037:夜光蝶

 僕の一日は、朝の光とともに始まる。誰よりも早く起きて、屋敷中を磨き上げる。埃一つ落ちてないように、僕らの顔が映るまで。

 ご主人様が起きてくると、僕らは地下へ降りていく。ほんの少しのご飯をもらい、待っているのはいろいろなお仕事。洗い物、繕い物、石炭を運び入れて、炉に火を入れるのも全部地下。

 僕らはお日様を見ない。お日様の下に出てはいけない。ご主人様も知らない。ご主人様を見てはいけない。侍従様にきつく言われて、僕らはずっと守っている。僕たちは、ご主人様や侍従様とは違うイキモノで。だから、地下で生きるのだと。ご主人様はお日様のようなもので、だから見てはいけないのだと。大人はみんな頷いた。僕もこくんと頷いた。


 僕らの部屋は半分地下にあった。お日様の差し込まない小さな窓からは、緑色の草が見えた。同じ部屋のルイはほんのときたま、ぼんやり光る緑の草を眺めていることがあった。

 ――お月様の下なら、出て行っても良いのかな。

 そんなとき、僕はきまってルイへ聞いた。

 ――お月様ってなに?

 ルイは元気がなさそうに笑って、布団をかぶって寝てしまった。いつも。いつも。

 みんないつも疲れていた。だからルイを起こさなかった。かわりに僕は外を見た。光る蝶が窓の外を横切って、見えなくなった。


 ――ルイ、あれは何?

 ガラスには僕が映っていた。僕の向こうにはルイがいて、赤いランプが揺れていた。僕らの間に重なって、光る蝶が飛んでいた。ルイはふいとランプを消した。ガラスの上には蝶だけがいた。

 ――夜光蝶、だね。

 ――夜光蝶?

 ――暗い中で光る蝶々。

 ――暗い中で?

 ――お日様がなくても、お月様が見えなくても、自分で光る蝶々だよ。

 僕は蝶を見続けた。淡くて、綺麗で空気に溶けてしまいそうな蝶は、ふわふわ、ふわふわ遊んでいた。自由に、自由に、どこまでも。僕は見えなくなるまで見続けた。

 ――ルイ、僕は蝶にはなれるかな?

 ――え?

 ちょっとくぐもった声だった。ルイはもう、布団の中にいるんだろう。

 ――侍従様は、ご主人と僕たちが違うイキモノといったけれど、蝶と違うとは言わなかったよ。

 ――シウ、俺たちは……。

 ――僕なら出れるかな。

 蝶のように、舞ってみたかった。僕の手足が、どんなに自由に動くのか、僕は試してみたかった。部屋の小さな窓は、ほんの少しだけ開けることができた。試してみたことはなかったけど、僕はルイよりずっと小さかった。

 椅子を引き寄せて、手を伸ばした。低くてやっと手が届くだけだった。ベッドを引き寄せて、椅子を上に載せた。窓が目の前にあった。窓を開けて、頭を入れてみた。すっと通った。身体を持ち上げた。冷たい空気がほおに当たった。

 ――シウ。だめだよ。叱られてしまう。

 ――どうして?

 えいと足を上げた。くすぐったい草が触れた。

 ――奴隷だから!

 ルイの声が遠くに聞こえた。ドレイ、それが何かわからなかった。

 判ったのは、僕の前に夜光蝶がいることだった。そして、目の前にあるもの。淡い淡いそらのあかり。柔らかい草。ほてった頬を冷やす夜露。澄んだ、けれどどこか青臭い空気。

 くすす。笑みがこぼれた。とんと足を高く上げる。ふっと両腕をのばす。くるりと回る。

 風が吹いた。木の葉の音が聞こえた。どこかから水の音がした。僕は踊った。時々大人がふざけて踊るみたいに。猫がネズミを追いかけるみたいに。夜光蝶が空を舞うように。風の音、水の音に、時折響く虫の声にあわせて。自由に動くこの身体が心地良い。

 ――シウ、だめだ、もどらないと。

 ――どうして? こんなに気持ちいいのに。

 シウの答えのかわりに、パンと一つ、音を聞いた。

 あぁ、そうか。僕は思った。蝶はいつか、網に捕らわれてしまうんだっけ。

 夜光蝶の光が僕の上をさまよい、消えた。

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