018:天気雨の不吉

 それは、人を哀れむ神様の涙。


 母さんのピアノの手が止まった。どうしたのと顔を上げた私は、母さんの向こうの窓の外の様子に気付いた。

「母さん、雨だよ。雨降ってるのに明るいよ」

 とんと椅子を降りて窓辺に近寄った私は窓にぴたりと顔を寄せて、熱心にそれを眺めていた。空にはいくつも落ちそうな雲が浮かび、遠くに見える町並みはほんの少しぼやけて、庭に植えられた楠は輝くようにさえ見えて、幼い私にはまるでおとぎの国に迷い込んだように思えたものだった。

 いつもなら気にもとめないような軽い音がやたらと大きく聞こえた。ピアノを離れた母の手が私の肩に添えられた。背中には暖かい母の体温を感じた。私はおとぎの国から目をそらして、懸命に首をそらした。母は私のことなど目も向けずに、じっと空の彼方を見つめているようだった。

「お天気の雨は、神様が泣いているからなのよ。お空に橋が架かるのは、神様のお国と私たちの世界の間がつながるから、なの」

「神様のお国?」

「そう。お祖父さまやお祖母さまがいらっしゃる所よ」

 お祖父さまにもお祖母さまにも私は会ったことがなかったから、それはどこなのだろうと幼いながらに懸命に考えていた。そして、空に架かる橋とは、一体どんなモノなのだろうかと。

 母の視線につられて戻した私の目の中に、二つのモノが飛び込んできた。大きく大きく全天を覆うかのように架かる美しくはかなく危うい橋と、橋からわき出たような黒い飛行機の影を。

 母の手が少しふるえていたことを、私は今も覚えている。


 空のバケツをなるべく平らな地面を選んで置いた。アスファルトが引かれるどころか、整地されることも石が取り去られることもない地面には平らな場所などどこにもなかった。井戸に柄杓を投げ込んで、慎重に、けれど素早く引き上げて、一滴も零さぬようにバケツに注ぎ込んだ。薄く茶色く色の付いた水はバケツの七割ほどを満たした。

 やっと回ってきた順番だった。そして、私の後ろにも幾人もの女達が順番を待って並んでいた。暗黙のルールで汲み上げるのは一回だけと決まっていた。くたびれた様子の次の女性に場所を譲って、バケツを持って歩き出した。

 地面は所々ひび割れ、風が吹くたび高く埃を舞いあげた。括ってもなお暴れ回る髪が少しだけ邪魔だった。空には大きな固まりから逃げ出したような小さな雲がいくつか漂っている切りで、太陽は真上に近い場所からじわじわと私たちを照らしていた。一歩一歩踏み出す足は地面近くに漂う陽炎をコーヒーに落としたクリームのように混ぜていった。

 遠く高く幾重にも体の芯をふるわせるような音が響いてきた。空気を混ぜるだけの足を止め、私は遠く地平線の彼方にそれを探した。私の後ろを歩く子供もつられたように足を止めた。私の視線を追っていくとやがてくるりと振り返って、来た道を戻っていった。幾人もが立ち止まり、それを見つけ、走り去っていく。周りに誰もいなくなるまで私はじっと見つめていた。そしてゆっくり歩き始めた。

 街の外れの鍵もかからないねぐらへ戻るころには、わんわんといつまでも耳に残るような警報音が響き渡っていた。小屋の脇を大通りを、ばたばたと駆け抜ける幾つもの足音が聞こえた。

「ただいま。お水少し飲む? それともたまには顔でも拭こうか」

 小屋は二つの部屋に仕切られていた。入ってすぐの台所と奥の寝室として使っている部屋だった。

 寝室へかけた声に応えはなく、バケツを置いた私は割れたガラスのはまった窓を通して、人気のなくなった通りを眺めた。警報の音にかぶって、あの音も聞こえ始めていた。

 おやと思ったのはその時だった。暴力的なまでの太陽の光がほんの少し和らいだ気がして、なのに通りは淡い光りを放っているように見えた。窓だけでは足りず戸を壊すように押し開けて、私は通りへ飛び出ていた。警報音と爆撃機の音が響き渡る中で、細く静かに涙を流すような雨が街をぬらし始めていた。

 雨のように私の頬を涙が伝った。私はあのときの母と同じくらいの歳になっていた。あの緑に囲まれる穏やかな家ではなく、柔らかな音楽と包み込むような静寂の代わりにけたたましい音に囲まれ、……娘は私のように夢のような世界を見ることはなく、やっとその時が来たのだと安堵さえ感じていた。

 そこにそれがあるだろうと直感して顔を上げた。全天をぐるりと覆うほどの大きな輝く橋のたもとを横切って、あのときと同じ黒いかげが迫っていた。


 ようやく親子二人、あの橋を辿って神様の国へと行けるのだ。

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