051:暴走特急列車

 名所であるはずの海底丘陵が目の前を物凄いスピードで通り過ぎて行った。浮上して楽しむはずの環礁を通り過ぎた時の比ではないざわめきが車両を支配していた。たった一人でチケットを買い、二人掛けの座席に家族と一人離れたおじさんと並んで座り、じっと窓を見つめていたココロもどうした事かとパンフレットを引っ張り出した。

 アナウンスはなく、痺れを切らした乗客が車掌室の扉を叩く。対応のために空いたドアから、忙しない呼びかけの声が聞こえる。怒鳴り散らす客を宥め押しのけ、車掌が遂に出てきた。

「環礁および海底丘陵の通過についてはただいま確認中です。皆様、お席にお戻り下さい」

 宥めるように客に、客と言うより車両そのものに言い聞かせるように言うと、車掌は客席を縦断し、前へ前へと歩みを進める。運転手と連絡が取れなかったのかもしれない。ココロは不安に思いながらクッションの効いた座席へ深く腰を沈めた。

 窓の外は目で追えないほどの早さで風景がやってきてはめまぐるしく去っていく。人工物と思しき白い平たい看板が二つ過ぎた辺りでざわめきはピークに達し、ようやく放送が入り始めた。

 ざわめきの中、僅かなノイズのように始まった放送に気付いた客から黙っていく。針の落ちる音でも聞こえそうなほど静まるまでにほんの数秒。そしてココロの元にも……まだ若いと思える、少し高い男の声が届いた。

『この列車はメイリング・マーチへは行きません。進路を変更します』

 静寂はさらに数秒続いた。内容を理解するまで、それだけの時間がかかったのだろう。この海列車は、大陸の玄関口でもある行政都市フィルベインから海底を通り、海上観光都市であるメイリング・マーチへ抜ける観光列車だった。列車の客の多くは長期の休暇をメイリング・マーチで過ごそうと考えた観光目的で、残りはココロのように仕事を探しに行くものや、メイリング・マーチへ商談を持ちかけに行くようなサラリーマンで占められていた。線路は複線だったが、路線は他にはなく、『変更する』ような進路など存在しない。たとえ存在していたとしても、もちろん、客の意に添う変更であるわけがない。

 ――列車ジャックだ。

 どこかで聞こえた声に反射的に顔をあげ、一気にざわめきを増した車内にかえって怯え、座席で一人ヒザを抱えて丸くなった。隣の座席のおじさんは、少し離れた場所の家族を宥め前方扉の向こうへ消えていった。

 放送は続いているようだった。ざわめきの中で切れ切れにスピーカからの音が届く。……しかし、内容までは分からなかった。


 フィルベイン-メイリング・マーチ間は、四時間ほどの行程になる。最初の放送は出発後一時間くらい経過した辺りで、十分ほどノイズのような音が聞こえたきり、途切れてしまったようだった。三十分ほどして車掌が説明に現れたが、何を話したか何てまたココロには聞こえなかった。不安から半狂乱になった人々の怒声、悲鳴、罵声で、車両のなかは埋め尽くされていたからだった。

 義務のように掴みかかる人々を宥め、車掌はまた前方へととって返した。そしてまた三十分ほど。ココロはヒザを抱えたまま、流れゆく景色を目の端で不安と共に追っていた。

 ようやく顔を上げたのは、罵声の中でもどうしようもない生理現象からだった。幸い隣のおじさんは戻っておらず、もともと小さな身体をさらに縮めるようにして、罵声の中を後方ドアへ向けて進んでいった。

 化粧室は後方ドアを出たデッキにあり、デッキの先は無人の車掌室だった。ココロの乗った車両は列車の後方にあり、ドアを閉めた瞬間、思わず零れる息を止める事は出来なかった。高速で海中を移動する列車だから、防水耐圧防音は完璧だった。ドア一枚隔てただけで混沌とした声の渦から逃げる事が出来た。

 ほっとしたまま用を足したココロは、客室のドアを開けようと手を伸ばし、引っ込めた。椅子はなくとも無人のデッキの方が居やすいと、窓のはまったドアへと足の向きを変えた。

 列車はいま、どの辺だろうか。手元に地図はなく、また、覚えても居なかった。風景が流れるスピードは衰えるどころかますます早くなっているように思える。

 海列車は、陸列車とは違い、海水から動力を得ると聞いた事があった。つまり、通る事が出来る道さえあれば、半永久的に走り続ける事ができるのだ。

 とはいえ、路線は一つ切り。二本並んだ線路は軌道を違えることなくメイリング・マーチへ続くはずで……。

 ふと目を上げたのは、何かが過ぎったように思えたからだった。前から後へ流れゆく珊瑚と岩と色とりどりの魚たちではなく、後から前へ。ひらりひらりと舞うように、見えた。

 人魚だと反射的にココロは思う。そして、思い出したくない声と一緒に、うわさ話を思い出した。考えてみれば、反射的に買った安くはないチケットは、この話を聞いたからではなかったか。

 ――メイリング・マーチは、人魚の巣の上に作られた。

 海上都市メイリング・マーチは、白い砂浜、美しい海、そして有史以来嵐が来た事がないという奇跡の楽園と言われていた。その海には美しい熱帯魚が群れ、島には南国の植物がたわわに実をつけているという。鮫のような危険な魚も付近には居らず、遠浅で波も少ない。

 発見当初から、奇跡と言われた環境だった。最初は小さな砂浜が浮かぶだけの環礁だったという。発見者マーチの名と、マーチの恋人メイリングから名をつけられてからたった五年で名もない奇跡の環礁は人間の楽園へと変わった。

 小さな環礁に金と人が集まるたびに、最も近い島の漁師達は足を遠ざけた。人魚の住処を荒らしてはいけないと言いながら。

 ――僕は人魚を解放する。

 そう言って大学を辞めたアイツは、ココロの前からも消えた。人魚なんて居るはずがないと言うココロへごめんねと言葉を残して。

 人魚伝説は口伝でしかない。研究者もいないでもなかったが、多くが学会からつまはじきにされていると聞いた。海列車建造当時の反対運動の理由は主に漁業関係者のもので、人魚なんて言葉は調べた何処にも出てこなかった。

 だから、ココロは信じたくなんてなかった。後悔してしまいそうで。


 過ぎった何かを再度見つける事はできず、列車はさらに速度を上げたようだった。もう本当ならばメイリング・マーチへ付く頃だろうか。線路はあり、列車は走り続けている。ふと誰かに呼ばれた気がして、ココロは振り返った。しかし、そこに誰かが居るはずもなく、それどころか雪崩を起こすように騒音が降ってきた。

 客席へ続くドアが開いていた。窓へ押しつけられながら、悲鳴の意味を懸命に辿れば、皆逃げて来たのだと分かった。

 衝突、メイリング・マーチの下、島、岩、死。そんな絶望的な単語が飛び交っていた。

 ――ココロ、見て。

「え?」

 思わず出した声は、混乱の中にかき消えた。きゅうきゅうと押されるままにほおを窓に押しつけて、もう身動きも出来なかった。呼ばれた気がしたのも、気のせいだったかもしれない。それでもココロは、横目で窓の外を見た。


 ――パーン。

 悲鳴の隙間から、確かに聞こえた。

 音と共に広がり過ぎゆく海底とは思えぬ光の楽園と共に。


 それは一瞬だった。列車のスピードを考えれば無理もないのかもしれない。

 再び割れるような音と共に今度は急激なGがかかった。狭い通路にありながらも耐えられず、ココロは目を閉じ、ただ必至で頭を庇った。

 最高潮の悲鳴が過ぎ去ると、今後は急激な下からのG.ただ他の乗客と同様床に押しつけられたココロは、最後に光を見た気がした。


 目を開ければ白い天井があり、涙に濡れる母親の向こう側で、淡々とした声が繰り返し告げていた。

 海列車がハイジャックされ、暴走、脱線の上、線路を越えて浮上、犯人を含む乗客三人が死亡、三十五人が重軽傷を負った事。

 列車が基部に衝突したメイリング・マーチはその後一夜にして消え去った事。

 犯人として告げられた名前が、聞きたくなくて、そして何よりも聞きたかったものである事――。

 疲れたと嘘を言い、寝返りを打ったココロは、声を殺して、泣いた。


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