005:影踏みの呪い

「天上には神様のお城があるのです。メリッサのお祖父様は重い身体を脱ぎ捨てて、神様の元へ召されたのですよ。だから、泣くのはおよしなさい。お祖父様はいま、本当のお幸せの中にいるのです」

 メリッサは泣きはらして真っ赤に腫れてしまった目を神父様に向けた。神父様は大丈夫だからとメリッサにほほえみかける。メリッサはじっと神父様を見ていたかと思えば、瞬きもせず時折しゃくり上げながらようやく言葉を紡いだ。

「お祖父様に会える?」

 神父様の笑顔は一層深くなった。誰が見ても安心する笑顔だ。メリッサばかりではなく、ちらりと私にまで視線を投げてくる。

 ほら……とでも言いたげに。ユーアンだって同じなんだよ、と。

「もちろん。メリッサがこの世でのお務めを全て終えたら、神様のお城で会えるよ」

「本当?」

「本当だとも。だから、泣いていてばかりはイケナイよ。今日はおうちへ帰ってご飯の時間だね。明日はまた、畑のお手伝いをして、明後日は学校の日だね」

「えっと……うん」

「毎日毎日をちゃんと暮らしていれば、いつか、必ずおじいさんにも会えるよ」

「……うん!」

 まだ、メリッサの目は赤かった。けれど、しゃくり上げてはいなかった。立ち上がって、早く帰ろうと私の手を掴んで引いた。

「ユーアンも。前回の学校、おやすみしたね? だめだよ、無断でさぼっちゃ」

 引かれるままに足を踏み出した私に、神父様は声をかけた。ちょっと振り返ってみると、困ったように……やっぱり微笑んでいた。

「いいの。私は神様のお城には行けないから」

「え?」

 怪訝そうな声を聞いたけれど、その時はもう、メリッサに引かれるまま歩き始めていた。


 すっかり引けた客席に、私はただ座り込んでいた。一つ一つがすばらしくて、誰も彼もが魅力的で、けれど何故か恐ろしくて、動く事ができなかった。頬は上気し、心臓はどくどくと脈を刻み、足には力が入らなかった。

 熱に浮かされたような友人や、すっかり上気して足取りも軽くなった両親は、私を置いて出て行った。私の事など気付かなかったのかもしれない。私以外に気付かなかったのかもしれない。

 一〇年に一度廻ってくるという旅の一座の興業は、私には初めての出来事だった。大人達にも珍しいのだろう。三日の興行期間中、村人総出で毎夜のごとく、村はずれの特設舞台に押しかけた。最終日はちょうど満月で、赤々と篝火に照らされた舞台の上に青白い月明かりまでが落ちて、幻想的な印象を増していた。

 舞い飛ぶ幻の蝶、赤と青にきらめくナイフ、宙に浮くかのごとく細い綱の上で軽やかに舞い遊ぶ妖精のような小人。

 そのどれもにあるはずのモノがなかったのだ。

 気付いて覚めてしまった私は、思わずあたりを見回した。隣にはメリッサがいて、その隣には母がいた。父はさらに母の隣。もう一方の私の隣は幼なじみのジムニーで、顔の半分の黒いかげを篝火に揺らしながら、やっぱり舞台を一心不乱に見つめていた。

 舞台には影がなかった。舞台そのものが輝いているように、どこにも影がなかった。

 怪訝な私の視線に気付いたピエロは、殊更丁寧にお辞儀をした。

 薪が燃え尽きたのは多分深夜に近い頃で、一層蒼くさえ見える月が真上にこようとしていた。心配されているのではないかと頭の片隅で思いながらも動けないで居た私に、声がかけられ、ようやくの思いで首だけを廻らせた。

「早く帰った方が良いヨ。影を踏まれてしまウ」

 どこか訛りのある声で、小柄な男だった。サスペンダーで釣られたスラックスはだぼだぼで、襟元を崩したシャツがはみ出しかけていた。見覚えがあった。メイクを落として、すっかり普通の顔になってはいたけれど、あの、ピエロだった。

「影?」

「君は気付いたんだろウ?」

 青白い月の光に浮かび上がる舞台の上で、やはりピエロには影がなかった。存外にも軽やかな動きで、ピエロはくるりと回ってみせる。

「なんで……」

「知ってル? 影って重イんだ」

 くるりくるりとピエロは回る。とんと蹴って、板張りの舞台に音もたてずに着地する。あの、妖精のような小人のように。

「それトも、君も仲間になるかイ?」

「仲間……?」

 思わず身を乗り出した私に、ちかりと月が……瞬いた気がした。

 蒼い満月は見上げた空の真上の位置に座していて……まるで神様の居場所とこの国の間を、遮っているようだった。

「むかーシ、むかし、神様はとてもとても困っていたのでス」

 謳うように、語るように、ピエロの声が飛ぶ。それにあわせるように、満月が光を増したようだった。空には雲一つなかった。私たちは村も森も草原も海も、みんなまるまる見下ろされていた。

「地の底深くを選んだアクマが、月で神様が地上を見張れなくナる一晩を狙って、地上で悪の限りを尽クすのが、当たり前になっていたのでス」

 見下ろせば、月に照らされた私の影が、濃く強く地面と椅子とを覆うように這っていた。月明かりでこんなにくっきり影が見える事を、私は初めて知った。

「神様は困っていたのでス。そして、地上にも飽キたアクマは、ある提案をしましタ」

 ふいと、ピエロの動きが止まった。片手を前に、片手を後ろに掲げて、大仰に礼をする。

 ぞくりと背中が寒くなった。振り返っては行けないような気がして、動けなくなった。

「影踏みをしましょう。あなたの申し子達と、影踏みをするのです。踏まれた影は、肉体の裏である影は……わたしのものになるのです。魂はあなたの元に残しましょう……もし肉体が朽ちるならば」

 声と共に、冥い何かが私の影を……踏んだ。


 正確には、行かれないわけではないんだろうと、私は考えていた。メリッサが空腹に気付いて飛び込んだ食堂で温かい食事を済ませた後で、ベッドの脇の窓から、細くなった月を眺めていた。

 困った事に、へたり込んだまま日が昇るまであの場にうずくまっていたにもかかわらず、体調に変化なんかなどなにもなかった。温かい太陽の光をあびてようやく足が動くようになった私は、空腹を感じる事もなく、転んでも傷一つ負わなくなった。

 肉体の裏は、そういうことなのだろうと、思い始めていた。『彼』は言っていたのだ。もし朽ちるならば、と。

 私の生活は今までとさほどどこも変わらず、だからなんだか毎日が……おかしくなった。


 今日も、細い月が昇る。月の出と共に、抱えられるだけの荷物を持って、村を出ようと思い立った。



初出:2006/09/09

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