043:笑わない娘

 お隣さん、と言っても良いのだろうか。

 両親が念願叶って手に入れた小さな戸建ての隣には、何処までも続く塀がそびえていた。近所の人の噂話によれば、かつて塀の向こうに住まう大地主が使用人のために分乗した土地が数世代を経て売りに出され、父さんが掘り出し物として見つけてきた、と言うことらしい。

 経緯はどうあれ、お隣さんには違い有るまい。

 母さんは律儀に引っ越しそばを片手に巨大な門の……横の通用口に立った。

「どちら様でしょうか」

 若い女の人の声だと思った。綺麗で無機的な発音だった。母さんは緊張でうわずった声で用件を告げる。

「と、となりに引っ越してきました、成宮と申します。一言ご挨拶にと伺いました」

「少々お待ちください」

 ぷつんとマイクが切れる音がする。ほうと音を立てそうな様子で母さんは溜息をついた。

 母さんの隣で僕は、門を見上げていた。

 こんな大きな『お屋敷』を見るのは初めてで、ただ、物珍しかった。

 どんな人たちが暮らしているんだろう。

 こんなに大きいと、庭の手入れも大変だろうな……。

 前に住んでいた団地の、一階の部屋にだけ付いている小さな庭の草取りでさえ、大変だったのに。

 びくんと母さんが反応して、僕は慌てて姿勢を正した。

 音もなく開いた通用口には着物を着たおばさんと、その後ろに、僕と同じ歳くらいの女の子が立っていた。

「お待たせいたしました。当家の管理を任されております、東雲と申します。ご挨拶にと伺いましたが」

 きびきびと言ってのけたのはおばあさんだった。

「あの、成宮と申します。引っ越しそばを……」

 母さんが慌てて返す横で、僕は、女の子を見ていた。見ていた、というより、一度見て、目が離せなかった。

 真っ直ぐな黒髪、真っ黒い大きな目が印象的だった。お人形さんみたい、という例えをよく聞いたけど、例えではなく、人形かと思ったほどだ。

 色の白い顔には赤みもなくて、唇は真っ赤だ。そして。

 ごくりと息をのんだ。

 目が合った。人形のようになんの表情も浮かべていない、女の子と。

「今後とも、よろしくお願いいたします」

 視界が遮られて、我に返った。通用口が閉まり、もう女の子もいなかった。

 母さんが深々と下げていた頭を上げる。大きな溜息が聞こえた。

「びっくりしちゃったわ。お手伝いさんが住み込んでいるお宅なんて初めてだわ」

「う、うん……」

「さ、帰りましょう。夕飯の準備しなくっちゃ」

 面倒事が片着いたとばかりに足取り軽く歩き出す母さんの後を、僕は三歩ほど遅れて付いていく。

 通用口は二度と開いたりはしなかった。


 女の子の家はとても有名らしく、転入した小学校の誰もがあの子のことを知っていた。けれど、あの子はこの小学校には通っていないようだった。

「お嬢様小学校に通ってるんだぜ」

 隣の席になったケンちゃんだった。真っ黒に日焼けしているのは、少年野球でエースで四番だかららしい。今日も学校が終わったら練習だと言っていた。ケンちゃんの家は僕のうちとは反対方向で、町の端っこの方だという。それでも、あの子の事を知っていた。

「お父さんはナントカっていうおっきな会社の社長さんで、お母さんはオハナの先生なんだってさ」

「ひいおじいさんはカイグンの偉いグンジンさんだったって聞いたよー」

 前の席の絵美ちゃんはよく動く大きな瞳でにこにこと教えてくれた。高く結ったちょっと茶色い髪がぱさぱさといつも揺れている。

「でもアイツ、ちょっとカンジ悪いよな。せっかくカワイイのに」

 子供相撲の町代表だという幸太が大きな身体を揺らせて会話に入ってきた。まだ二時間目が終わったばかりだというのに、手にはおにぎりを持っている。

「いっつも澄ましてるんだよな」

「お人形さんみたいよね」

「人形つーか、3Dゲームのキャラっぽくね? ほらあの……」

 ケンちゃんが挙げたゲームは有名なもので、なるほどと僕は感心していた。なるほど……あの子の印象によく似ている。


 お隣とは特に付き合いもなく、学校が違うあの子と会う機会もなく、僕もそんなものかと思い始めた頃だった。

 夏休みに入りケンちゃんに誘われるまま少年野球チームに入った僕は、庭で父さん相手に野球の練習をしていた。

 キャッチボールから入って、父さんはバットを持ち出してきた。僕も乗り気でバットを取った。軽く当てるなら大丈夫だろうと思っていた。

 軽くバットの上面に当たったボールは、かるうく塀を越えた。……超えた。

「翔太、行ってこい」

 頼むから子供だったら許してくれるかも知れないだろ父さんが行ったんじゃいろいろ責任とかその怖いから母さんの目もあるし……!

 僕の肩をがっしりと掴んだ父さんの目は、そんなことを訴えていた。

 ……だから僕は今こうして、通用口の前に一人で立っている。

 インターホンのボタンを押し、じっと出てくれるのを待っている。

 じわじわと夏の陽射しが僕の背中を焼いて、粘っこい蝉の鳴き声がただ響いている。

「……はい」

 高い声だった。あのおばあさんの声でもなく、引っ越した日にインターホンに出た女性の声でもない。

「あのっ、お隣の成宮ですっ。ボールを……あの、野球していてボールを入れちゃって」

「……待っていて」

 ぷつんと、マイクが切れた。これだけ熱いのに、また汗が出てきたような気がした。

 待っていて、とそういった。僕は姿勢を正して待つ。

 ……またあのおばあさんだろうか。

 車が一台通り過ぎて蝉の音が一段と高くなったと思い始めた頃、通用口が開いた。通用口を支える手は小さく白くて。

 覗いた顔はあの、女の子……櫻端紗枝香と聞いた……のものだった。

「ちょうど良かった。今、東雲さんも西織さんもいないの。入って」

「……良いの?」

 こくり、と紗枝香は頷いた。こんなに暑いのに上気すらしていない白い頬で、無表情に。

「見つからなければ、叱られないから」

「あ、ありがとう……」

 紗枝香が身を引いたので、隙間から滑り込むようにして戸をくぐった。中は予想はしていたけれど見事な日本庭園で……ボールが枝の一つも折ってやしないかと想像して、思わず汗が引いた。

「どの辺かしら」

「た、多分、あっちだと思う」

「行きましょう」

 紗枝香は長い髪をさらさらと流して僕の前に立って歩き始めた。僕は慌てて紗枝香の後を追う。

 相変わらず人形みたいだった。でも、ちゃんと会話も出来るし、こうして動いている。人形ではないんだ。

「成宮君、運がいいわ。東雲さん。怒るととても怖いの」

 ちらりと紗枝香が振り返った。僕を見て……けれど、にこりともしない。

「……怖いってどのくらい」

「私だったらお夕飯のおかずが一つ抜かれて宿題が追加されてしまうわ。成宮君だったら……お父さんお母さんが呼び出されてしまうかも」

「えぇっ」

 おかずに宿題も十分怖い。それにもまして父さん達が呼び出しだなんて……。

 緊張で、緊張しすぎて、母さんの顔色さえ伺うほどの父さんなんだ、呼び出されなんてしたら……。

「父さんの毛が抜けちゃったらどうしよう!?」

「毛!?」

 紗枝香が振り返った。目が、まん丸に開かれている。

「頭の毛が……」

 ただでさえ最近、生え際が気になるって言っているのに。

 ……。

 ……あれ? 僕、変なこと言った?

 紗枝香が咳き込んだようにして、前を向いた。ほんの少し頬が赤い……?

「櫻端さん……?」

「紗枝香で、いいわ。オウハタって、言いにくい、でしょう?」

 振り返った紗枝香の目は、少し涙ぐんで見えた。頬はほんの少し引きつっているようで、僕を上目遣いに見ている。

「えと、じゃ、紗枝香、ちゃん……僕、変なこと言った……?」

「だって、毛が抜けちゃうだなんて……毛が……」

 ついに紗枝香はお腹を抱えてしゃがみ込んでしまった。お腹を抱えて、肩が震え続けている。

 ……どうやら、爆笑しているらしい。

「紗枝香ちゃん……」

 そんなにおかしいことだった?

 ひとしきり笑って気が済んだのか、しばらくしてようやく紗枝香は立ち上がった。ごめんねと呟くように言い、続けた。

「こんなに真剣に笑ったのって初めて。大丈夫よ、呼び出されてもネチネチお小言を言われるだけだから」

「それが困るんだけど……」

 ほんの少し紗枝香の口元が緩んだ。頬があがる……目が多分、笑っている。

「じゃぁ、そうならないように早く見つけてしまいましょう」

 紗枝香はぱっと振り返るとまた先に立って歩き始めた。


 ケンちゃんも絵美ちゃんも幸太も、すまし顔の感じが悪いお嬢さんと言っていた。でも……ちょっと違うんじゃないかな。

「ねぇ、紗枝香ちゃん。普段あんまり笑わないの?」

「おもしろい事なんてないもの。……ねえ成宮君」

「翔太で良いよ」

「……翔太君、こんどはボールを取りにじゃなくて……遊びに来てくれる?」

 ちょっと伺うような上目遣い。ほんの少しだけピンクが見える白い頬。

 澄ましているワケじゃないんだな。きっと。

「……うん」

 目が細くなる。口の端が頬を押し上げる。

「きっとよ!」

 くるんと振り返るとボールを探しに歩き出す。少しだけ軽くなったステップで。

 多分なんだけど。

 多分、そう思うだけなんだけど。

 僕はいつも野球の練習をしていて。練習をすればするほどボールは遠くまで投げられるし、足も速くなる。けれど、練習をサボればボールは投げられなくなるし、足も遅くなる。

 ……紗枝香もそうなんじゃないかな。


 紗枝香の後を小走りで追う。

 きっといつか、綺麗な笑顔を見られる気がした。

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