012:耳が聞こえない

 そこはがやがやと無意味なざわめきに包まれていて、ささやき声などとうてい聞こえないほどにうるさかった。肉の香ばしい香りとワインの芳醇な甘さとカクテルの甘酸っぱい匂いが、煙の中に混ざり合って何とも言えない空気を演出していた。

 目の前に座る男は外国語のような話題を自慢げに話し、隣に座る加世子はさも興味がありそうに聞いていた。(同じ学校で同じ寮で同じ部屋で寝起きする私には、加世子がフリをしているだけだとよく知っていた) 男は時折私に視線を移しては返事を欲しそうな顔をし、そのたびに加世子に呼ばれていた。男の隣の太めの男も、加世子の隣の美佐も、同じようなことをさっきからしきりに繰り返していた。

 息が詰まりそうだった。加世子にどうしても言われて顔を出してはみたモノの、それ以上にはなりそうになかった。

 匂いは感覚を麻痺させる。ざわめきは外とのつながりを邪魔し、アルコールは全てを鈍らせる。自分自身に還っていく。……こんなことをしている場合ではないのに。

「ごめん、帰る」

「え、真衣」

「真衣ちゃん?」

 加世子の、美佐の、男達の視線が集まる。気にならないフリをして、私は店を出て行った。


 店を出てもざわめきは収まらなかった。車道を行き交う車のエンジン。すれ違う男女の会話。電話を掲げる手から、漏れ聞こえてしまう、会話。

 風の鳴き声も、木々のささやきも、土の鳴動も、ここにはない。死んだ土の巨大な建物の隙間を、ただ、浮き出た『人』が行き交うだけだ。

 息苦しい。

 店の中だけではない。この街、この都市。ここに来てから、静穏とは無縁だった。


 信号を押し流されるように渡る。客引きの手の隙間を縫うように歩いて、駅へ向かう。ただの荷物のように自動的に運ばれて、僅かな意志で目的地に降り立つ。はき出されるように改札を出て、暗がりへ一歩足を踏み出し、ビルの隙間の空を見上げた。

 消え入りそうな星が、それでも僅かに覗いていた。郷で見たより、ずっと頼りなく、遠く感じる星だった。……真希も、この空を見ているのだろうか。この空の下で、一体、何をしているのだろうか。

 細い路地を抜けて人のざわめきが絶える頃、ようやくねぐらに到着する。ねぐら……寮は、安心出来る場所ではあったけれど、やはり芯から落ち着ける場所とは言えなかった。それでも、身体を持つからには休む場所が必要で、町中よりは多少静かな……女達の独り言ばかりが満ちた寮は、まだ過ごしやすい方だと言えなくもなかった。

 私の部屋は三階で、エレベータを使わずに登り切る。加世子を置いてきたのだから当然誰もいない部屋の戸を開けて、満ちる声は違うささやきに、初めてほっと頬を弛めた。

『真衣、おかえり』

『やだ真衣ったら、またそんな顔して』

 机の上のサボテンの兄弟だった。

「ただいま」

『今日はどこへ行っていたの?』

『加世子は一緒じゃなかった?』

『あれでしょう、合コン!』

『ねえちゃん、よく知ってるな』

『当たり前よ! 情報収集はこんな都会に住む植物にとって、マナーみたいなもんよ』

 喧しくとも二人の声を聞くとほっとした。まだ、大丈夫だと。

「あたりよ。人数あわせにかり出されたのよ。途中で逃げて来ちゃったけどね」

 余り厚くはない壁に、囁くように返す習慣が付いていた。

 サボテンたちの非難とも喝采とも付かない騒ぎを聞きつつ端末を立ち上げた。ノイズしか発さない機械は苦手だったけれど、背に腹はかえられない。

『だめよ! 女としてその発言は頂けないわね。チャンスはいかなくちゃ!』

『俺たちにはチャンスなんかないもんな』

『うっさいわね! アタシはぜーったい、種を残すんだからっ』

「……ごめんね。そのうち新しい子を買ってくるわ」

 輝く端末の画面を見ながら答えた。……その新しいサボテンも彼らの『兄弟』である可能性は非常に、ものすごく、ほぼ間違いなく、確率が高いモノだったけれど。

 苦手でもすっかり慣れてしまった手つきで、端末を操作する。メールは十三件。十件はスパム。二件は友人からのものだった。そして、一件。

 ――本人と思われる人物を発見。場所は……。

『お相手は、花の綺麗な人が良いわ! ねぇ、真衣、きっといい人を見つけてきてね!』

「……ごめん、また後でね!」

 電源が落ちるのももどかしかった。端末を閉じ置いたばかりの荷物を取った。たった今入ってきたばかりの戸を蹴るように押し開けて、心細い星明かりの下、私は街へ飛び出した。


 メールのタイムスタンプは夕方だった。まだ、いるだろうか。いや、真希のねぐらがそこならば、そして出かけていなければ、きっといるに違いなかった。

 電車はそろそろまばらになってきていた。とはいえ、終電はまだ先で、押し流そうと迫る人波を時にはかきわけ、時には端に避けてやり過ごし、とにかく先を急いだ。

 告げられた住所の最寄り駅は降りたことのない駅だった。加世子たちといたあの街よりそこは喧噪に溢れていて、電車を降りた瞬間、くらりとした。金属のカタマリに守られることなど考えたこともなかったけど、それほどまでにうるさい街だった。

 その街の『流れ』はちょっと違って見えた。

 改札へ向かう流れの中で『流れ』のひとつひとつは、ひとつひとつに注目しさえすれば、あがらっているようにも見えた。はき出された流れはたちまち方々へ拡散して消えた。しかし実際は完全に消えたわけではなく、雑然とした『流れ』がやはり、ないわけではなかった。

 流れに乗ると、能動的に歩くことを強制させられた。乗せていってくれる流れではなく、動かなければならない流れだった。そして、耳を塞ぎたくなる喧噪には一定の方向もなかった。つぶやき、うめき、怒り、哀しみ、浮かれ、嫉妬、焦り、後悔。あまりにも個人的な感情が音をたてて渦巻くようにさえ、感じた。

 吐き気がする。押し寄せる音を、処理しきれない。断続的に続く耳鳴りに、きりきり頭が悲鳴を上げ始める。……けれど、『塞ぐ』ことはできなかった。

 大通りを外れ、ピンクのネオンがはじける小道を進んだ。息をするのもやめてしまいたい匂いが溢れる一帯を抜け、街も外れにさしかかる手前に、目的のビルはあった。

 死んだまま放置され数々の虫や小さな動物たちに好きにされてしまったかのようなビルだった。ドアのないエントランスを抜けて、埃の積もった階段を上る。

 こつんこつんと足音が響き、埃の匂いばかりが鼻についた。

 ……意外にも『塞いで』しまえば、きっとそこは静かだった。むかむかする匂いもない。建物の死臭のような埃臭さはぬぐえないモノの、入り込んできて内蔵を支配しようとでも言うような、暴力的なものではなかった。

 五階。案内表示を見れば、最も奥。喧噪から一番遠い部屋を示していた。古ぼけたそのドアに表札はなく、チャイムは押しても作動しなかった。

 扉に手を当てた。喧噪の中……それでも耳を『澄ませ』ば聞こえた。間違いなく、真希の声。

「真希、真希!」

 ドアを叩く。ようやく探し当てた気配に、視界がかすんだ。


「ごめんね」

 向かい合ってまず、真希は言った。二年も経ち、どこかやつれたようなけれど強さを増した瞳を宿す私と同じはずの顔を苦しげに歪めて。

 細くなったからだろうか。いや、違う。髪が伸びたからだろうか。いや、それだけではない。

 違和感と耳に届いた言葉に、反射的に緩く首をふるしか出来なかった。

 部屋着だろうTシャツに緩いパンツ。耳にピアス。爪にはマニキュア。部屋の中でも薄い化粧。しっかりと立った、足。

「……私はもう、還れないし、還りたくない。真衣には済まなかったと思ってる」

 ぽつぽつと押し出すような言葉だった。けれど、真希は真っ直ぐに私を見ていた。

「私は、今はもう、私でしかないの。私は私を選んだ」

「……真希……」

「聞こえないの。耳を塞いでしまった。……あの子のたった一人の母親になるために」

「え?」

 真希はちょっと後を向いて、呼んだ。あどけない声が、届いた。

「済まなかったと思ってる。辛かったでしょ、一人にならない真衣には」

「真希、あの子は……」

「でもね、」

 ぱっと、真希は笑った。……私が知らない母親の笑顔で。

「私、私になれて幸せなの。もう、村には還らない。……そう、伝えて」

 ――頷くしか、なかった。


 実際には伝える必要すらなくて。

 村に還った私は、静かに、身体をほどいた。

『……ご苦労だったね』

 お祖母様の、母様の、土地の、空気の、水の、空の、声が響いた。


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