050:別れの日

 麦を刈る単調な音と森を渡り葉擦れの音との合間に、遠く高い音が聞こえた気がして、ヒューは手を止めた。ヒューは高い空を見上げた。雲もなくよく晴れ渡った空には数羽の小鳥が戯れるかのように飛んでいた。土に汚れた手をかざして日よけを作ると、さらにはっきりと聞こえてきた音の主を探す。

 高い空に一筋の軌跡が描かれはじめた。小柄な大人並みの背丈に似合わないきらきらした目を輝かせて、その軌跡を追う。軌跡はまっすぐ東の空へ向かって伸びていった。

「かあちゃん、来た! シャトルだ!」

「ちょっとお待ちよ、ヒュー!」

 ヒューはぱっと身を翻すと、土手に鎌を突き刺した。そのまま首に巻いた手ぬぐいでざっと顔の汗を拭う。母親の静止など全く届いていないかのように、土手の上を走り始める。

「明日やる!」

「ヒュー!」

 ヒューは土手の終点まで走り、そのまま舗装もされていない道を左に曲がる。すぐ脇に立つ粗末な小屋の前の古びた自転車を引き起こした。

「夜には帰るからっ!」

 仕事を続ける母へと叫び、そのまま自転車をこぎ出した。シャトルの向かう先……宇宙港へと。

 ヒューがこぎ出したのを待っていたかのように、空の軌跡はもう一本、生まれようとしていた。


 老シャイナーは慣れた調子で、しかし大儀そうに戸を引き開けた。ふわりと漂う安い酒とたばこの匂いにほっと僅かに息をついた。

 カランと頭上でベルが鳴った。見知った顔がカウンターの中で相貌を崩した。

「シャイナー、久しぶりじゃないか! どこぞでくたばったかと思ったぞ」

「そう簡単にくたばってたまるか。いつものを頼むよ。……あぁ、あと、上等のウィスキーを一つ」

「ウィスキー?」

 老シャイナーは、曲がりはじめた背を庇いながらカウンター席に向かった。カウンターの奥から二番目は老シャイナーの指定席だった。一年間座を占める者がなくとも、その店に出入りする誰もがその席にだけは座らなかった。カウンターに五席。その前に四人がけのテーブルが二つ。たったそれだけの店なのに。

「私は酒など……」

 老シャイナーが離したドアを支えて、もう一人の客が立っていた。まだ若く、船乗りの制服も新品であるかのように綺麗だった。マスターは驚いたように二人目の客を見、老シャイナーに目を移した。

「いいから入ってこい。それがここの流儀ってもんだ。マスター、見知ってやってくれ」

 老シャイナーはマスターの様子に苦笑すると、あごで背後の青年をしめした。そして、自分の隣に座るよう促した。

「こいつが……」

「グリースだ。俺の跡を継いでくれる」

「跡継ぎって……」

「そういうこった」

「先生、私はまだ承知してなど……」

 グリースと呼ばれた青年は、スツールには座らなかった。マスターの用意した酒にも手を付ける気がないようで、ただとまどったようにシャイナーを見つめた。

 やれやれと老シャイナーはため息をついた。懐かしいいつものグラスを手に取り、ちびりと一口なめた。うまみのない辺境惑星。しかも航路には小惑星帯が横たわり、幾つもの難所がある。大手輸送会社は全て手を挙げた。老シャイナーしかいないのだ。しかも彼はもう、幾度も船をとばすことができない。

 老シャイナーはため息をついた。――今も彼のヒザはしこりがあるかのような違和感と鈍痛を抱えていた。

「するしかあるまい? でなければこの星は孤立してしまう」

「けれど、私は……!」

「俺は最初に忠告したぜ? ……飲めよ」

 ほんの数ヶ月前。病院にまで押しかけてきた命知らずな若者に、最小限の事を伝えるので精一杯だったと老シャイナーは振り返る。もっと時間があれば、約束も果たせたろうに。

「初フライトで事故もなくあの難所を抜けたんだ。大丈夫だろう」

「あれは先生が先導したからで……」

「じーさん!」

 薄暗い店内にぱっと日が差し込んで、甲高い声が降ってきた。逆光の中に立つのは、細い青年の体躯だが。老シャイナーは目を細めた。記憶よりだいぶ上背が伸びていたが、その声はかわらない。

「ヒュー、か?」

「じーさん、遅いよ! 約束忘れたのかと思った……!」

 ヒューは扉を自然にまかせて、老シャイナーへ飛びついた。薄い灯りに主導権が戻ると、まだ幼さの残った顔がそこにあった。

「忘れはせんよ。……だがな、ヒュー」

「俺、家の手伝いも沢山したんだぜ! 母ちゃんも説得したし……麦の収穫があるから、明日すぐにってわけにはいかないけど……じーさんが良いって言えば、俺、いつでも行けるんだ! 三月って言ってたから、そのつもりで準備してたのに、全然じーさん来ないし。宙港だってぜーんぜん船もなくて埃かぶってんだぜ。……来てくれないかと思った……!」

 ヒューは老シャイナーに飛びついたまま、一息に話した。老シャイナーは少し寂しく、けれど孫を見るようにヒューへ笑いかけ、済まなかったと呟いた。

 もう十年も昔の約束。まだ老シャイナーには『引退』等という言葉もなく、ヒューはただあこがれるだけの少年であった時代。

「……先生、この子供は……」

 遠慮がちに口を挟んだグリースはもう一つ向こうのスツールの前へ追いやられていた。にやりとシャイナーは笑んだ。まじめなだけの学校を卒業したばかりの優等生、技術だけで実践の度胸というものをまるで知らない、グリース。平和な辺境で育ち幾度かシャイナーの船で衛星軌道を回ったことしかない、無鉄砲なヒュー。しかし、無鉄砲な度胸とあこがれだけは人一倍だ。

 自分がいなくなっても、この二人なら。老シャイナーは感じていた。

「ヒュー、よく聞け。一度しかいわん」

「なんだよ、じーさん。」

「俺は船を下りる。約束は果たせん」

「え!?」

「が、……グリースがそれをかなえてくれる」

「あん? グリース?」

「……は?」

 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔と、うさんくさそうに品定めするような顔がぶつかった。

 ――俺は。

 ――俺は多分、こいつらを引き合わせるために居たんだな。

 仕事を終えれば、老シャイナーは留まることなくこの星を後にする。そして二度とこの星の土を踏むことはないだろうと、直感していた。

 老シャイナーの跡を継ぐグリースは、この惑星の役人の元を回らねばならないだろう。そして、たっぷり一月ほどした後に老シャイナーの後を追う事になる。けれど、追いつかれないという、確信があった。

 ――別れは出会いを運んでくる。

 そんな言葉を、いつか聞いた。それが若い二人の未来を拓くなら、それで、満足だった。

「とりあえず、飲め。おいおい話してやる。ヒュー、お前はいけるか?」

「おぅ! マスター、うーろんてぃー!」

「それは酒じゃねぇ」

 狭い店内の暖かい空気に、老シャイナーはすでに酔いはじめていた。

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