077:月の下の取引き

 今夜は満月だ。もうすぐ、月が昇る。


 田丸幹彦はため息をついてペンを置いた。ノートに張り付いてた眼を上げれば、締めていた無かったカーテンの隙間から丸い月が覗いていた。

 もうそんな時間か。思ってカーテンに手を伸ばす。そう言えば、いつの間にか窓から浸食を始めていた冷気が、部屋の中に満ち始めていた。

 もうすぐ、最後の試験が始まる。試験が終われば、本番は間近だ。あとたかだか二ヶ月余りで岐路を一つすぎることになる。

 カーテンを閉めようと手を伸ばし、小さな影に気付いた。谷にある家の目の前にはバス停があり、坂を登るなら珍しくはない。が、その影は坂を下っていた。こんな時間に珍しいものだと何とはなしに眺めていれば、それが知っている影であることに気付いた。

「小坂……?」

 クラスメイトの小坂郁美に、見えた。

 疑問系になったのは、いくつかの不自然さからだった。まず、長くふわふわと揺れる髪。いつも丁寧に三つ編みを編む彼女にしては珍しい。小学校から彼女を知る幹彦だから、遠目でもかろうじて判ったのだが。次に眼鏡。坂を下りる彼女は眼鏡をかけていない。アレルギーがあるからコンタクトができないのだと、女子集団の中で消え入りそうに話しているのを立ち聞きしたことがあった。さらには服装。大人っぽく華やかなワンピースを身に纏っている。……あんな格好、親戚の結婚式に行くために着せられたんだと、今年の春、たまたま会ったバスの中で恥ずかしそうに話した以来だった。そして最後に、彼女が出歩いている、と言うこと。

「治ったのか? ……いや」

 呟く幹彦の前で、郁美はバス停を通り過ぎる。幹彦は思わず腰を上げ、階下へ走り出していた。……だって、そんな……治るなんて、思えない。浮かぶのは担任教師の沈んだ顔。涙ぐんだ女子軍団。すっかりやつれた幹彦の母親の立ち話仲間である、郁美の母。夏から、入退院を繰り返す郁美自身。

 急性白血病。

 立ち話情報から、今は移植を待つ段階なのだと幹彦は知っていた。……あんな風に出歩けるはずがないのだ。

「幹、どこいくの?」

 足音を聞きつけた母親が居間からひょいと顔を出した。気分転換と言葉少なに言い置いて、幹彦は玄関を出る。


 吐く息が白くなるほどではないものの、外はだいぶ冷えていた。上着を羽織ってくれば良かったと思いつつ、バス停を通り過ぎる。

 郁美の姿は既に見えなかった。しかし、バス停をすぎたとなれば、心当たりはいくつもない。この先にはコンビニすらなく、ただ、公園があるだけだった。公園を一回りして何もなければ帰ろうと幹彦は漠然と思う。……なんとなく気になり飛び出してはきたものの、何のために追ってきたのか判らなかった。郁美を見つけて、どうするつもりだったのだろうか。

 市営の公園は、大きなものだった。いくつもある入り口から遊歩道が伸び、所々に広場もある。中央には噴水のある大きな広場があり、反対側の入り口付近には野球場が設えられていた。幹彦が踏み込んだ遊歩道は、木が左右から生い茂り、月明かりだけでは足元さえもおぼつかない。そう言えば、女性が襲われる事件も少なくなかった。郁美を見つけたら、家まで送っていこうと、クラスメイトで、幼なじみとして、当然の行動だよなと、無理矢理理由を見つけて、少し気が楽になった。

 丸太で作られた段を踏み外さないように走り抜け、ほのかな明るさの中に出る。噴水も止まり、月をうつすかのような静かな水面の脇で、郁美は静かに月を見上げていた。

 ほっと、幹彦は息をついた。周囲にもヘンな気配はない。

「いく……」

「誰?」

「へ?」

 呼ぼうとした声を遮って、郁美は幹彦を正面から見つめていた。『誰』とはご挨拶だ。

「誰、じゃないだろ。……良いのかよ、こんな夜中に」

「ヘンなこというのね。夜中だからじゃない」

 軽く郁美は地面を蹴る。ふわりと舞い降りるように幹彦の目の前へやってきた。思わず幹彦は息をのんだ。

 見慣れた郁美の、見慣れない顔。眼鏡が無く、髪がふわりと頬にかかり、よくよく見れば薄く化粧もしているようだった。そして、その……誘うような挑むような表情(かお)

 ふっと一瞬、郁美から表情が消えたかと思った。しかし次の瞬間、あでやかに郁美は笑んだ。

「君が幹彦君」

 まるで、初めて会うように。笑んでぱっと離れた。くすくすと笑い、ステップを踏む。長いフレアースカートをちょっとつまみ、ワルツを踊るかのように。

「郁美?」

「なぁにぃ?」

「お前、治ったの、か?」

「そぉねぇ。治った、のかな?」

 くすくすくす。

 違和感はあった。けれど、その言葉にふっと肩が軽くなった気がした。心配かけないようにと無理をした笑顔ではなく、気弱そうではあるけれど、心の底から楽しそうなあの笑顔を、また見ることができるのならば。知らず幹彦も、口元を緩ませていた。

 ふと、郁美は立ち止まった。誘うような笑みを一層濃く口元に浮かべて。

「……君が……をくれるなら、そうね。完全に治してあげてもいいわ」

「どういうことだ?」

「まだ、完全じゃないの。幹彦君。協力して」

 上目使いで郁美は問いかける。幹彦に嫌はない。嫌はないのだが……。

「何を?」

 にこ。夜空を支配する満月のような笑みを見た気がして、幹彦の記憶は途切れた。


 気付いてみれば、けたたましく目覚ましが鳴り響いていた。

 頭を捻りつつ、怒鳴り始めた母親にせき立てられ、食事を済ませて家を出る。バス亭には郁美が眼鏡にお下げで申し訳なさそうに……けれど、すっかり良くなった顔色で立っていた。

「小坂、お前……」

「田丸君。ごめんなさい!」

 目を丸くする幹彦の前で、ぴょこんと頭を下げた郁美は、うつむいたままぼそぼそと言葉を紡ぐ。

「とても嬉しかったわ。でも、申し訳なくて。こうしてまた制服も着れたけど、けど……」

「ちょっとまて、順番に話せ。何が何だか……」

 ちょうど来たバスに順番に乗り込む。一番後の窓側に小さくなって座った郁美の隣に、ほんの少し間を空けて落ち着いた。少し声を落として、続きを促す。

「アイツと取引したんでしょう? おかげで、すっかりよくなったの」

「え……」

 取引? 幹彦は記憶を引きずり出す。淡い夢のような……昨夜の出来事を。「君が……をくれるなら」 ……郁美は、何と言った? あのとき、郁美は。

「けど、田丸君の時間を犠牲にすることになるなんて……」

 『君が夜をくれるなら』

 ふと、襲った貧血に前の座席に手をついて耐える。慌てたような郁美の声が遠くで聞こえる気がした。

「幹彦ちゃんっ」

 くしゃり。手を伸ばし、郁美の頭を撫でた。

 まだ、目の前は暗いままだったが、困ったような愛しい声が、嬉しかった。


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