第3話

 佐渡に犂という農具が伝わったのは明治二三年(一八九〇年)、権治が生まれるより一〇年も前のことである。同年東京で開かれた内国勧業博覧会に、佐渡から上京した茅原鉄蔵以下三名が興味を抱き、農商務省で技師を務めていた横井時敬に指導を仰いだ。その結果、福岡県で牛馬耕の権威として名高かった長沼幸七が推薦された。長沼は九月に佐渡へ渡り、犂を持ち込んだ。

 牛馬に引かせて土を耕すこの農具の歴史は古く、延長五年(九二七年)に作られた法令集『延喜式』にはその使用法を見ることができる。ただ、普及は西日本が中心で、全国的な普及は千年以上後の明治を待たなければならない。

 その普及の立役者となったのが馬耕教師という人々であるが、農業生産力の増大を目指す政府の方針もあって農民たちは農業技術を様々に吸収しようと活発な動きを見せた。折しも、いわゆるお雇い外国人の一人であるドイツ人農学者、マックス・フェスカは日本農業の欠点である耕耘の浅さを指摘し、それを解消しうる道具として、福岡県で用いられていた抱持立犂という在来犂を挙げた。この農具は慣れない者には操作が困難で、村の中でも使い手は一人や二人ぐらいしかいないという有様であった。なんかんをはじめ、日本の馬の激しい気性もあって、馬耕教師の存在は深耕を実現するのに不可欠であった。

「ではどうして、田を深く耕さなくてはならないのだろう」

 二度目に新穂村を訪れた順蔵は、若い農夫を集めてそんな質問を飛ばした。相変わらず垢抜けた言葉遣いをしている。権冶も輪の中にいる。順蔵は初めて訪れた時のように馬を事も無げに落ち着かせて犂を取り付けていた。

 農夫たちが近くの者たちと囁き合う。農業と無関係の者も興味本位で見物に来ていた最初に比べて集まりの具合は悪かったが、その分若い農夫たちの表情は真剣だ。忠一の姿はないが、順蔵が村全体に受け入れられるのもそう遠くない話に思えた。

「では実演の前に話をしよう」

 誰からも答えがないのを見て、順蔵は微笑みを浮かべた。どことなく楽しそうで、語り出す言葉にも軽やかさが宿る。

「簡単に言えば、農作物にとり深く耕された土こそが理想だからだ。すなわち深く肥沃な土地こそ生産力を上げられる。深く耕すほど根を深く張ることができる上、水は深く染みこみ、肥料の分解吸収力も強くなる」

 そう言って順蔵は、馬の手綱を持った。左右二本、シュロを三つ縒りにしたもので、牛を扱う場合は右側一本で済むものだという。

 それが馬の口に取り付けられた轡に続いている。順蔵は最初に、馬の背に小鞍を載せてから手綱をはじめとする紐や綱をつないでいった。小鞍こそが馬にとっては重心の位置となり、これがまずいと馬を巧みに扱えないどころか、けがをさせることもあるから、特に慎重にするようにと、丁寧ながら真剣な口調で農夫たちに言い含めた。

 手綱によって馬は従順に歩き出した。最初の講習会で順蔵が見せたような、細紐一本で興奮を収める技が見られる機会はなさそうだった。

「後ろからではわかるまい。横へ回って追いかけてみてほしい」

 権冶たちは言われるまま順蔵と馬の真横に回り、移動に合わせて歩いた。

 前回は声によって御していたが、今回は手綱の操作で馬を動かしていた。第一歩を踏み出すときには手綱を波打たせ、進行中は必ず左手で真横に打っていた。停止や後退、回頭と一通りの動作をしてみせたが、順蔵の手綱遣いに馬は一度も反発を見せなかった。

 手綱を持つ両手は、把手と大取かじを掴んでいて、馬と同時に操っている。沈んだ犂先が両手の動きによって土と共に浮き上がり、掘り起こす。土塊はほとんど飛ばない。順蔵と馬が歩いた周りはきれいなものだった。

 田を五往復して、順蔵は「ドー」と声を上げて馬を止めた。周囲からため息が漏れる。彼らの眼差しには尊敬が宿っていた。

 順蔵は自分の周りに若者たちを集め、犂や手綱を操る手つきを、解説を交えて語った。その言葉の端々には詳細な数字も表れる。手作業で鍬を扱った時と、牛馬によって犂を引かせた時に、土の深さにどれほどの差が表れるか。犂を持つ時どんな姿勢や服装が必要か。なんかんと呼ばれる馬をならすためには何をするのか。そして能率の指標となる労働時間がどれほど短縮できるのか。全てを理解できたわけではないが、在来の農具を扱うだけでは触れられないほどの奥行きを感じた。

 日暮れの頃に順蔵の講習会は終わる。その帰路、誰かが佐渡おけさを歌い出す。

 権冶は馬の背に乗せた農具を担ぎ、それに合いの手を入れた。

「懐かしいな」

 同じ新穂に生まれただけあって、順蔵もすんなりと参加してくれる。そしてきれいな歌声を披露して、だだっ広い風景の上を広がっていく。

 一人、二人と増え、すぐに順蔵を含めた全員が参加する。

 日暮れの道を行き、やがて一人ずつ家に向けて歩き、離れていく。定宿に逗留する順蔵に最後までついていったのは、家が最も遠い権冶であった。

「今日も素晴らしい講義でした」

 周りがいると気恥ずかしくなることを言うと、順蔵は柔らかな笑みを見せて礼を述べた。

「やはり新穂はいいな。帰ってきて良かったという気にさせてくれる。それになかなか素直で熱心だ。村によってはよそ者扱いが激しくて、敵愾心を燃やすような輩もいるから、大変だよ」

 順蔵の話では、農村では得てして新しいもの、よそ者に対する警戒が強いのだという。今回のように馬耕を教えに行くと、わざわざ気性の荒い馬を選んであてがったり、犂を入れにくい土地で技を披露するように求められたりすることもあったらしい。

 順蔵を迎え入れた新穂村の人々は友好的だった。離れていた時期が長かったとはいえ、よそ者ではないからかもしれない。

「私は平気だったが、村の気風を前に失敗して信頼を失う馬耕教師もいるそうだ」

 のんびりした口調の順蔵は、人聞きだと前置きした上で、牛馬をうまく扱えなかったために信頼を得られず、馬耕を根付かせる仕事を達成できずに村を去った馬耕教師の話をした。

 順蔵はそのような仕打ちをした村人たちに怒ったり、失敗した馬耕教師に同情したりする素振りは見せなかった。お互いに真剣勝負だから失敗して信頼を失うのは仕方がないと、馬耕教師を戒めるようなことを言った。

「百姓は土と農作物を、我々馬耕教師は牛馬を誰よりも知っている。その矜持が田畑の上でぶつかり合い、火花を散らすのだ。その思いはいかに良いやり方で仕事ができるかに帰結する。だからこそ失敗には手厳しく、成功には素直だ。村の若い百姓たちは、得てして一度実力を示してやれば誰よりも熱心に学んでくれる。権治、いしのように」

 振り向いた順蔵の瞳は、村の後輩である自分に希望を見出したようにきらきらと光って見えた。なんかんへの恐怖心が薄れたわけではない。同じようになんかんの脅威の傍で育ってきた男が、何でもないように馬を扱う姿に自身を重ねられるほど、手綱さばきに自信を持てるわけでもない。しかし村の気風と相対しつづけ、信頼を集める仕事を続けている順蔵についていくことで、何かを得られる気がする。

「馬耕は佐渡に根付くと思いますか」

 なんかんと呼ばれる荒馬、徳川幕府の時代かそれ以前から続く農家の気風、離島ならではの気質、新しいものへの興味と警戒心。乗り越えたり味方につけたりするべきなのはいくつもあって、相応の苦労を覚悟しなければならないだろう。

「根付くさ。一度やってみればわかる。なんかんに接すること、その扱いを覚えること、超えるべきものはいくつもある。しかし超えてしまえば人力など比較にならないほど野良仕事は楽になる。一度楽を覚えれば人間誰でもそれを捨てられないよ」

 最後は少し皮肉っぽく笑ったが、真理を言い表していると思った。一日がかりの仕事を半分以下の時間で終わらせた上、人力では達成し得ないほど深く土を掘り返すことができた。うまくいけば能率も生産力も大きく上がる。そうして作られた余裕が、村人たちの心にゆとりを生むかもしれない。

「農具の発展にはそれ自体役割があるものだ。牛や馬は何十人分の仕事を一頭でやってしまうし、労働時間も短くて済む。それに今日やってみてわかったはずだが、人間の仕事より牛馬の仕事の方が土を深く耕せる。能率を上げ、仕事の質を上げ、ひいては人間から重労働を解放できる。そうなると余った労働力は農業以外の稼ぎを得るために働くことができる。それがひいては、村全体の利益となるんだ」

 一台の犂の向こうには新穂村全体の姿、そして未来が浮かび上がっていた。目の前の牛や馬をうまく扱うのが精一杯では思い至らないことである。その思いを素直に告げると、今はそれで良いと気軽に順蔵は言った。

「全力を常に尽くすことから始めれば良い。それを全員が徹底すれば、結果的に村全体の利益になる。権治、今すぐ犂の向こうに村の全景を見ろとは言わない。それよりもいしが今見るべきは牛や馬のケツと土だ。私には私の、いしにはいしの分限があるのだ」

 順蔵の声は次第に熱を帯びていく。酒が入れば、このまま熱く農学論でも一席打ちそうな勢いだ。養子に入る前とは才気の性質が変わったような気がしたが、初めてのことを教えて回り、勇気づけていくのにはこれ以上ないほど望ましい気質だと思った。

 歩いているうちに日は沈み、順蔵の顔さえ見えにくくなる。権治は足を止め、がんとう提灯の中に仕込まれたろうそくに火を灯した。釣り鐘型の提灯の内部には自在に回転するろうそく立てがあり、反射鏡によって光を前に集中させる仕掛けだ。それほど遠くを見通すことはできないが、足下へ注意を払うには充分な光であった。人家を集められない農村の道では長く親しまれてきた道具である。

「暗いな」

 順蔵のつぶやきは三歩先の闇へ吸い込まれていくようだった。

「昔からこんなものですよ。泉は違いましたか」

「少しだけ明るかったからな」

 順蔵の垢抜けた感じを見ていれば納得できた。家が集まれば漏れる光で道を照らしてくれることもあるだろう。

 やがて順蔵が逗留している宿にたどり着く。田畑しかない周囲はやはり静まりかえっていて人気もない。田植えの時期なら夕方から夜にかけて蛙が合唱するものだが、間もなくカブタ打ちが終わり、冬の備えにするホエキ(柴)やベエタ(薪)を蓄える山仕事の時期だ。そのことを話すと、そんな時期になったのか、と順蔵は笑った。

「泉でもやっていたことだ。馬耕だけ教えていれば気楽だがな」

 その気持ちはわかった。カブタ打ちは寒くて体が動きにくくなるのに重労働をこなさなければならないし、山仕事は冬の山に入らないと始まらない。

「しかし牛を連れていくだろう。せっかくだから馬耕をやるつもりで牛を引いてみたらどうだ」

 それは新鮮な視点だった。山仕事には荷役として牛を連れていく。昔から続いていることだが、牛が犂を引いているつもりで共に歩いてみれば、何か得るものがあるような気がした。

 話している間にも冷たい風が吹き付けてくる。佐渡の気温は一年を通してそれほど変動しない。冬が早く、気温が上がりにくい代わりに、どか雪が降る新潟ほど寒くもならない。それでも吹き付ける風は、汗をかいた後の体には冷たかった。

 別れを告げようとした時順蔵は呼び止めた。がんどう提灯の火は消して、宿の戸から漏れてくる光だけに照らされた順蔵の横顔だが、瞳の輝きだけは強く保たれていた。

「この時代に生きているということは、ある意味では幸せなことだ。この国の数千年にわたる歴史の中で、今ほど新たなことが情熱を持って受け入れられている瞬間はないと思う。私もいしも、そのことを自覚しなくてはならない」

「幸せ、ですか」

 実感がないままその言葉を口にする。言葉の意味を感じ取るには歴史を知らず、戸惑いがちに返事をするしかないのが情けないところだった。順蔵によって存在を知った犂が、実は自分が生まれる一〇年前には佐渡に伝わっていたことを知ったのは最近だし、犂による深耕の長短を語ることさえできていない。

 それを担った長沼幸七は福岡から来た。以来多くの馬耕教師が、福岡をはじめとする西日本から佐渡を訪れている。

 長沼らを生んだ先端地、福岡の壮丁たちなどは、どんなことを知っているのだろう。まだ教わらなければならない立場の自分より一歩も二歩も遠くにいるかもしれないと思うと焦りを感じる。そして競い合ってでも自らを高め、北見をはじめとする佐渡にゆかりのある馬耕教師たちに追いつきたいという思いも、焦りの傍に並ぶのであった。

「順蔵さん、福岡は遠いでしょうか」

 その隔たりは、そして福岡にあるものは、佐渡からしてみたらどれほどのものか。

「ああ、遠い。まず船で六時間、新潟から汽車で二日はかかるはずだ。いまだに佐渡どころか新潟から渡った者はいない。だから権治よ、早く機会を見つけて遠くへ行くんだ。そして旅に慣れ、綿毛のような技術の種を撒いていく。馬耕教師はみな、そうやって生きていくんだ」

 言い残してすれ違いざま、順蔵は権治の肩を叩いた。

「いしが後を追いかけてくれることを期待している。それは私の綿毛をいしという土が受け止めて花を咲かせたということになる。そうなったら馬耕教師冥利に尽きるよ」

 順蔵が立ち去った後、宿を振り仰いだ権治は、しばらくその場に立ち尽くしていた。かつて佐渡という僻地からの求めに応じて海を渡った男がいて、その男の飛ばした綿毛は新穂に根付き、泉へ飛び、新穂へ舞い戻った。それを受け止めるのが自分であってほしいと、綿毛の後継者は言った。

 西日本に比べて数百年遅れている犂の普及が、明治に入ってから進んでいる。その推力はそれまでなかった何かによるものだろう。牛馬耕は便利であり能率的な農法だが、それに魅力を感じて飛びつく農家だけでなく、周辺で多くの人が動いている。まだ佐渡の中で犂を作る者はおらず、順蔵が持ち込んだのは福岡で作られたものだ。

 時代の風というものがあるのなら、風向きは明治の四四年間で確実に変わり、大正の一〇年間で風力は強まっている。良くも悪くも、全ての人間がその影響下にある。綿毛のように遠くの土地で技術という種を撒き、馬耕という花を咲かせる馬耕教師は尚のことだ。

 自分より広い土地を見て、地平を犂と共に歩いてきた男の言葉は、潮騒さえ耳慣れない権治の耳には実際的で、何より憧れを伴って響いていた。


 順蔵が説き、権治が望んだ機会は思ったよりも早く訪れた。

 順蔵が泉の北見家へ戻っている間、福岡から犂を携えた勝永増男という男がやってきた。大正一〇年(一九二一年)一〇月のことである。

 勝永は講習の際、自らを長式農具製作所の技術員と称した。それは福岡において、磯野や深見といった犂の製作会社と競合する会社であり、犂を売るだけでなく地元の人々に使い方を伝授することで普及を図っていた。

 犂の製作会社の多くは、全国から農民を受け入れて犂耕技術を惜しげもなく伝えていた。長式農具製作所も例外ではなく、農会のまとめ役である老農のもとへ足繁く通う商魂のたくましさもさることながら、商談の直後に服を着替えて馬と向き合う犂耕への情熱は、権治が感じ入るのに充分だった。

 そんな福岡の男に、権治は講習会の間から何度も質問をした。馬の扱いから犂の上手い操り方といった技術論から、それらがよりどころとする犂耕の本質まで根掘り葉掘り聞き出す心づもりであった。

 あまりにしつこかったのか、一緒に参加した農夫たちからひんしゅくを買ってしまった。その時投げかけられた言葉が癇に障って言い返してしまい、小競り合いが起き、講習会の翌日農会のまとめ役に呼び出されて叱責を受けるという一幕もあった。

 それでも勝永は、質問攻めにされたことを意気に感じてくれたらしい。農会に呼び出され叱責された後、集会所で待ち構えていた彼は、その場で九州に来ないかと誘ってきた。

「佐渡にいるだけではとぜなかばい」

 講習会の時には佐渡の言葉に合わせていた口調が、何故かここでは砕けて福岡のそれに変わっていた。やけに人なつっこい笑みで、技術員というたいそうな肩書きを忘れさせた。

「うちの会社にはあさんのような若いのがばさらかいっぱいおって、犂耕にがまだしてるから、きっと楽しいばい。あさんが佐渡に戻ってきてうちの犂を使えば、それだけうちも儲かるでな」

 言葉の端々に福岡の言葉らしきものが聞こえ、抑揚の違いもあってかみ砕くのが難しかった。それでも小競り合いを演じた男に誘いをかけた勝永が期待をかけてくれているのがわかったし、最後に商売っ気を出したところに正直さを感じた。

「良ければ農会にもそれとなく頼んでおく。きっとわかってくれるばい」

 予想もしていなかったことだけに即断はしかねたが、順蔵の教えを実現できる機会は充分魅力的であった。権治は少し考えさせてくださいと、努めて佐渡言葉の抑揚をつけて答えた。二人になった途端地を出してきた勝永に、佐渡の男として対抗したい気持ちがあった。

 それでも権治に考える時間はほとんどなかった。翌日には再び農会から呼び出しを受けて口頭で勝永についていくように言われ、その四日後には佐渡郡農会と新穂村農会の推薦状が突きつけられた。

 考える暇もなくとんとん拍子に進められる強引さに反発は感じたが、少しでも早く囲い込みたい勝永の気持ちは理解できた。そうやって全国から壮丁を集めて技術を託し、綿毛のように時代の風に乗せて地元を初めとする全国へ飛ばす。長式農具製作所の技術員である以上商売っ気の方が強いのかもしれないが、若い世代へ新しい農法を託してくれていると思うと、乗らないのはもったいないと思った。

 権治はその推薦状を受け取り、その場で承諾した。権治は三男だったが、上の二人の男児が相次いで亡くなったため家を継ぐ立場であった。

 その上権治自身も結婚したばかりで、慌ただしさは否めなかった。それでも農会の要請というのが効いたのか、両親と新妻のコウは送り出してくれた。新穂を離れるといっても一ヶ月間だし、男手が必要な稲刈りも既に終わっている。これから田の上で行われるのはカブタ打ちで、父親と七歳年下の弟が穴を埋めることになった。それから先の山仕事はいくつかの家が協力して行うことだから、自分一人が抜けたぐらいなら充分補えるはずだった。

 権治の旅立ちは一一月、カブタ打ちが終わりかける時期であった。新穂村農会でなじみとなった人々や農学校の同窓生、両親や兄弟、新妻のコウといった多くの人々の見送りを両津港で受け、力強く挨拶する。まだ何も成していないとわかっていながら、多くの人に送り出してもらえるというだけで一つ認められたような気がした。

 その人垣の中に、やはり北見の姿はない。農会でも北見を呼び寄せようとしたようだが知らせは届かずに今日を迎えてしまったようだ。

「巡り合わせが悪かったのかなあ」

 農会の仲間は順蔵がいるであろう泉の方を眺めて寂しげに呟いた。順蔵が馬耕を新穂に持ち帰ってからの四年間で、村人たちの気持ちは変わった。馬耕がもたらした能率化や省力化は、今や誰もが認めるところであった。

 犂の向こうに順蔵が見ていたはずの未来は、権治にはまだわからない。しかし可能性を信じることはできる。だからこそ勝永の勧めに応じる気になれたのだ。

 島の外へ出て行く自分を、順蔵にも見送ってほしかったという思いは権治にもある。けれどほんの九歳の違いであるから、どちらかが極端に早く逝ってしまうということもないだろう。いずれどこかで会えれば充分と思うことにする。

 そして願わくは、お互いのふるさとである新穂で再会したい。それまでお互いが抱えて大きく、広くしていったものについて語らいたい。それには佐渡から距離も技術も遠い福岡で、土と牛馬の匂いにまみれる日々を送ればいい。そうすれば順蔵に近づける気がした。

 やがて船が出る。遠ざかっていく佐渡を眺めながら、権冶は初めて海の上で潮の香りを嗅いだ。大正一〇年一一月、権冶二一歳。佐渡では間もなくカブタ打ちを終えて冬支度を始める時期であった。

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