038:毒薬レシピ

 県下有数のバスケット強豪校として知られる市立河中高校家庭科室では、バスケット部を支える三人の女子マネージャーが集まり、差し入れ作りに精を出していた。

「相川、レモンを輪切りにして」

「ハイ!」

 ただ一人の三年生、三谷の指示に一年生の相川が元気よく返事をした。

 家庭科室の外でそれを伺っていた二年のフォワード、蜂谷は、きょとんと先輩と家庭科室の扉を見比べる一年エース候補、後藤田の腕を引いた。足音をたてないように注意して家庭科室を離れる。

「良いか後藤田」

 家庭科室から十分離れた階段の影へ後藤田を連れ込み、低い声で続けた。

「何があってもあの差し入れは食べるな。そして、死ぬ気で勝て」

 なぜ、と聞くことを許さないほどの雰囲気の前に、後藤田はただただ、頷いた。


 新部長、二年センター矢野でさえ、それは伝説として聞いた切りだと言う。

 現役選手にそれを体験した者はなく、しかし、掟のように何年も、何世代もの間言い伝えられていた。

 ――マネージャーの差し入れには手をつけてはいけない。


 そして後藤田は大いに困っていた。

 大会を前に見事彼氏彼女の関係となった相川が、学年一の美少女と名高い相川が、差し入れを手に、にっこりとほほえんでいる。

 先輩の命令は絶対で、だから、言い伝えも絶対である。しかし、断れば相川の美貌が曇るだろう。もしかしたら涙まで見ることになるかも知れず、後藤田の恋は終わるのだ。

 ひとまず後藤田はベンチを離れた。試合開始まで後十分と迫っていたが、トイレへ行くと言い置いて控え室へと向かう。案の定相川が着いてきた。

「ねぇ、後藤田君。一生懸命作ったのよ。おいしいから食べて」

「いや、でも……」

「スタミナが付くようにがんばったの。長い試合でも走り抜けられるように。体の大きな上級生に当たり負けしないようにって」

「う、うん……」

「……やっぱり、後藤田君も食べてくれないのね……」

 じっと後藤田を見つめた目が潤んだ。見る間に滴が目の縁に盛り上がる。

 ……耐えきれなくなったのは、後藤田の方が先だった。

「……喰うから! 喰うから、泣くな。な!?」

 蜂蜜付けのレモンを手づかみで口へ運ぶ。甘酸っぱい果汁が口の中一杯に広がる。おかしな味など何もない。知っている蜂蜜レモンの味だ。

「うまい!」

 なんだ、普通の、とびきりうまい蜂蜜レモンじゃないか……!

「本当?」

 泣いた相川がもう笑った。

 後藤田は蜂蜜でべたついた指をなめながら甘酸っぱさを胸の中一杯に感じる。試合開始五分前のベルを聞きながら、流しで手を洗い、相川に手を振った。

「これで絶対、この試合は勝つからな!」

「うん!」

 試合場へと、何事もなかった振りを装いつつ、駆けだしていった。


 五人中唯一の一年生。しかも、スタメンだ。相手チームにも当然マークされ、ガードも厳しい。しかし、後藤田の活躍はめざましいものだった。

 フォワードの役割を存分に果たし、第二ピリオドまでに後藤田が稼いだ得点は五八点中三〇点にも及んだ。しかし相手チームも負けてはいない。守備より攻撃の方が評価されるチームだ。河中高校には一歩も引かない五六点をマークしている。

 折り返しで二点差。まだまだ勝負はわからない。

 第三ピリオドが始まる頃、荒い息をなだめつつ後藤田は下腹部に違和感を覚えた。……とはいえ気になるほどでもなく、ホイッスルが始まればすっかり意識の外に消えていった。

 第三ピリオドを終えて、七〇対七二。今度は二点リードを許してしまった。いくら飲んでも水分は足りず、肺は焼けるように熱い。しかしまだ後藤田は交代する気などさらさら無かった。……相川が見ていたから。

 第四ピリオドの開始を告げるホイッスルが鳴り響く。審判により高く上げられたボールを目で追いつつ、試合が始まっても忘れることができなくなりつつある下腹部にどうしても意識が行った。

 あと十分。大丈夫。……腹のことなど、忘れてやる!

 蜂谷がはたき落としたボールを飛びつき、後藤田は無我夢中でゴールを目指す。

 ザン、とゴールがたてる音に汗をぬぐいつつ、……違う汗が混ざりつつあることを努めて忘れようとした。


 あと一分。

 粘ったのは河中高校か、それとも相手チームか。

 双方共に一〇〇点を超えながら、未だ二点差のままだった。

 矢野が投げたボールは見事に後藤田の手に収まり、動作を止めることなくゴールへ向き直る。最大の集中でボールをふわりと投げ入れる。

 ダンとボールが床をたたく。――これで、同点。

 ぬぐう汗はもうほとんどが冷や汗に変わっていた。目がかすむ気がする。立っているのもやっとだ。――延長になど突入したら、間違いなく、終わりだ。

 ちらりとベンチへ目を走らせる。タオルをぎゅっと握りしめた相川が、真剣な目でボールを追う。

 ユニフォームの上から、腹を押さえた。……大丈夫。逆転すればいいだけだ!

 渾身の力でコートを蹴る。ディフェンスゾーンへ戻り、小柄な体躯を生かして相手選手の死角を付く。

 ローポストへ持ち込もうとした一瞬に追いつき、ボールを奪う……!

 相手チームも味方すらも虚をつかれたその一瞬にきびすを返した。

 得意の速攻。目指すはゴール。そして、その先の……。

 放ったボールがゴールに吸い込まれるのと、試合終了を告げるホイッスルが鳴らされたのは、同時だった。

 そして後藤田は限界を迎えた。


 後藤田は試合終了の礼にも立ち会わずに控え室へ消えた。

 怒髪を付く勢いで探された後藤田は、トイレでうずくまっているところを発見された。……今まで走り回っていたのが嘘のように体は冷え切り、べたついた汗で覆われていた。

 医務室で点滴を受けている最中、ようやく意識を取り戻した後藤田は、怒りを消し去り、心配顔で見下ろす矢野へ言葉少なに事実を告げた。

「……伝説は、事実でした……」


 延長などを許さない、きっかり一時間後に効いてくる『薬』

 マネージャーの愛情という名の呪いをたっぷり含んだそれ。

 食べて負けたら増量される。食べずに負けたら『ほらごらん』と喰わされる。

 喰ったら最後、試合終了後には半死人だ。

 許されるのは、食べずに試合に勝つこと、だけ。

 ……だから、河中高校は強豪校と言われるまでに成長した。


 矢野は後藤田の頭を軽くたたき、うんうんとただ、頷いた。

 そして、後藤田は脱水症状として病院へ搬送され、部員一同は河中高校へと戻っていく。

 マネージャー三人は、今日の『差し入れ』の成果を確認し、『差し入れ』レシピに追記する。

 ――八月十六日、県大会決勝、一年生エースが食し、勝利。


 また来年、後輩マネージャーへレシピを引き継ぐために。

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