016:眠らない主人
ぽかぽか、ほかほか。青臭い風が鼻をくすぐる。
さわさわ、きらきら。目に踊るのはみずみずしい葉の隙間に落ちる暖かい光。
するん、ぽとん。落ちたのは文庫本。あたしが読んでた古い本。
だってこんなに気持ちいいのよ。お昼寝には最高の時間。
「シャーリー。そんなとこで寝ていちゃ風邪を引くよ」
マスターの声。目を開けるとあんなに暖かかったお日様は、もう木の陰に入ってる。
くしゅん。あたしは小さくくしゃみした。
「はぁい、マスター」
「起きたなら、お茶を入れてくれないかい? そして、洗濯物を取り込んでおくれ」
「もうお茶の時間? ……すぐ支度してしまうわ」
とんと起きて本を持つ。マスターに借りた大切な本。ちゃんと持って、キッチンへ向かう。
お湯を沸かして、お茶を入れて。あら大変、もうこんな時間だったのね。お洗濯ものを取り入れたら、お夕飯の買い物をしなくちゃね。お夕飯は何がいいかしら。お夜食は? 冷えても美味しいものにしなくちゃ。あたしが寝ていてもマスターが寂しい思いをしないように。
マスターも、他の人たちと同じように、出前でも取ってくれれば楽なのに。あぁだめね、そんなことを考えちゃ。あたしはマスターのお世話をするためにいるのだし、そのために、何でもできなくちゃいけないわ。
そういえば、繕い物が残っていたかしら。お部屋のお掃除は明日で良いわね。……本なんて読んでる時間なかったかしら。お昼寝の時間なんて。あぁでも、とても気持ちがよかったんだもの。マスターもきっとわかってくれるわ。お昼寝の楽しさを知らない人だけど。
しゅんしゅん。お湯が沸いたわ。マスターの好みは、じっくり煎ったコーヒー豆を粗く引いて、たっぷり蒸らして落とすこと。
じっくりじっくり。ぽったんぽったん。……あぁなんて気の長い作業。
一日の時間があたしより長いんだから、こういう作業は自分でやってくれればいいのに。そうじゃなきゃ、あたしも寝なくて済むように作ってくれれば良かったのに。町中であたし一人が出来損ないだなんて、不公平だわ。マスターは知らないでしょ。学校でいつも先生に叱られてたのよ。あたし一人だけ居眠りしちゃうから。
さて、これくらいで良いかしら。お茶請けはクッキーがあったわね。昨日焼いたばかりだから、湿気ってないわね。お皿に盛って、カップに注いで。あら、ちょっと濃かったかしら? まぁいいわ。ちょっとくらい刺激がある方が。
「マスター、コーヒーが入りましたー」
とんとん。研究室のドアを叩いた。
マスターがなんの研究をしてるかなんて知らない。先生も街のみんなもマスターのことをすごく尊敬しているか、逆にすごく軽蔑してるかのどちらかで、よくわからない。研究室の中には紙と機械と水槽と水槽の中のなにかと、いろんなモノがごちゃごちゃあってやっぱりよくわからない。おうちの中のことは全部やってるあたしだけど、マスターの研究室の中だけは、お掃除したことなかったし。
あら、今日はお月様が綺麗だわ。丘の下の街があんなに明るくても、お月様は負けないのね。かたん、窓を開ける。夜の空気はやっぱりちょっと寒いわ。でも、ほら、ガラス越しよりずっと綺麗。ねぇお月様。あなたを見れないのは寂しいけど、やっぱり夜は眠るべきだと思わない? ネコも犬も鳥もみんな眠るのよ。ご主人様も街のみんなも、ヒトだけが眠らないの。ずっとずっと眠らないの。あたし以外、誰一人。眠らないの。夢も見ないの。もったいないと思わない?
「……次のニュースです。本日六時、強力な太陽風が観測されました。地球到達はおよそ四時間後と予測され……」
あら、もったいない物がここにもあったわ。お月様を見るには、ニュースなんていらないわね。
リモコンはどこかしら。あぁ、あった。
「……停止の危険もあると発表――。」
音が消えると、耳が痛いくらい。街の音もここまではこないもの。研究室は防音だから、マスターが何をやっていても聞こえないわ。ねぇ、お月様。……気持ちよく眠れそうよ。
かたん。きいぃ。
あら、ドアの音? マスターかしら、お夜食の時間? 行った方がいいかしら。マスターの喜ぶ顔が見れるかしら。でもでもね、とてもとても気持ちいいの。起きあがれないくらい……。
「シャーリー。聞いたかい?」
なあにマスター、どうしたの? そんなに寂しそうな顔をして。
「ずっとずっと頑張ってみたけれど、ついにその時が来てしまったみたいだ」
その時? その時ってなあに?
「大きな大きな風が吹くんだ。ニュースで言っていたより、ずっとずっと大きな嵐だ」
嵐が来るの? あら大変。窓を全部ふさがないと。お庭の植木もお部屋の中に入れないとね。
「違うんだよ、シャーリー。風が吹くんじゃない。雨が降るんじゃない。見えない見えない嵐が来るんだ。僕も町の人もみんな、嵐で壊れてしまうかもしれない」
みんな壊れてしまうの? 大変! 逃げないといけないわ。みんな逃げないといけないのね。あらじゃぁ、車はやめた方が良いのかしら。道が混んでしまうもの。救急袋はどこへやったかしら。マスターとあたしだけなら、袋一つで一週間は生きていけるわ。
「どこにも逃げ道はないんだ、シャーリー」
……マスター? どうしたの、逃げないの? マスター、熱いわ。胸がオーバーヒートしているわ。氷水を用意しないと。もう新しくないんだから、自分の身体もいたわってあげなきゃ。……ねぇ、マスター、苦しいわ。
「君を一人きり残していくのは、とてもとても気がかりだよ。でも、きっと一人でもやっていけるね」
あたしは一人でも大丈夫よ。マスターの方が心配だわ。自分で何もできないじゃないの。でも、あたしたちはずっと一緒だわ、そうでしょう? あたし、マスターのいくところならどこへでも行くわ。ずーっとずーっとマスターの側にいるのよ。壊れたらきっと直せるわ。マスターの足の修理をしたのはあたしよ。足手まいとになんかならないわ。だから、一人でなんて、言わないで。どこへもいかないで。
「この町には一人もいなかった。僕の研究も間に合いそうもない。でも、世界はとてもとても広いんだ。……きっと、きっと、どこかに同じ人間がいる。その人を探すんだよ」
マスター、何を言っているの? 同じ、人間?
……大変、マスター。冷却剤が漏れているわ。これでは胸が焼き付いてしまう。ねぇ、マスター。離してくれないと修理もできない。
「あぁ、嵐が……」
何? どうしたの? まぶしいわ。……あぁ、空が、風に優しく揺れるカーテンのよう……。赤いひだが緑に変わって、幾重にも重なって、空を、月の空を支配していく。
街の灯りが消えていくわ。ねぇ、マスター、まるで街が空に舞台を譲ったみたいよ。
……マスター?
「あいシて、いたヨ。ぼくらのきボウ、人間ノ子」
やだ、声帯機能部がおかしいわ。マスター、ねぇ、修理しないと。さび付いたら大変よ。ねぇ、マスター!
「タくさんネむって、こんナに大キクナッテ。モうスコシ、一緒二、イタカっ……」
かちり。
最後に私の小さな腕の中でささやかな音が聞こえた。
もう、これで最後だわ。……何も変わらないのに。いつもと同じなのに。死んでしまった、あたしたちの、街。人間って何? ヒトとは違うの? ……答えてくれるヒトもいない。
マスターは何度なおしても、二度と起動しなかった。町のヒトもみんな。故障の原因はわからなかった。
マスターが言ってたわ。どこかにきっと、いるんだって。
……だから、あたし、行ってみることにした。あたしと同じ夢を見る、人間をさがして――。
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