040:夢喰い人

 小柄な少年にばかり目が行ってしまう。

 変わった性癖があるとか、背の低い男が好みだとかそう言うわけではない。実際に付き合う男性は大柄が多く、現在の婚約者も見事とは言えないまでもそこそこの体格を誇っている。しかし、目が行く。ただそれだけだったが、誤解されても良い場所と、誤解されてはまずい場所というものがあった。

 山本は教師だった。住宅街に隣接した中規模の公立高校。学力は中の上くらい。1/3は就職を考える程度の進学校とも言えない高校で教鞭を執るようになってようやく四年が過ぎようとしていた。就職難も手伝って志望した職で、運良く採用試験に合格し、熱血と言えるほどでもないが決して淡泊でもない指導を心がけていた。

 学校という場で教師という職業だったから、それは特によろしくない。一人の生徒を気にかけてしまう事もさることながら、それが学年でも一番小柄な男子生徒だなんて。どんな風にウワサを立てられ、飾られ、どんな風に教育委員会の耳に留まるかなど、分かったものではない。特に、こんなご時世だから、用心に越した事はない。

 山本は窓の外のそれを目に留め、何気なさを装って室内に戻した。手元に散った資料を抱え教員室を出た。


 頑張りすぎるメンバーは時として邪魔なものになりかねない。いつもは向上心にわくその姿勢はチームの原動力となり、練習に大いに役に立つ。しかし、こんな時にはその元気も空回りしてしまう。

 たーんたーんたーん。

 チームメイトの一人もいない体育館で、ボールの跳ねる音が響いた。既に後輩も帰っていた。水銀灯の照らす中で、それしか知らないかのようにボールをつき、構え、投げる。小気味いい音を聞くと、彼女は休むことなく次のボールを手に取った。

 彼女はバスケット部のエースだった。大会は七月の予選を皮切りにインハイへと続くが、夏休みに入ったばかりの昨日の試合が高校最後の試合になってしまった。彼女と、彼女のチームメイト達の。山本は戸口からじっと汗ばむ孤独な後ろ姿を見ていた。どう声をかけようか迷いつつ、こんな時は声などかけて欲しくないものだとぼんやりと思い返していた。

 彼女はよくやった。指導者として思ってはいけない事ではあるが、彼女はよくやりすぎた。チームメイトも頑張った。しかし、チームメイトのがんばりは彼女の期待するものではなく、結果は結果で覆らない。何かのせいにするとすれば……そもそも彼女は高校受験で第一志望に入れなかったと聞いた事があった。

 教師としては、そんな彼女にも行く道を薦めなくてはならなかった。スポーツ推薦は厳しい。彼女の成績も芳しくない。しかし、道は必ずあるはずなのだ。夢を潰さず、導いてやれなくては、何が教師だ。

 ――山本さんは理想が高すぎるの。いい? 道は一つじゃないのよ。

 たった九年前……あれから九年しか経っていないと言うのに、今の山本にはわかる。気の弱そうな担任が、気遣わしげに行った言葉が。同じ言葉を今度は山本が言わなくてはならない。

 踏み出そうと意を決めた山本の横を、通り過ぎる風があった。


「MBAに行きたいんだって?」

 無邪気に問われて、山本はムッとした。言った相手もよくなかったろう。いつもへらへらと笑っていて、勉強も運動もさして出来ないクセにそれだけでセケンを渡っているようなヤツだった。学年一のチビで、ファニーフェイスと言うらしいが、妙に可愛らしい顔。どちらかと言えば、女らしくない長身で、オシャレもせず時間もなく、スポーツをやるには邪魔だからと髪も短く手入れもさしてしていない山本が、夢のためにと割り切ったものを全て持っているようでカンに触った。しかも、地区予選敗退は昨日の事で、MBAどころかバスケットの強い大学へ進めるかどうかも怪しくなっていた。

 嫌がらせとしか思えなかった。

「行ければねっ」

 それでも諦めたわけではない。高校で良い成績を残せないなら、大学に行くのが早道だ。就職してバスケット部という選択もあったが、強い企業は皆遠方で情報は少なかった。今もっともやりやすく明確な目標が大学進学だった。

 持った事もない参考書を買った。模試の申し込みもしてきた。目指すべき大学の目星もつけている。山の高さを測るのは、これからだったが。

「何でそんなに行きたいの?」

 視界に入れないようにと落とした視線の中に割り込むように入ってきた。悪戯っぽく上目遣いで机の前からのぞき込む。

 わざとらしく参考書を立てて、視線を遮った。遮ったページは近代史のページで……ちんぷんかんぷんだ。

「夢は大きく持つ方が良いって言うけど、大きすぎるのも問題だよねぇ」

 今度は斜め上から降ってきた。前の机に座ったのだろう。知ったような口をきくのも、さらにカチンときた。

「夢のために何を払うの? 払えば必ず手に入る? 手に入らなかったらどうなるの。スポーツ選手じゃ時間制限もあるよね。凄い選手はもう目をつけられて同じ歳なのにコートにたってる」

 そんな事は判っている。わざわざ言われるまでもなく、幾度と無く考えた。けれど、結論なんか見えっこない。山本はまだ自分の限界を知らない。夢は大きく持つから練習にも試合にも身が入るのだ。そう。大きすぎて何が悪い。人間でないかのように激しく華麗で翼を背に生やしたように軽やかにコートを舞う彼らに憧れて何が悪い。あんな風にバスケをやりたいと思って、何が悪い。そんなバスケを目指そうとあらゆる努力を払う事のなにがいけないというのだ。

 辛い練習も、厳しい特訓も、それだからこそ乗り越えられる。暑くても、寒くても、練習を続ける事が出来る。たとえ肘に違和感があったとしても……。

「重くない?」

 とんと、参考書が倒された。教室に差し込む赤みを帯び始めた光の中で、少年は薄く笑う。

「縛られるのって、重くない?」

「え?」

 まだ声変わりをしていないのだろう、子供のような声がするりと入ってくる。テーピングを巻いた腕に、なま暖かい何かがあたって、滑って落ちた。

 縛られる。そんな言葉に飾られたのは初めてで。苦しい事に今、気付いた。

「ほら」

 くすくす。

 手入れを怠らない、女の子のような荒れひとつない唇が笑みの形を作る。病弱なほども白く見えるきめの細かい肌が近づいてくる。

「そんなに重いなら、僕に少し頂戴」

 軽い風のように唇が触れたことを、覚えている。


 通りがかりに『風』は山本をちらりと見、白いキメの整った肌の上で口端をふっと上げた。彼女の斜め後ろに立ち、無邪気な様子で声をかける。

「ねぇ!」

 山本は音もたてずに扉を出た。

 未成年のための学校は、無軌道な生徒達を社会に入れるための軌道修正の場所でもある。現実とは甘いだけのものではなく、時には立ち上がれなくなるほども大きな壁を用意するものだった。壁を越える方法は様々だが……無謀な方法はやはり、『社会にとって』プラスとはならない。

 山本は……大学でバスケットを続けながら、選手ではない道を選んだ山本は、導かねばならない教師だった。生徒達の夢を育て、時には摘み、時にはそれを糧にさえする、教師という人間だった。




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