011:地下室の悲鳴
聞こえる、地下から声が。
そんなはずはない。誰もいる筈などない。俺は確かにヤツを殺して、山へ捨てた。覚えている。ヤツの脈が徐々に消えていくのを。少しずつ冷めていく身体。ずしりと手にかかるいつもは軽く感じていた重さ。土を掘り返す感触。ざくりざくりと残る音。雨上がりの湿気を帯びた土の匂い。
だから、あるわけがない。聞こえる筈がない。地下から今もなお聞こえる悲鳴など……。
*
「きゃっ」
ぱき、と、チョークが折れた。飛び出そうになった心臓に一呼吸置いて振り返る。
音の主は探すまでもなく判明した。教室中の視線を一身に浴びて、バツの悪そうな顔をしている。
「どうした……市ノ瀬?」
「あー、なんでもないっす。へへっ」
ポニーテールを揺らして、背後の美作へ目配せした。興味が逸れたようにばらばらと視線が外れる。……なんてことはない。居眠りしていたのをつつかれたかどうかしたのだろう。跳ねる心臓を抑えつつ、平静を装う。大丈夫、不自然な事など何もない。いつもの俺ならどうするか。少しにやりと笑おう。引きつらないようにだけ気をつけて。少し意地悪なことを言えばいいか。市ノ瀬はクラスでも賑やかな少女だ。上手く合わせてくれるだろう。
「ぼんやりしているからだ。いいか、ココは試験に出すからな」
「えぇっ、せんせ、もう一回っ」
「次いくぞー」
「あぁ、殺生なっ」
くすくすと忍び笑いがまったく忍ばれずに響く。僅かにほっとしながら改めて黒板に向かう。教室の一番前、一番窓側の空いた一席が目に入り、努めて平静を保ちつつ、チョークを持ち替えた。
震えそうになる手を意志の力で押さえこむ。何ごともなかったかのように続きを板書する。聞こえてくる音は、こそこそ話に紙の上を鉛筆が滑る音。
悲鳴は聞こえない。熱心に黒板ではなく俺を見るかのような視線もない。ここにヤツはいない。もう、どこにもいない。誰もそのことを知らない。今は、まだ。
遠く鐘の音が響くと、教室は一気にざわめき始める。溜息をつくフリをして、思わずほっと息を吐いた。
「騒ぐなー。ほら、今日はここまでにしておいてやる。日直ー」
「きりーつ」
声より早く、立ち上がる生徒達。その顔はもう放課後だ。
「れーい」
締まりのない声の通りに、締まりもなくバラバラと頭を下げる。俺はいつもの通りに深く頷く。
着席の声はない。それを咎めるほど、俺も堅苦しい教師ではない。声が終わるや否や、生徒の関心は俺から外れていく。部活に、塾に、寄り道の話に。17歳といえどもう女の始まりだ。喧しい、甲高い声が教室を支配する。
教材をそろえて台の上で一度そろえる。風景の一部と変わらなくなった俺は、風景のまま教室を出ればいい。今日は職員会議もなく、担当の部活もない。一人、心休まる家へ買えるだけだった。
「せーんせ」
びくん、と再び心臓が跳ねかけた。大丈夫、教材は落としていない。何気なさを装いつつ、声を振り返った。
「なんだ、渡瀬」
ショートカットの小柄な少女だった。イヤな生徒に捕まったと内心に浮いた思いを押さえつける。渡瀬は活発な少女で、座学より実験や運動など身体を動かす方が得意な少女だった。ごく素直な性格で、覚えは今ひとつながら、質問もよくするし授業態度も良い方だ。教員室での評価も良い。俺にとっても可愛いと言える生徒の一人ではあった。……ヤツと仲が良かったのでなければ。
「質問か?」
「ううん。……うーん、うん。質問デス」
「……なんだそれは」
大きな目をくりっと動かし、僅かに考えた風な仕草をする。単なる質問であれば、もっと単刀直入に言うのが常だ。大きな目が何かを企むように俺を下から凝視する。
「美加ちゃん、元気ですか?」
「大西が? なんで俺に聞くんだ」
ぎくりとしないわけがなかった。公式では大西は病欠となっている。実際は失踪であるはずだった。両親には『いつもの』家出だと思われているのだろう。
「んー、さぁ?」
智香、と呼ばれ、渡瀬はぴょこんと頭を下げて去っていった。半分ほどの生徒が既に出て行った教室を、今度は誰に呼ばれることもなく出る。
大西の両親が異変に気づくまであとどれ程猶予があるだろうか。
俺は一体、どうすればいいのだろうか。
生徒の声に無条件に挨拶を返し、同僚の誘いを断ったのをぼんやり覚えているきりで、俺は心の底から安堵出来る筈の自分の家へ戻っていた。
*
築40年。父は幼い頃に病死し、母も俺が社会人になった年に自分の役目は終わったとばかりに病死した。両親が残した家は標準的な3LDKに、何をこじゃれたのか今となっては謎でしかなかったが、倉庫を兼ねた地下室がついていた。子供の頃にはそれでも狭く感じた家は独りで住むには広すぎた。
ヤツはただの生徒だった。俺にとって、それ以上でもそれ以下でもないはずだった。いつもの家出に何故か俺の家を選び、転がり込んできたのは4日前。悪魔のような子供とは思えない身体で、迫ってきたのは3日前、そして、俺の手の中で冷たくなったのは2日前。
地下室の音は外に漏れにくい。子供の頃、かくれんぼで入り込み後悔したことを今でも鮮やかに思い出す。誰に聞かれることも、誰に気づかれることも、今、俺がそれを聞くこともあり得ない……!
ヘッドホンを被り、音量を上げる。軽快なアメリカンロックが暴力的に耳を襲う。思考さえも押し流しそうなドラムのビートにようやく人心地つくようだった。
と、今度は覚えのある音が割り込んだ。割り込むように指定してあった携帯電話の着信だった。オーディオを止め、電話を取る。
「はい、村西」
「あ、せんせ? こんばんはー。渡瀬でーす」
「……なんだ、渡瀬か」
「誰だと思ったんですかぁ?」
くすくす笑う声が電波を通して耳まで届く。時計を見れば23時を回るところだった。十分、夜中である。
「良い時間じゃないか、ふざけてないで、用件はなんだ」
「美加ちゃん、元気ですかぁ?」
「だから、大西は――」
ぎくりと身を凍らせた。確かに聞こえた……地下から。
「……んな、はずは……」
「せんせ、知ってました? 美加ちゃん、ずーーっと先生のこと好きだったんですよぉ」
「何を言って……」
「そしてね、美加ちゃんのことを大好きだった人もいるんですよぉ」
くすくす、笑う。くすくすくすくす、ヤツの唇を思い出す。
思わず階段を下りた。携帯電話を掴んだまま。1階に降り、さらに階下を目指す。
扉を開ければ冷たい湿った空気。スイッチ一つで浮かび上がるそこには、誰もいるはずはない。そう、いるはずはないんだ。あの悪魔のような女など……。
「先生、美加ちゃんはどこですか?」
それは、れっきとした肉声だった。
*
「知ってるんだよ、これって、ストーカーって言うんだよね?」
「……」
先生のうちから回収してきたスピーカーは五つ。なんでも五つあれば、サラウンド効果とかで地下室から音が出てきてるように聞かせることができちゃうんだそう。良くわかんなかったけど、気にしないことにした。
遠くからサイレンが聞こえ始めた。こんな夜中の住宅地、さすがに良く響く。方向は反対だから、僕たちと鉢合わせしちゃうことはないだろうけど。
「良かったのか」
「うーん、わかんない」
美加ちゃんはいない。僕は美加ちゃんが大好きだった。家で機械をいじるしか脳のない兄貴も美加ちゃんのことが大大大好きで、美加ちゃんは死んでも良いほど先生が好きだった。
大好きな先生にやんわりとしっかりと、首を絞められて。
兄貴の小さなレコーダーには、最後の美加ちゃんの声がノイズ混じりで収まっている。
『先生、大好き――』
美加ちゃんは今、幸せなんだろうか。
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