026:移動サーカス[モルモット]

 三週間前からの告知の通り、体育館にサーカスが住み着いた。

 そして、僕らのクラスへ女の子が転入してきた。


 人形のような子だった。

 腰まで届く真っ直ぐな黒い髪で、紙みたいに白い肌で、背筋がぴんと伸びていて、折れてしまいそうなほど細い肩をしていた。

 けれど、病弱でか弱いわけではないらしい。初日の体育で、いきなり八段の跳び箱を跳んだ。僕は自己新記録の五段をようやく跳んだ。

 勉強も良くできるようだった。算数の授業の前に必ず配られる小テストで、難なく満点を取った。

 明るい子だった。転校ばかりと笑って言い、女の子達のまん中から楽しそうな声が零れて聞こえた。あんまり楽しそうで、僕らは何だか、近づけなかった。


 僕の家は市の体育館のすぐ裏で、小林さんと家の位置は近いことになる。金曜日の夕方のクラブ活動以外部活動も習い事もしてない僕は、だからいま、たったひとりで緊張するハメに陥っていた。

「こっちの方は、遠藤君だけなの?」

「う、うん」

 僕の家の周りは、いろいろな会社や、市役所や、地下鉄の駅や、お店があった。

 僕のうちも喫茶店だし、住宅地ではなかった。

 集団登校の斑がないわけじゃなかったけど、僕はいつもひとりで帰っていた。

 ……いろいろ話すことはあるのに、なんだか、上手く言えなかった。

「そっか。あの辺てあんまり住宅地じゃないもんね」

 小林さんは僕より一歩先に立って歩いていた。真っ直ぐな髪がリズムを刻んでひらひらと揺れていた。

 揺れるたびに、なんだかいい匂いが広がった。花のような甘い匂い。

 女の子ってみんなこうなんだろうか。

「朝とか、会社員とか、お役所の人とか多そうだもんね」

「あ、あの」

 公園を過ぎて、小さな道。曲がればいつもの帰り道。……神社を抜ける近道だ。

 言おうとして、意味がなくて、口を閉じた。

「なあに?」

 小林さんは当たり前のように小道へ入った。


 一週間が経って、今日からサーカスが始まる。小林さんは、今日も体育館から出て来た。

 朝、手伝いをしてから学校へ行き、帰ってからも、手伝いをしたり、練習をしていたりしているんだと、聞いた。

 朝も、帰りも、一緒になることが多かった。

 けれど、学校に着けば女の子達の中に入っていってしまった。僕はいつもそれを何となく遠くから眺めていた。

 今日も、校門をくぐるなりおはようと声を掛けて、小林さんは女の子達の集団に入っていった。僕も大滝を見つけて、駆け寄った。

「はよっ」

「おーす」

 僕らのすぐ脇をキンキン声の集団がそのまま抜けていって、大滝はいつもの眠そうな目で集団を眺めた。

「なんで女ってあんな声だせるんだろうな」

「……わかんね」

 すぐに大滝はどうでも良さそうにあくびをして、だるそうに足を動かした。だらだらと歩いて昇降口に着いた頃には、もう、小林さん達の姿は影も形もなかった。

 代わりに、昇降口には違う集団がいた。渡瀬さんが中心になった、違う女の子達だ。

 きゃらきゃらと同じように昨日のドラマの話をしながら廊下の角を曲がっていく。

「はよっ!」

 どんと、後から体当たりのように挨拶してきたのは阿部だった。大滝とは対照的に

今が全開とばかりに、会ったそばから口が動く。

「なーなーなー、しってっか? 渡瀬がさ、小林さんを嫌ってるって話」

「あ?」

「なんだよ、それ」

「小林さん、テストはいつも満点じゃん? 体育だって、何でも出来るし」

 阿部は口も手も動かした。上履きをとって、ささっと履き替える。大滝が靴を靴箱に収める頃には、もう歩き出していた。

「それがさ、真下が小林さんを好きなんだって噂があってさぁ」

 真下はクラスでも人気があって、他のクラスの女の子にも人気があると噂だった。確かに、私立中学を受験するとかで、勉強も出来るし、サッカー部入っていて、レギュラーだと聞いていた。

 真下じゃなくても、誰でも男なら気になってると僕は思っていたから、別に意外でも何でもなかった。

「渡瀬、真下のこと好きだもんなぁ」

「……」

 なるほどなと思った。渡瀬が真下を好きなのはやっぱり有名で……だから渡瀬は気に入らないのだ。

「それがさ、それだけじゃないみたいなんだ」

「なんだよ」

 忙しない廊下で、阿部は器用に後ろ向きで進む。先生に見つかったら、呆れられるか怒られるかだ。

「渡瀬、ピアノ習ってるじゃん? 市役所の側で」

「うん。体育館の隣だろ?」

 うちの目の前とも言う。手伝いをしていると、たまに習い事に行く渡瀬を見かけた。

 学校で見る以上に澄まし顔で、僕はいつも見つからないように祈っていた。

「一昨日な、見たんだって」

「サーカスの練習を?」

「そんなの当たり前じゃんか」

 小林はサーカスの子で、小林自身も出演するというのだから、それは当たり前だろう。

「そんなんじゃなくてさ、と」

 さすがに階段まで後歩きしてきて、諦めて前を向いた。まだ、後階段登りはマスターしていないらしい。

「ハネが生えてたんだって」

「コスプレか?」

「違うよ」

 くるっとまた、阿部は僕らの方を向いた。

 相変わらず眠そうな大滝へ、二段高いところから内緒話をするように、囁く。

「……背中から、蝶みたいなひらひらのハネが生えてたんだって」

「……」

「……」

 あんまり阿部が真剣で、何も言えなかった。

 僕らを邪魔そうにしながら、隣のクラスのヤツが走り抜けていく。

 追いかけるように予鈴が響いて、阿部は楽しみを邪魔されたみたいな顔で、歩き始めた。僕らも遅刻しないよう早足になる。

「見間違いだろ」

「……」

「しらねーよ。そういう話を聞いたんだってばー」

 面倒くさそうに大滝は阿部を抜かして歩いていった。

 阿部が慌てて走り出し、僕もその後を着いていった。

 渡瀬は見間違えたんだと思う。蝶のハネが生えてたなんて、バカらしい。

 けど、何だか僕は、笑い飛ばせなかった。


 その日の帰りは、幸い僕ひとりになった。

 小林は早退して、サーカスの開演に備えるのだという。

 僕はひとり、チケットをもらっていた。

 夢のようなという表現が一番ピッタリ来るのだろう。

 羽根などない小林はハネのようなひらひらの衣装で、空中ブランコで揺れていた。

 広い体育館の端から端まで、ハネでも生えているように渡り歩き、命綱もネットもない空中で危なげなく舞っていた。

 彼女は綺麗すぎるのだと、すっかり人のいなくなった客席で、僕は、ぼんやりと思った。


「どうだった?」

 ひょこっと小林が袖から顔を覗かせた。

 まだ、化粧をしたまま、ひらひらの衣装を着たままだった。

 いつもの日本人形のような印象とは違って……蝶のようだった。

「うん。綺麗だった。上手なんだね。びっくりした」

「ありがとう!」

 ぱっと笑った。学校で見るのより、ずっと華やかな笑顔だった。

「いつもより、ずっと生き生きして見えたよ。学校でもあんなに楽しそうなのに」

「……そう?」

 あれ?

 さらっと、解いた髪が落ちた。ふんわりと良い匂いが広がった。

 意外そうな声が返るか、そうなのよと悪戯っぽく返ってくるか、どっちかだと思ったのに。

 困ってるように、聞こえた。

「あ、ごめん。お化粧落とさないと。来てくれてありがとう。また明日ね」

「うん。オツカレサマ」

 慌てて袖に返っていく小林を、バイトさんを見送る父さんのように手を振って見送った。


 朝夕は相変わらずだった。

 けれど、学校へ行くと、なんとなく、少しずつ変わって見えた。

 小林は、ひとりでいることが多くなった。

 いや、一応、佐藤達のグループにはいた。けど、僕にはひとりでいるように見えた。

 真下は告白して振られたと聞いた。

 小林はまたすぐに移動してしまうから、振られなかったとしても長くは続かないだろうと思っていたから、別に意外な感じはしなかった。

 それより、日毎に浮いていくような小林が、見ていて……いやだった。

 そして……今日、いつの間にか……サーカスの最終日になってしまっていた。

 夢のようなサーカスは相変わらずで、ぼぅっと、舞台を見つめるクラスメイトを幾人も見た。

 そしてまた、僕はひとり、暗い舞台を眺めていた。

 明日、小林さんは転校する。

 そして、小林さんのいないいつもが戻ってくる……いや、何も変わらないかも知れない。渡瀬も、真下も、佐藤も。僕を除いて。

「遠藤君」

「小林さん」

「どうだった?」

「うん。とっても綺麗だった」

「ありがとう」

 最初の日と同じように、袖から出てきた小林さんはぱっと笑った。

 誰も知らない小林さんのとっておきの笑顔。

「……次はどこへ行くの?」

「うん、北の方」

「そう」

 始めの頃とは違って、なんだか、言葉が出てこなかった。

「……手紙、欲しいな」

「えっ」

 ようやく零れた僕の言葉は、思った以上に大きくて、自分で驚いてしまった。

 僕以上に、小林さんは、驚いたみたいだった。……言葉の意味に。

「だって、その、僕からは出せないし」

「ううん、違うの。出すわ。読んでくれるなら」

「読むよ。……待ってるから」

「……初めて」

 薄暗いなかで、いつも白く輝いて見える小林さんの肌が少しだけ紅く見えたのは、僕の気のせいだったろうか。

「……初めてなの。そう言ってもらえたのは」

「そう? 佐藤さんとか、仲良いじゃん」

 小林さんは、下ろした髪の向こうで、うつむいた。

 まずいことを言ったのかなと思ったけど、そんなひどいことを言った覚えはなかったし、困ってしまった。

 耳が痛い。

 体育館は広くて、今は誰もいなくて、小林さんの息づかいも聞こえてきそうだった。

 ……僕の心臓の音まで。

「……混じれないの」

「え?」

 僕の疑問に答えるわけでは無かったのかも知れない。小林さんはうつむいたまま、続けた。

「どこの街にもどんな人たちにも混じれないの。私もユリア姉さんも、漸次兄さんも、小江田さんも、みんな。ずっと。どこへ行っても」

「それは……」

 一月かそこらで、街に馴染むのは大変だと、僕も思う。けれど、小林さんは馴染んでいたと……思おうとして、でもと思ってしまった。

「実験なんだって、団長は言うけど、辛いのには変わりないもの。何十年も……」

「実験?」

 そのとき、袖から小林さんを呼ぶ声がした。ピエロの声だった。

 コガネムシのような丸っこい身体の、小江田と小林さんは呼んでいた。

「ごめんなさい、行かなきゃ」

「あ……うん」

「明日ね」

「……うん」

 ぱっと、小林さんは笑った。……聞きたかったけど、仕方ない。僕も笑って、見送った。


 翌日、小林さんは学校には現れず、先生が挨拶も出来ないとわびていたことを告げた。

 帰るとすでにサーカスは無かった。


 それから僕は待ち続けている。

 まだ、手紙は一度も来ていない。

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