょっと目が痛かったが、潤んだ目でしっかり見た。

 何もないとしかライアーには表現できそうになかった。

 足の下から見晴るかす先まで、白く薄ぼんやりとした何かで世界は埋まっていて、見上げる青天井も視界の先でぷつりと切れてしまっていた。


 何もなかった。

 みどりの山も、花咲く草も、海も、砂漠も、何もなかった。


 呆然とライアーは縁に座り込んだ。怖いと考えるようなものすらそこにはなかった。引き返そうという気力もまだ生まれては来ず、ただ、頭の中まで目の前の景色のように、真っ白になってしまっていた。

「だから駄目だといったろう」

 声にびくりと振り返れば、困ったような顔をした父親が立っていた。ようやく追いついたのだろう。

「父さんは、知っていたの?」

 父親は答えず、ライアーから一歩下がった場所で、白い外を眺めているようだった。見上げるライアーには父親の表情はわからない。

「古い古い伝説がある。もう少しお前が大きくなったら、伝えようと思っていた」

 父親は淡々と言葉を紡いだ。ライアーは腰掛けたまま、白い世界を眺めながら聞いた。

「神は箱の中に庭を造った。山しかないその庭に、ネズミとトカゲで人を作って、住まわせた」

「どうして?」

「伝説は理由を語らない。……帰るぞ」

 父親はくるりと背を向けた。ライアーは名残惜しそうに白い世界を一別し、立ち上がろうとした。

 そして、何かに足下を掬われたと感じ、声を上げるまもなくみどりの箱庭が……見えた。

「父さんっ」

「……みつかってしまったら、それが我々の役目なんだよ」

 小さな父親の声が足下から聞こえたと思ったのが、ライアーの最後の記憶となった。


 村は騒然となった。

 猟師のヤローは山を越えようとした一人息子が消えてしまったとリルキンスに報告した。恐れおののいたリルキンスは、山越えを断念することになった。

 ヤローは新しい妻を娶り、新しい子をもうけた。新しい子の名前も、ライアーだった。


 *


 グーディ・モールは丸一日かかった儀式を終え、疲れ果ててぐっすり寝込んでいた。使い魔の黒猫マールは、はじめこそグーディ・モールの足下でおとなしく寝ていたが、がさごそ鳴り始めた箱に興味をひかれ、とんとベッドから飛び降りた。

 マールの気をひいたのは、大きなテーブルの上に置かれた大きな箱で、普段は机に乗ると叱られるのだが、叱る主人は夢の中であることを一瞥して確認すると、好奇心を抑えきれずとんと机の上に上がった。

 興味深げにじっくり眺め回し、かぎ回った箱の一角から、何かがちょこっとはみ出ていた。マールが好奇心のままちょいと手を出すと、それは簡単にとれてしまった。

 テーブルの上に落ちたそれはまだじたじた動いていて、マールはちょいちょいとつつき続けた。ひょいとテーブルから落ちれば、マールもぴょんとそのまま降りて、動く何かで一人遊びを続けた。

 グーディ・モールが爽快な気分で目覚める頃には、マールは遊びあきてまたグーディ・モールの足下でくるんと丸まって眠っていた。マールが起きるのもかまわず布団を跳ね上げたグーディ・モールは、床にぽとんと落ちているそれに気づいた。

「……あれあれ、しっぽがまた落ちてるよ。マールったら、また箱をつついたんだねぇ」

 グーディ・モールは魔術の解けたトカゲのしっぽをつまみ上げると、箱の中にぽいと戻した。




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