010:生贄の踊り
夕日に溶けてしまいそうな後ろ姿に、僕は言葉を投げかけようとして、できなかった。後ろから吹き来る風に邪魔そうに長い髪を押さえ、振り返ったからだ。
僕と同じ位置にある顔は笑っていた。今にも燃え尽きそうな夕日を見、紅一色に染まりぬいた草原を見、今が幸せなのだと僕に語ろうとでも言うように。
「どうしたの?」
ふと、逆行に陰ったまだどこか大人になりきらないような小首をかしげる仕草で、影が聞いてきた。僕は慌ててかぶりを振った。――僕は泣かない。泣いてなんかない。僕には泣く資格なんか、ない。
「なんでもない。そろそろ帰ろうか」
「もう少しだけ、いさせて」
「……太陽が沈みきるまで、だからね」
再び色を変える空に目を転じた様子にほっとした。そして、吹き抜けた宵の風に、腕を抱いた。また一日が過ぎていく。また一つ、近づいていく。
後戻り出来ない道が、近づいてくる。
*
その朝も何ごともないかのように、ナーサは僕を起こしに来た。朝一番の光がためらいもなく開けられた窓から差し込むと、金色の髪で光がはじけてた。寝ぼけ眼の僕の目には太陽がもう一つ現れたようだった。
「おねぼうさん! 早く起きて頂戴。ご飯が片づかないわ」
「ナーサ……」
「学校へ行かなくてよくて、お迎えまで時間があるからって、お寝坊さんはよくないわよ」
くるくると回る。窓を開け放つと、内側に入れていた花の鉢を出した。起きない僕の毛布をはぎ取り、着替えまで出してくる。目をこすりながらもベッドの上に起きあがった僕を見ると、一つ頷きようやく台所へと去っていった。
しっかり者の姉だった。周囲の誰もがそう言った。僕も全く同感だった。ナーサへの賛辞の影についてまわる僕への批判が見えていても、頷かないわけには、いかなかった。それほどナーサは誰からも好かれていて、出来のよい姉だった。……双子の。
なのに、今日。ついに、今日になってしまった。
ふと顔をあげた先には、小さなカレンダーがかかっている。×と○と数字が書かれ、今日はついに、×が○に重なる日だった。
泣かれたり、なじられたり、怒られたり、閉じこもってしまったり……そうされたほうがどれだけ楽だったろう? それよりなにより、どうしてなんだろう? どうして、こんなことになってしまったんだろう?
×が増えるに連れ、ナーサを見るみんなの目つきが変わっていった。賞賛のまなざし、誇らしげな視線、同情的な対応、その内容は様々だったけれど。そして、ナーサ1人が変わらなかった。
いつもの通りに起き出し、僕らの朝食を作る。おばちゃんたちに混じって井戸端で洗い物をする。重いカゴを下げて市場から帰る途中で、顔見知りと立ち話し、女の子たちの”サロン”に顔を出す事もわすれなかった。さすがにボーイフレンドとは別れてしまったようだったけど……僕が”学校”へ通う間の生活を続けていた。
まるで、ナーサ1人だけ、その事実を知らないかのように。
いつまでもベッドの上にいるだけでは、それこそナーサに叱られてしまう。僕は朝だというのに鉛のような手足を動かし、よれよれと立ち上がった。ナーサの用意した普段着を身につけ、ベッドの跡もそのままに、ドアをあけた。
香ばしいパンの香り。ミルクの甘い香り。混じって僕のもとへ届く。鼻の奥がつんと痛い。慌てて瞬きし、涙がこぼれるのを防いだ。
誰かを責める事ができたならどれだけ楽だったろうか。いっそ拒否する事ができたなら。
「ナシンが出世して、神父様になって、この国を守るようになってくれたら、あたしも父さんも母さんも幸せなの」
父さんも母さんもずいぶん前に流行病にかかって死んでしまっていた。しばらく孤児院に厄介になった僕たちが2人で暮らし始めたのは、ほんの2年前の事だった。ずっと、もっと、2人きりの生活が続くと思っていた。
そう、ほんの半年前まで心配していたのは、ナーサがいい男を捕まえてきてしまったらであって、こんな理由ではなかった。心配の先には必ず幸せな未来があるはずだったのに……一緒に始まり、一緒に進んできた僕らの道は、今こんなにも遠い……。
……だめだ、ナーサが心配する。僕が泣いちゃだめだ。
「だから、これからは……これまで以上に、頑張ってね」
きゅっと胸元のリボンを結ぶ。白いズボン、足元まで届く白い長い上着。上着の前はボタンで留め、白いリボンを胸元に結う。僕の正装。これからの。
ナーサがこれを結うのは、最初で最後になる。
対するナーサも、正装をすませていた。ナーサも白い。白い丈の長いスカートに、腰丈までの上着。胸元には、百合の花。
僕と対になるような衣装だけど、まとう性別でこんなにも意味は異なる。
とどめておく事が出来なくなった涙が、ひとつ、零れた。一つ零れてしまえば、後はもう止まらなかった。
次から次へ落ちる涙に、こみ上げる嗚咽。すぐにかみ殺す事すらできなくなる。
涙に濡れた手がふと、止まった。そして……ふわりとナーサの柔らかい髪が、目の前にあった。
「大丈夫。ナシンは1人じゃないわ。そうでしょう?」
「ぼ、僕は、でも、ナーサは……」
「あたしは平気よ。あたしも1人じゃないわ。……それに、みんなが覚えていてくれるもの」
「でもっ」
「あたしの笑顔ばっかりきっと覚えていてくれるのよ。素敵じゃない?」
「……でも」
「泣いちゃダメ。ナシンはみんなの誇りなんだから」
どうしてだと、ずっとあの日から、思い続けていた。どうして、僕が選ばれたのだろう。
どうして、こんな事が必要なのだろう。どうして、誇りだなんて言われるんだろう。
”学校”で成績が上がれば上がるほど、知れば知るほど疑問に思わずにはいられない。僕はただ、どこかの寂れた村でナーサと一緒に静かに暮らして行ければいいと思っただけだった。孤児院の院長先生に勧められたときも、ずっと落ち着いた暮らしができると思っただけだった。
なのに僕は、選ばれてしまった。そして、ナーサは……。
「ナシン、これはね、運命だと思うの。神様たちがあたし達に与えてくださった、運命だと思うの。仕方がない事なの。……でもね、あたしは精一杯やったわ。こんどは、ナシンが頑張る番」
そして、運命の番人たちが、扉を叩く。
僕の前で静かに横たわるナーサは、眠っているのだろう。目を閉じて身動き一つしない。僕の手には銀色の光があった。持ち上げれば、鏡のように研ぎ澄まされた、ナイフ。
すっかり腫れてしまったまぶたは、顔を洗ったくらいでは戻らなかった。けれど、僕らの周りを取り囲む幾人もの”ヒト”たちは、何も言わない。
僕ももう、何も思わない。これは儀式。必要な儀式。排除の為の儀式。融合の為の儀式。ナーサが望んだ儀式。僕達が、一人前になるための、儀式。
ふと腕を上げて、そして、下ろした。重い手応えがあった。……そして、視界に、光が走った。
遠くなる意識の中で、僕は多分、未だ来ぬ時間の先を見た。雄々しく羽ばたく純白の羽根。振り向く相貌は僕達のもの、でもそれは……僕ではない。
快活に話し、事態の急変にも動じない。穏やかな笑みと、意志の強そうな瞳。
あれはだれ?
思う片隅で別の声が聞こえた。
――生贄は誰?
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